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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争⑤/Ⅰ仏法と論理学/5様相論理及び因果説【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]

様相論理および因果説


(1)有無の確立論的操作等としての多値へ

様相論理とは何か
様相論理学は、通常の真偽二値論理に、"真偽不定"という新しい要素を加えたものです。この新要素は「様相結合子」と呼ばれ、疑わしさ、不確定性、可能性、必然性、蓋然性、偶然性などを表現します。様相論理は、日常生活でよく使用される論理形式です。

様相論理の多様性
様相論理は二値ではなく、三値、四値、多値など複数の真理値を取り扱います。一般的には三値論理が最も広く用いられ、四値論理以上は一般的にはあまり形式化されません。

様相論理と仏法
仏法は日常生活に密接に関わるため、真偽二値論理よりも様相論理が適用されやすいと言えます。

日常判断と様相論理
日常生活においては、判断は単純に肯定か否定かでなく、様相論理によって多面的に捉えられます。

現代科学と可能性
現代科学、特に素粒子物理学では、事象が確率的にしか予測できないとされています。これは、因果関係が一意に定まらない世界であるためです。

確率と法則性
素粒子物理学において、一意の因果関係は認められないものの、確率論に基づいた法則性は存在します。これは「不確定性原理」として知られています。

物理学と様相論理
最先端の物理学は、様相論理の概念を取り入れています。これは「世界はどう存在するか」という問いに対する答えとして考えられています。

問いと答の複雑性
人間の思考には先天的な限界があり、基本的には「何か」「何故か」「如何にあるか」という三つのタイプの問いしか持っていません。それゆえ、答えも多様で複雑です。

因果と縁起
因果関係は「何故か」という問いに関連し、仏典でも独自の方法で解釈されています。

確率論と現代科学
現代の自然科学では、確率論が第三のタイプの問い、すなわち「如何にあるか」という問いに対する答えとして用いられています。

自然科学と社会科学の違い
自然科学でも状況把握は必要ですが、社会科学の領域ではその要求がさらに高まっています。人間社会が関わるほど、状況は複雑になり、様相論理がより重要になってきます。

経済学の制約
経済学は特に顕著な例です。社会の経済状態や国民の総需要など、数値で捉えきれない要素を完璧に理解することは原理的に不可能です。最良の理解に基づき、既存の経済法則を適用するしかありません。

因果関係の限界
経済や政治の分野で重要なのは「現状がどうか」ということであり、「なぜそうなったか」という因果関係はそれほど重要ではありません。これは、このような分野においては必然性が欠けているからです。

社会の変動性
社会は人々のニーズに動かされます。一度、社会状況が確立しても、新しい要求が次々と出てくるため、状況は絶えず変わります。

統計と情報操作の重要性
この複雑な状況では、因果関係を問うのはほとんど無力です。その代わり、統計やデータが強調されます。情報操作が行われるのも、このような背景からです。

主観性の影響
特に政治においては、情勢は非常に不確かです。歴史や人物評価も、主観や時代背景によって大きく変わることがあります。

文明と文化の相対性
文明や文化についても、様相を深く考慮することが必要です。特に、グローバル化が進む今日では、他の文化や民族に自分たちの価値観を押し付けることが危険であると広く認識されています。

考慮すべき事例
たとえば、寒帯の文化を熱帯に押し付けたり、無闇に都市化を進めたりするのは問題です。飢餓救済に際しても、人口が増加して元の問題に戻ってしまう可能性があると指摘されています。要するに、各問題に対しては様相を深く考慮することが大切です。

(2)何か(状況)・何故か(因果)・如何にあるか(様相)

一般に「何か」という問いに対する答えは無限です。「これは何か」と問われたら、「それは紙だ」「価値が高いものだ」「難解なものだ」といったように、多くの答えが可能です。そのため、問いの具体的な要求に応じて、その答えが一意に決まります。例えば、「紙とは何か」と問われれば、「木材を加工した白いもの」と答えることができます。

無限に答えが存在するため、「何か」という問いからは最終的に「何故か」という方向にシフトします。例えば、「その木はなぜそこに生えているのか」と問うと、多くの因果関係の答えが可能です。それは「祖父が植えたから」「土質が適しているから」「公害がないから」といった多様な答えが出ます。

