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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争③/Ⅰ仏法と論理学/3三諦論と判断論【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


三諦論と判断論

(1)論理学は進歩する――思惟を反省する学問

論理学は、形式科学の一部で、具体的な現実知識ではなく、正しい推理を行うための規則を研究します。それは、現実世界とは独立した形式を持つため、形式科学と呼ばれ、この特性により、一般的な推論は経験に左右されず、一貫性と絶対確実性を持つことができます。

論理学は数学と並ぶ形式科学であり、正しい推論を得るための規則の学問です。数学と同様に、具体的な経験や事実からは独立しており、その結果は唯物論者でも唯心論者でも同じになります。形式科学はアプリオリ(先天的)な学問であり、経験が無くても誰にでも理解できる普遍的な真理を追求します。

論理学は推理の形式を組織的に研究し、哲学の基礎となるため、古くから哲学者に学ばれてきました。しかし、現実世界についての新たな知識を生み出すことはなく、その主な目的は既存の命題の真偽を確認し、新たな命題について真偽を確認することです。

また、形式科学は、現実世界とは独立して存在するため、形式的な要素が絶対的な価値を持ちます。論理学は形式の一貫性と絶対性に重点を置いており、カントの論理学の無進歩性の批判にもかかわらず、現代の記号論理学は論理学が進歩を遂げる可能性を示しています。

最後に、論理学や数学の基礎論は哲学の裏付けを必要とし、その理由は論理実証主義者によって提唱されたものです。記号論理学や論理基礎論は、過去の哲学問題が大部分が言語の問題を抱えていることを明らかにし、その解決によって大部分が解消される可能性があることを示しました。これは、新しい発見として注目されています。

(2)繋辞、存在判断・叙述判断、概念

論理学における繋辞(コプラ)と存在判断、叙述判断、そして概念について深く掘り下げます。
コプラは主語と述語の間の関係を表現する言語表現で、論理学では「ある・ない」と「である・でない」が全く異なる意味を持つとされています。
前者は存在判断を、後者は叙述判断を示しています。

叙述判断は事態を平面的に展開して見る行為であり、一方で反省判断は事態を深く掘り下げて観察する行為を指します。これらは異なる行為ではありますが、反省判断の大枠の中に叙述判断が組み込まれているとも捉えることが可能です。

現在の論理学では、存在判断は叙述判断の一部、特に選言判断の無限和として解消されていると考えられています。「がある」という表現は直接の存在判断を指すとされ、これは感覚知識(現量)や概念と密接に関連しています。しかしながら、「がある」を一度出発点として定義してしまうと、論理学も仏法もそれを重視せず、以降は叙述判断や反省判断のみを取り扱うとされています。

特に仏法においては、「である・でない」の叙述判断を特に取り扱わず、現量―思量という反省のプロセスを進むことが強調されています。叙述知識(比量)は仏法では基本的には考慮されず、登場する場合もそれは現量としてのみの存在となります。

概念は、具体的または抽象的な事象について「これは何だ」と問うことから生まれます。概念形成は過去の経験や観察から始まり、それが分析と総合を経て再構成される過程です。この過程は、一定の現象に対して肯定的な認識を形成するために、他の可能性を否定するという意味で「否定の上に築かれた肯定」とも表現されます。

例えば、「これはミカンだ」という存在判断が成立するのは、過去の経験からミカンとその他の事象を比較し、ミカンの独自性を理解した結果です。この認識過程は、一部を切り取り、それ以外を否定するという操作を伴います。

そこから、論争の主題である存在判断と叙述判断の関係について議論が進みます。これは、一つの事物や現象が存在するという判断が先行するのか、それともその事物や現象の特性を叙述する判断が先行するのかという問いについてです。文脈によっては叙述判断が存在判断に帰着するかもしれないし、逆もまた然りで、その関係は「鶏と卵」の譬えのように循環的であると述べられています。

この論理学的な議論の限界を認め、日常語の使用、すなわち社会的な習慣に基づいて概念を形成する。概念形成は日常言語の中で始まり、また日常言語へと帰っていく。

(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為

心理作用(智・情・意)と論理学や仏法の存在判断について考察します。特に、「判断」が智慧だけでなく意志による行為であるという点に焦点を当てます。判断は合理的な選択としての意志行為であり、感情や概念の働きも最終的には意志の決断によるもの。

