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「神話のブッダ」こそが、我々にとって重要であり必要とされてきた【ブッダという男/清水俊史】より

現代のイエス研究とブッダ論は興味深い共通点がある。キリスト教の歴史を見ると、戦争や暴力を容認してきた一面がある。たとえば、宗教改革者マルティン・ルターは「殺戮し強奪し放火することがキリスト教的であり愛の行為だ」と述べていた。しかし、二度の世界大戦後、イエスの教えが非暴力と平和主義に基づいていることが明らかになった。イエスは貧農の出身で、階級や差別を否定する平等思想の体現者だった。また、聖書には女性蔑視の記述があるが、キリスト信仰が真のフェミニズム思想の根拠になり得ることも指摘されている。

これらの発見には賛否がある。イエスが平等主義者であったとの見方には、現代の民主主義を時代錯誤的にイエスの時代に当てはめているとの批判がある。聖書をフェミニズムの根拠とする考え方に対しても、「聖書にはフェミニズムに反する部分もある」との指摘がある。

本書ではこれらの研究成果の是非については議論しないが、イエスやブッダを「理性的現代人」として捉え直す試みは、近現代の仏教研究とも共通する。ブッダやイエスの時代には現代的な平等主義やフェミニズムは存在しなかった。彼らをこれらの価値観の先駆者と見なすのは、歴史の問題ではなく、解釈学の問題であると認識する必要がある。

「歴史のブッダ」と「神話のブッダ」
近代になり宗教の権威が衰えたことで、我々は伝統的解釈を否定して、初期仏典を自由に読むことが許されている。初期仏典は、仏滅後に仏弟子たちが信仰心を持って編纂したものであり、必ずしも歴史的事実を記録したものではない。したがって、歴史的関心を持ってブッダの実像に迫ろうとするならば、初期仏典を字義どおりに受け入れるのではなく、批判的にこれを読む必要がある。しかし、”批判的に読む”という営為は必然的に解釈を要求するため、先入観なく「歴史のブッダ」を復元することは事実上不可能である。
ブッダは偉大な人物であったに違いないという先入観を、古代や中世のみならず、現代の仏教者も共通して抱いている。古代や中世の仏教者たちが、当時の時代性にあわせて「一切智者であるブッダは、すべてをお見通しである」、「ブッダは超能力を使う」などと神格化したのと同様に、現代の仏教者たちもまた、「歴史のブッダ」を構想しようとするなかで、近現代的な価値観と合致するように、「平和主義者だった」、「業と輪廻を否定した」、「階級差別を否定した」、「男女平等論者だった」と神格化してしまっているのである。
ここで我々は、次の事実に気がつく。すなわち、古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきたということである。現代において、「ブッダは非科学的な現象を事実であると信じていた」と主張しても人々に響かず、むしろ仏教は迷信深い教えだとして敬遠されてしまう恐れすらある。そのようなブッダは現代において求められていないのだ。その時代時代に応じて、ブッダは求められる姿に解釈される。逆説的だが、中村元など近現代の一部の研究者が喧伝した「歴史のブッダ」は、実は歴史上一度も存在しなかった「神話のブッダ」だったということである。
だが、今を生きる我々が、伝統的解釈を否定して、初期仏典から「歴史のブッダ」と名づけられた「神話のブッダ」を新たに構想することは、決して無意味な営為ではない。インドでカースト制度の撤廃に尽力したアンベードカルは、差別撤廃の思想的根拠をブッダの教えに求めた。アンベードカルの仏教理解は、必ずしも公平で客観的なものではなかった。しかし、彼が構想した平等主義者という「神話のブッダ」は、たとえ歴史上存在したことがなくても、間違いなく現実世界を動かす原動力になったのである。このように考えるならば、古代から現代に至るまで、「歴史のブッダ」ではなく「神話のブッダ」こそが、我々にとって重要なのであり、必要とされてきたのである。

ブッダという男/清水俊史

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