「何故か」という問いに対しても答えは無限にあるため、最も重要なポイントまで答えを絞り、それ以外は排除する必要があります。次に、「それはどのように存在するのか」という問いに移ります。

こうした一連の問いに対する答えは多面的であり、一概には言えません。また、通常の学問ではこの問題は「肯定か否定か」という二者択一で考えられがちです。しかし、仏法ではより複雑な「二重肯定」「二重否定」といった概念が出てきます。

仏法においては、「何故か」という問いに対する答えは単なる物事以上のもので、見えない「関係性」や「因から果への必然性」が含まれています。これはアリストテレスの論理学では扱えない概念です。

最後に、仏法から見ると、「何か」という問いは存在の有無を問うだけで、実際にはそれは一時的なもの、すなわち「仮有」です。そして「何故か」では、物質的な存在ではなく、その「関係性」や「理由付け」が中心となります。

総じて、問いと答えは無限に存在し、その問いと答えをどう選ぶかが重要となるのです。これは仏法だけでなく、人間の思考や日常生活にも共通する普遍的な原則です。

因果と仏法の関連性
事件や現象の間には目に見えない「性分」が介在する、というのが基本的な考えです。この「性分」に関わる因果の観念は第二の段階から現れ、仏法はこれを「業因果説」と呼びます。この業因果説は、行い(カルマ)とその結果について説くものです。

究極の答え: 空
因果と「空(くう)」の概念は密接に関わっています。特に「何があるのか」という質問に対しては、「空だ」と答えるのが仏法です。この答えは、事物の本質を最も深く理解する方法と言えます。

反省からの視点
「空だ」という答えは、自分自身を反省する立場から出てくる答えでもあります。この視点からは「中(ちゅう)だ」という別の答えも導かれます。この二つの答えは、世界や事物の在り方を深く理解するためのものです。

答えには深い含みがある
この仏法に基づく答えは、単に質問に答えているだけではありません。実際には、その答えには更なる理解を求める「勧め」が含まれています。この勧めは、「自分自身の視点を深く理解し、反省してみるように」というものです。

社会関係における答えの複雑性
社会関係が involved になると、答えにはさらに多くの「含み」が出てきます。学問と実生活の違いは、この「含み」に敏感であるかどうかです。敏感でなければ、他人からは「無知だ」と見なされる可能性があります。

大人になると更に重要なポイント
大人になればなるほど、この「含み」は重要視されます。質問する側も答える側も、この「含み」に注意を払う必要があります。この複雑性は、「どうあるべきか」という更なる質問を引き出します。

終わりと新たな始まり
結局、「どうあるべきか」という質問に答えることで、人々は新たな人生のステージに入る可能性があります。これが仏道修行の本質とも言えます。

(3)因果と縁起と空

因果、縁起、空の関係性
一般に、因果は「何故か」という問いに応じるものであり、第三の視点、つまり統計的確率には対応しない。仏法と一般の世界観はこの点で合致しない場面も多い。しかし、因果は人間が自然界に適用する枠組みとしては有効です。これは「空(くう)」でありながらも、設定された瞬間に「中(ちゅう)」として機能するからです。

人類の因果認識の変遷
最初、人々は因果を実体として認識していました。ギリシャ哲学やガリレイ、デカルトも同様でした。しかし、イギリスの経験論者が因果性の実体を否定し、因果の理解が進化し始めました。対照的に、仏法は古くから因果を正確に理解していました。

因果と仏法
仏法では因果は縁起の一部とされています。縁起とは、事物が相互に依存して存在する関係性です。そして、縁起するものはすべて「空」です。つまり、因果関係も空である以外の選択肢はありません。

因果と縁起の違い
一般的な縁起と因果の違いは、因果には「必然性」がある点です。縁起は必然性がないものであり、この観点から見れば因果は縁起の特別なケースと言えます。

因果と空の密接な関連性
最終的には、因果も空であると認識することが重要です。これは因果が必然的な関係を指示するが、その必然性自体が空であるという観点からです。

科学と仏法の見解
科学においては「縁起因果」という考え方は存在しません。それは仏法特有の考え方です。しかし、それらの違いを理解することで、因果と縁起、そして「空」についての深い理解が可能となります。
このように、因果、縁起、そして「空」は互いに密接な関係性を持っています。そして、それぞれが人間にとって非常に重要な概念であることが理解できます。