存在判断や叙述判断が、その開始点から終了点まで全て意志から始まり、意志で終わる。そして、「がある・である・がない・でない」は繋辞(コプラ)として、人間の判断意志を表明する記号。

「ある・ない」は概念ではなく判断であり、これはカントが証明している。「有無二概念」という表現は誤りで、「有無の二判断」が正しい。

存在判断や叙述判断とは別に「反省判断」は論理学には存在しない非論理・非合理の基礎的体験から導かれるものである。これは「観」という行為であり、自分の判断行為を再判断することを指す。

(4)空仮中は判断である――概念や・事物の性質・ではない

反省は通常、倫理的な文脈で議論され、論理的な意味では、一人称命題の領域での自己反省として語られる。ただし、反省判断というのは新たな概念で、その成立理由と内容を理解する必要がある。

仏法における存在判断は、全て縁起(条件生起)の観点から認識される。それは初めの存在判断(現量仮有)から始まり、建立の仮や三諦円融の仮諦となる。

虚妄の存在(現量仮有)を「有に非ず無に非ず」(空)とし、それが空でありながら仮和合を持つところを「中」と称し、その後「無にして有なり(中)」となる。これは二重否定と二重肯定を通じて建立の仮に達する操作であり、最初の存在判断をさらに否定し肯定する反省の過程である。

現量仮有(虚妄の仮有)は感覚によって把握されるが、これは直接的な存在判断であり、何も述べられていない主語存在である。

存在判断と述語判断の循環は、現量と比量の虚妄性の証拠、虚妄の仮の証拠といえる。

仏法での縁起仮有は、無分別界から切り取られた分別として仮立される。その仮有は一時的に存在する様子を示す。

縁起有は存在認定の内面において叙述判断を経て提示されているため、仏法は存在判断を無視し、常に叙述判断だけを相手にしている。つまり、仮も空も中も、存在判断の内面における叙述判断状況に基づく反省判断である。

存在判断の仮は否定され、反省判断の仮は肯定される。叙述判断は反省判断とは異なるが、そのまま反省判断の材料になる。

空仮中は、双照された空仮中であり、存在を内包した叙述判断についての反省判断である。その否定・肯定は、叙述否定・叙述肯定ではなく、反省否定・反省肯定である。

「空・仮・中」は一見すると単なる概念のように思えますが、それらはもっと深く理解すべき「判断」です。出発点となる「仮(仮有)」は現実、すなわち直接的な存在判断であり、単なる概念ではありません。これは概念が存在する対象側、つまり事物から生まれると理解すれば、すぐにわかるでしょう。

「空」は「仮を空ずる」、つまり「有も無もない」という自己の意志による反省判断であり、「中」も「空に依存しない」という決意の反省判断です。したがって、これらは単なる概念ではなく、反省した判断、つまり行動を示すものです。

それぞれの反省判断は、「無辺(全てを否定する反省)」と「有辺(何かを肯定する反省)」として理解されます。それらは概念ではなく、反省的な判断を要求します。

しかし、これらの解釈はまだ完全ではありません。言葉や概念から離れて「空・仮・中」それ自体を論じると、これらは「メタ言語」になります。つまり、「仮」「空」「中」という言葉は、それ自体が「事象」を示すわけではないということです。

これらの言葉は対象を示すものではなく、また特性を表すものでもないため、概念とは言えません。これらは判断そのものを表現します。

しかし、日常言語の世界では、これらの言葉はそれぞれ意味を持つ概念として使用されます。したがって、もし「空・仮・中」が概念であるならば、それぞれに「内包」(その概念が持つ特性)と「外延」(その概念が適用される具体的な対象の集合)が存在するはずです。

しかし、「空・仮・中」が全ての現象に適用可能と仏法が教えているため、もしこれらが概念であるならば、その外延は全ての可能性を含むことになり、それは無分別であり、分別がない状態になります。

外延が全てを含むことは、実際には外延を持たないことと同義であり、内包と外延の関係が破綻します。同様に、もし外延が無限大なら、内包は反比例して無限小、すなわちゼロになるという矛盾が生じます。

結局、これらの名辞は内包も外延も持たないため、概念ではないことが明らかです。それでは、これらの名辞は何かというと、それらは論理語の一種である判断語、すなわち結論を導くための接続詞であると理解することができます。すなわち、「空・仮・中」は「判断」そのものを示すものだと言えます。

(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞

「三諦の空仮中」は、事物の性質や概念、叙述判断を表すものではなく、それらは反省判断を表します。それゆえ、それらは論理学の枠を超えています。しかし、その理解を深めるためには論理学の力が必要で、現代人は昔の人々よりも理解しやすくなっています。昔の人々は、論理学や明瞭な文法の発展がなかったため、これらを理解することは困難でした。

多くの人々、学者を含む、は誤って「空仮中」を概念や特殊な性質と思い込んでいます。しかし、「空仮中」は反省判断であり、その点をはっきりさせる必要があります。空は「限りなく無に近い」ととらえるだけでなく、「限りなく有にも近い」ことも理解すべきです。

論理学的に見ると、「空」は存在と非存在の両面を含む天台の観念です。それは、「空」が事物に対する反省判断であり、「無に近い」よりは「無に似ている」という表現が適切であるという考え方を意味します。それは、空が事物の性質ではなく、判断、つまり「智法」であることを示しています。

語彙は、名詞、代名詞、動詞、助動詞、形容詞、副詞、接続詞、繋辞などの形で分類できます。接続詞や繋辞は、外部対象を指示しない論理語です。これらは、文の脈絡を指示するだけで、具体的な外部対象を指示しない。

仮、空、中という三つの単語は通常名詞として理解されますが、仏法の三諦論では、それぞれ「有(存在)」「非有非無(存在でもなく非存在でもない)」「亦無亦有(非存在でもあり、存在でもある)」と理解されます。これらは、存在や非存在を示す言葉ではなく、反省判断を示す用語です。

名詞と見える単語「空・仮・中」が実は判断の繋辞(コプラ)である、という複雑な語用論、意味論、構文論の問題。

これらの単語は一見名詞に見えますが、詳しく語用学の観点から分析すると、意味としては繋辞に分類されます。「空」は「非有かつ非無」、「中」は「かつ無かつ有」という判断を表す繋辞であると言えます。それらは通常の論理学では語られてこなかった、仏法特有の概念であるため、理解が難しく誤解を招くこともあります。

これらの単語は仏法において特別な役割を果たしますが、それらが繋辞として使われることが明らかになると、これらの単語が「判断」であることも確認されます。しかし、これらは元々意味や概念を持つ普通の単語で、例えば、「空」は「からっぽ」、「仮」は「一時的な存在」、「中」は「均衡」などの意味を持つこともあります。

この点を考慮に入れると、これらの単語は形式科学である論理学と、直接的な理解を求める仏法との間で違いが見られます。それらが仏法において特別な判断として使用される一方で、一般的な言語使用においては、元々の意味や概念を持つ単語として使用されます。

結局のところ、「空・仮・中」という単語を理解するためには、それらが表現する具体的な概念と、仏法における特殊な判断の役割、この両方を理解する必要があります。そして、その理解の基盤は、これらの単語が繋辞、つまり判断の役割を果たしているという事実にあります。

(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述

判断の概念と三諦: 判断には存在判断と叙述判断の2つの形態があり、論理学が取り扱うのは叙述判断です。三諦(空・仮・中)についても、この判断の枠組みを用いて解釈されます。

心の状態と三諦: 事物は観察によって心の中に入り、その事物の心における状態が重要になります。三諦の各要素が心の中で占める割合によって、心の広がりや柔軟性が変わります。この心の状態は、人間の霊的な階層を象徴しています。

智慧と悟り: 判断と概念化のプロセスは智慧の働きによって裏付けられ、無分別智(無上智慧)によって円融(統合)が生じます。この智慧を自分に向けることで悟りが起こります。

反省のプロセス: 仏法における反省は四句分別的で、四度連続して否定反省する手続きからなります。世俗の弁証法とは異なり、天台の反省論法は融通無礙で、特定の配当で操作することが可能です。

中と智慧: 「中」は理智による反省的状況叙述であり、判断であって概念ではありません。これも智慧の一部であり、智慧が得た法の理が表に立つものとされています。

仮空相等とは、事象を反省的に記述する方法です。簡単に言うと、「仮」と「空」は同じだと理解しています。これを考えると、法身の中諦も事実を説明する方法と考えられます。ただ、「仮空相等」を説明するだけでは足りません。「仮」を「空」に導くエネルギーが必要です。そのため、強い意志が要求されます。