必然性と学問、仏法における因果
学問においては、因果関係には「必然性」が伴います。一方、仏法(仏教の教え)における因果は、学問ほど強くはないものの、ある程度の必然性があります。これは因だけでは果が生じないためであり、因と縁が合わさって初めて果が生じるのです。

仏法における因果の特別な定義
仏法で「因果」と単純に述べる場合、それは「因と縁の合成」を指すとされています。すなわち、因と縁を一つの「因」として考えるのです。

縁起とは何か
縁起は、必然や偶然を超越した概念です。例えば、あなたが私の話を聞いている状況は、「必然か偶然か」と問うこと自体が無意味です。縁起は「必然でもなく、偶然でもない」ものとして扱われます。

因果と先入観
人々はしばしば、「必然か偶然か」という二者択一の視点から物事を考えがちです。しかし、このような狭い思考態度は因果に対する先入観となってしまいます。

人間関係と縁起
たとえば、友人と偶然出会った場合、それを単に因果で考える必要はありません。人間の行動には自由意志が介在しており、単純な因果関係で説明できない面があります。

縁起と決定論
縁起は必然でも偶然でもないと言いつつ、それが何らかの結果を決定することもあります。この意味で、「縁起決定論」とも言えそうです。

科学と仏法の交差点
科学、特に量子物理学では、決定論と非決定論が共存するとされています。この考え方は、仏法とも共通する部分があります。

様相論理と仏法
最後に、様相論理(必然性、蓋然性、偶然性などを扱う論理学)は仏法と多くの共通点を持っています。とくに、「空仮中三諦」の考えと似たような側面を有しています。

言葉「因果」だけでは不完全です。それが「因果律」なのか、「因果関係」なのか、「因果決定論」なのか、それぞれ違う意味を持っています。特に仏法において、「因果」は通常「因果関係」または「因果性」として理解されるべきです。

(4)仏法は二因二果の行業因果――因果は実体ではない、関係である。

仏法では、身口意の三つの行動(三業)に関連する「行業因果」が重要です。これは人間が生成するカルマ(業)についての因果です。人々が自分のカルマを改善していくプロセスが中心です。

「地獄の業(因業)を行って天界を得る(業果)」などということは起きえません。仏法においては、ある種の行為からは特定の結果しか得られないとされています。

修行は連続して連鎖しています。時間的にも空間的にも、行為は連鎖して拡がり、それが功徳となります。ただ、「因果連鎖がある」というだけでは不十分で、どのような因果連鎖が存在するのかが重要です。

もし「地獄の因行から天界を得た」が事実なら、偶然論が真実になってしまいます。仏法における修行の因果論は、その実証可能性が焦点です。

学問における因果は、一因一果の客観的な関係です。しかし、仏法では主観的、つまり一人称の世界での因果関係が重要です。

仏法では、「因縁果報」という考え方があります。因は内なる要因、縁は外なる要因です。そして、果と報も二つの異なる側面を持っています。学問では一因一果ですが、仏法では因も果も二つの要素があり、それが「二因二果説」とされています。

仏法では、因果は心に対するものとされています。果は心に、報は色に関連していますが、本来、心と色は一つです。これによって、果と報も一つとされ、最終的には二果となります。

このように仏法における因果関係は、多面的かつ深遠なものです。それを理解するには各要素に注意深く目を向ける必要があります。

科学と仏法の違いについて
科学では一因一果とされ、すべては客観的な事象に基づいています。対照的に仏法は行動世界(一人称の視点)に基づいており、二因二果とされます。ただし、この「二因二果」というフレーズは、学界で使われるもので、仏法自体ではこのような表現は使われていません。

経験論者ヒュームの視点
イギリスの哲学者ヒュームは、自然界で因果関係を経験することはできないと主張しました。これは、古代インドの哲学者竜樹とも共通する考えです。

ニュートンの考えを参考に
ヒュームが「因果性の客観実在」を否定する一方で、竜樹は「因果の実体化」を否定しています。この点で、ニュートンの『プリンキピア』が参考になると考えられます。ニュートンは、世界の事象は「同一原因から同一結果が導かれる」と主張しています。