仏法には三学がありますが、これは実践的なもので、普通の「学ぶ」とは異なります。三学の中の「戒」「定」「慧」は、それぞれ「仮」「中」「空」と関連しています。では、「戒」はなぜ「仮」なのでしょうか?また、「慧」の背景はどうなるのでしょうか。

「戒」とは自分自身に課す規律です。法律や道徳とは基本的に異なるものです。たくさんの戒律は、修行者の能力の低下により増えてしまったもので、これは他人から強制されるものとなり、効果が期待できないものです。真の「戒」は、自分自身で実践するものであり、それは「仮」とみなされます。

「戒」は悪を防ぐものです。真心で信じ、実践しなければ、ただの形だけのものとなります。また、主要な目的を忘れてしまえば、戒律は達成できなくなります。

人々の交際は、社会で他者との関係を基盤にしています。他者との関係は繊細であり、適切な行動や言葉が求められます。そのため、誠実さが必要です。

このように行動することが「仮」とされ、それが「慧」や知恵に基づいていることは明らかです。これは実践を通して習得されるもので、正確な理解を持つことで問題から遠ざかることができます。

「攀縁」とは、私たちに困難をもたらす日常の関係や業務を指します。これは仏道修行の障害となる可能性がありますが、一方で修行のための材料ともなるものです。

私たちがどのようにこれらの関係を取り扱うかは、自分の選択にかかっています。修行の際には、これらの関係を避けるべきですが、他者を導く際には、これらを利用することもあります。

これまでの話は、論理学の観点からのものでしたが、次に、仏法の観点からのものについて考えてみましょう。

仏法は物質的な世界には焦点を当てていません。それは科学で十分に取り扱われるものであり、仏法では主に人々と物事との関係を中心に議論します。

この関係の中で、仏法の理論や思考の世界が形成されます。これらの概念は、修行者自身との関係の中でのものであり、それ以外のものではありません。

仏法を理解する際の困難点として、物事をそのままの形で受け入れたくなることや、仏法がただの思考の産物ではないかと考えることが挙げられます。

最後に、仏法の理解において、客観的な視点や推論だけでは十分でないことを強調したいと思います。実際の経験や実践を通して理解することが、真の理解へと導く鍵となります。

(7)中の実体化と無分別体

三諦の誤解と真意
三諦(真実、空、仮)の概念は深く理解されるべきですが、実体として捉えると誤解につながります。三諦は中が基本であり、空や仮がその派生であるという考え方は誤りで、三諦は本来対等の関係にあるものです。

三諦の実践面での重要性
実践面では、空、仮、中のいずれも重要であり、それぞれが実践の中心になり得ると言われています。どれを重視するかは状況や立場によります。三諦には優劣はなく、それぞれの側面が重要であるということを理解すべきです。

「中から空仮が生まれる」という誤解
中から空や仮が生じるという考え方は誤解です。修行の実践面では、仮が最も重要であるとも言われます。空仮中は対等であり、一方から他方が生まれるわけではないのです。

一念三千の理解
一念三千という表現は、一念から三千が生まれたとか、一念が三千より優れているといった意味ではなく、一念を直指して三千、三千を直指して一念であるということです。

空仮中の三諦の理解
三諦の相性体の理解には、相は仮、性は空、体は中という関係があります。中は仮や空よりも何か余分なものを持っているように見えるかもしれませんが、これは言語上の錯覚です。三諦は対等で欠減なく備えられています。

体の理解
体とは縁起体であり、存在判断を示すものです。相性体の体という概念は無分別のままであり、円融上では、仮にも空仮中を、空にも空仮中を、中にも空仮中を備えて欠減ありません。

止観における体の理解
『止観』の教えにより、体は外相と内性を有し、一身を支持するものとされる。これは「形成主質」とも言われ、質と法であると説明される。体を物質的なものと捉えることは誤りである。

体としての一念の指摘
体は一念そのものを指し、外相である<相>も心に一切の相を具するものであると強調される。この概念は五蘊を説く十如にも関連している。

体と形成主質の関係
体は形成主質であり、肉体という形成物質ではない。一身支持の形成法であるが、この理解は非常に難解である。

形成法の具体的な説明
体の形成法は、法界の四大(地水火風)で空大(空間)を囲むものであるが、物体の話ではなく識体としての話である。主質は法たる形成六大である。

体、相、性の関係
体は相と性とに対して単純に指示される主語存在であり、相と性は体の述語存在である。この関係性は、無制約と制約(分別)の関係と異なる。相性体は一法の三面である。

体の概念内容の誤解
体、相、性の概念内容に余分に多いものが内蔵されているわけではない。違いは捉え方にすぎず、親子や大小のような考えは誤りである。相も性も体も実体存在ではない。

如是体の場合の存在判断
如是体の場合、存在判断から反省で相・性との関連へ置き換えられ、反省状況叙述の場面へ転換される。この転換は制約されたものである。

(8)性は体に内属しない――体その儘が性

性と体の理解の誤解
性と体の関係について誤解が多く存在します。世間では性と体が実体として捉えられることが多く、性質が体に内属するという考え方が一般的です。しかし、これは誤りで、体そのものが性の全体であるという理解が必要です。

科学の教えと仏法の理解
科学、特に自然科学では、例えば酸素が水を作る「性質」を持っているなどと教えられます。この考え方が仏法の理解を妨げる原因となることがあるのです。

性の実体化の防ぎ方
性の実体化を防ぐためにはどこから手をつけるべきかが問題となります。性は無自性であり、肉眼では見えないものとされています。その理解と、「性は法の内に在りて」という表現への注意が必要です。

法と体と性との関係
法とは縁起の焦点に現出した出来事のことで、相も性も体も全て依他起性の事柄であると示されています。しかし、一般にはこの理解が混同されることが多いです。

法と体と性の誤解と正しい理解
性が法の内に拠るという考え方には問題がないように思えますが、実際にはその先に誤解が生じることがあります。性が顕現するのは、更に他の法と縁起した場合であり、性は必ず依他起性であることが重要です。

性の理解と内外の関係
つまり、性は、内に拠って拠らずとも有り、内外の両方に依存するものでした。これは性が縁起の二支に隠れた存在として理解されていたことを意味します。

性の生成についての正確な理解
性は自・他・共・離から生じず、唯一の因縁からのみ生じる存在でした。これは「縁生の故に空なり」という考えに基づいており、無因からも生じないことを示しています。

自然科学との関連性
性の理解は、自然科学、特に化学反応の説明にも適用できます。この理解は通常の説明よりもより正確なものであるとされています。

性の実体化と体性の関係
性は自法の体に内属しないものであり、自法の本質ではないことが明らかになりました。この点は性の実体化を防ぎ、体即性という重要な概念を立証します。

実性とは中道性の異名
「性は実性なり」、実はこれは、『文句』の十如是の解説の所に「(衆生所具の仏界理の)性は不性・非不性にして如是性なり」と示され、この仏界の理性を「実性と名づく」と教えられており、実性とは中道性の異名。実性が本質へ通ずる筋道などではない。
真相は『体是れ性』だった。

性の内に拠る概念の限界
「性はもって内に拠る」という説明は、一部の視点からのみのものであり、他の側面の説明が省略されている。
この文は『正修止観章』(しょうしゅしかんしょう)での文であり、性についての一般論の全ては、『玄・文』及び『止観』の解の章等で悉く説き尽くされた後の『観心章』での話である。
ゆえに、肝心の話に絞られており、くどくどした説明は一切省略されていた。『一を知って全てを知れ』である。『一のみを知って後の全ては知らず』では正観章は読めない。

(9)三諦の概念化と真徳への転換

三諦の理解と真徳への転換の解説
三諦(相性体)の概念は本来一つのものを三面に分析しただけで、独立に存在したものが一つになったわけではありません。これを仮空中(有無二道)と関連づけてみると、相性体は観る対象、有空中は対象を判断する主体者側の操作結果です。この対応によって、状況を反省叙述します。

相性体と仮空中の違いと関連
相性体は観る窓口を分けて観るルールですが、仮空中の操作はルールや概念、論理操作ではなく、反省判断です。仮空中は仏法においても概念としての側面がありますが、決して判断ではありません。