自然因果性の否定
古代ギリシャ時代からデカルトまで、自然因果性という考えが広く支持されていましたが、これは科学的には否定されています。

因果は人間の約束事
因果は元々、人間が設定したルール、つまりエンゲージメントとして存在すると主張されています。これは人間が一方的に決めたわけではなく、合理的な理由に基づいています。

ロウ・コーザリティ(法則因果)による整合自然法則
人間がこのルールを自然界に適用することで、逆に自然界から因果法則という自然法則が与えられるとされています。

因果の枠組み
因果は、自然界と人間がギブ・アンド・テイクの関係を持つ際に作用するルールです。このルールは経験法則として働き、カオスを排除する枠組みとなります。

カントと認識構造論
カントの認識構造論も、この因果観と一致しています。それによれば、形のないものも窓の形によって異なる形に見えると言います。

非実体因果法
最終的には、因果は実体ではなく関係であるとされています。特に仏法では、始まりも終わりもない無限の因果が語られています。

竜樹の考え
竜樹は、「客体因果は無い」と主張しており、これは仏教の『涅槃経』で語られる非因非果中道と一致しています。

(5)縁起因果は無窮因果――根本原因・究極結果は断見

因果の基本的な理解

因果は、ある事象(原因)が別の事象(結果)を引き起こす関係性を表す概念です。しかし、因果にはいくつかの異なるアスペクトがあります。例えば、「因果律」は一定の原因が一定の結果をもたらすとする規則性です。「因果関係」は、特定の二つの事象が因果律に基づいて関連していることを指します。最後に、「因果的決定論」は、因果律が普遍的に適用されるとする理論です。

因果の適用範囲と限界

因果は、私たちの日常生活において非常に便利なツールであり、物事を理解する一つの方法です。しかし、因果が厳密に適用できる場合は限られています。例えば、自然界においては「真の原因」や「真の結果」を特定するのは困難です。

因果と時間の関係

因果と時間は密接に関連しています。事象が発生するタイミングは因果の連鎖に依存する場合が多いですが、その逆もまた真です。時間を計る行為自体も因果に依存していると言えます。

因果の哲学的考察

哲学的に考えると、因果は物質的な存在ではなく、人間が世界を理解するための概念やフレームワークです。因果を物質的なものとして考えることは、誤りであり危険です。

「根本原因」の誤用

日常的な会話で「根本原因」という表現がよく使われますが、この概念は非常に誤解を招きやすいです。因果には「始まり」も「終わり」もないので、何かの「根本原因」を見つけること自体が誤りです。

因果は非常に便利な概念であり、多くの場合において事象を理解する手助けをしています。しかし、因果の概念にはその適用範囲と限界があります。特に、「根本原因」や「究極結果」などといった表現は、誤解や誤用を招く可能性が高いです。それらの用語は慎重に扱い、その含意を正確に理解する必要があります。

医学と病気の原因
病気になった場合、医者はその原因を医学的な視点から考察します。しかし、医学だけがすべての答えを持っているわけではありません。

コレラとその原因の多面性
例えば、東南アジアで旅行後にコレラに罹ったとします。医者は「食べ物が原因」と診断することが多いでしょう。しかし、同じ食べ物を摂っても病気にならない人もいるので、食べ物が絶対的な「真の原因」ではないと言えます。

広義の原因としての「生きていること」
病気になるにはまず生きていなければならない、という観点もあります。これは仏教の因果論で言うところの「業」が原因、とも解釈できます。

人間の主観と「原因」
人々は通常、病気や貧乏について物理的な条件や社会状況などを原因として考えがちです。しかし、これは人間が勝手に決めた「実用的な概念」であり、他にも多くの要因が存在します。

運命と因果
運命や巡り合わせも原因となることがあります。これを「普遍的な原因」と呼ぶ人もいますが、一般的には認められていないことが多いです。

因果と個々の行動
仏教における因果論は、個々の行動が未来に影響を与えると考えます。善い行いが善い結果を、悪い行いが悪い結果を招くとされています。

道徳と因果
道徳的な行いと因果は、基本的には異なる概念です。因果は厳格で、悪い行いからは良い結果が生まれないとされています。


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