世俗と仏法の判断と概念の進行
世俗は存在判断から叙述判断、概念へと進みますが、仏法では更にその先へ反省判断から自覚真徳へと進みます。これによって、世俗虚妄の仮が双遮双照され、質的転換を起こします。

言語表現と概念付着の説明
仮空中も概念としての側面が出てきますが、実際には判断であって概念ではありません。言語表現する時に概念が付着してくる例もありますが、これは現実と対応できない言葉の遊びとなりえます。しかし、この言明は正しく実相を言表しているのです。

仏法の経釈論と空仮中の理解
仏法では、対象を判断している側について空仮中を論ずることが一般的ですが、誤解されやすい部分もあります。例えば、空仮中を概念として誤解することがあり、真徳にならないことがあると警告されています。

概念化の段階と形式問題
対象や主語をいきなり空仮中と言表している所は第一段階の概念化であり、実質問題ではなく形式問題です。本当の概念化は次にあります。

概念化の第二段階と実質上の説明
仏法で空だ中だと言っている時に、解脱は「それ程清浄なのだ」という想いを持たせることが多いです。合意内容を持つことは概念であり、第二段階の概念化が実質上の概念化です。これが最終的な理解となります。

形式論理学と仏法の違い
形式論理学において、判断は概念ではなく、概念は判断ではありません。しかし、仏法は直接把握なので、形式論理学の枠組みには当てはまりません。このことが、空仮中という概念の複雑さにつながります。

空仮中の複雑な理解
空仮中は判断であり、概念としても使用されます。これは論理学を学んだ現代人にとっては混乱を招くものとなります。「仮有は差別・空は無差別平等・中は法性」という概念も同様で、深く理解するには複雑です。

空仮中の概念の使用
空仮中を主語として用いる場合、その使い方は概念と一致しますが、内容は判断そのものについて言及しているわけではありません。言い換えれば、何かが仮有であることは差別を認めざるを得ない、という事です。

『大般若経』の解釈
「空もまたまた空なり」という表現では、上の空は主語で、下の空は述語と見ることができます。しかし、この文章の真意は、「空という二重否定の反省判断行為も空である」という解釈になります。

熟語化による概念の変化
仮有や空性などの熟語になると、これは判断ではなく概念になります。例えば、仮諦・空諦・中諦などの熟語は概念として成立します。

学問と信仰の違い
学問として正確に説明すると複雑になりますが、信仰者の立場では、「円融三諦の空仮中は反省判断だ、概念ではない」と理解するだけで済むというシンプルな視点もあるのです。研究者は深く探求する必要があるでしょうが、信仰者にとっては、より直接的で明確な理解が求められるのかもしれません。

(10)空仮中と有無二道――本覚真徳の実際

空仮中と有無二道の重要性
仏教の教えである空仮中は、反省判断として扱われ、決して単なる概念ではないという点が重要です。仏典の解釈には、形式論理学に捉われず、細心の注意が必要です。

仏典における空と中の表現
空と中の表現は概念でもありますが、四大真徳の概念が含まれているため、判断プラス概念として使われています。この四大真徳には、大我、無比清浄、自受法楽、中道常住などの意味があります。

二辺見と悟りの敵
二辺見は悟りの大敵であり、断見と常見とも関連しています。これらの見解は永遠の存在に対する独特の見方で、誤解として扱われることが多いです。

空・中の判断と働き
空と中は仏陀の悟り出した判断であり、概念と反省判断の間で働く複雑な概念です。例えば、法華経の四徳における楽は、世俗の苦楽に捉われず、仏陀の特別な楽として解釈されます。

形式論理と応用型の理解の混乱
仏法の解釈において、形式論理と応用型、判断と概念の間の違いなど、複数の混乱の原因があります。これにより、理解が困難になることがあると指摘されています。

存在判断から自覚真徳への進展
論理学や世俗的な考え方とは異なり、仏法では、反省判断から自覚真徳への進展が重視されています。これについての議論も提案されています。

有無二道の操作
有無二道は仏教の中で特別な考え方であり、その操作方法が説明されています。「有でも無でもなく空である」という考え方が、真徳の判断能力につながるとされています。

凡人と仏様の立場の違い
凡人と仏様の立場では、反省操作の考え方が異なります。凡人が本覚の真徳を現実に反映させない限り、それは理論上の話に過ぎないとされています。




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