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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争④/Ⅰ仏法と論理学/4哲学の行手を示す判断論【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


哲学の手本を示す判断論

(1)唯識の沿革と基本

唯識の基本概念と重要性
唯識とは、意志による判断を追求するプロセスで、<自我>や<識の働き>などが登場する概念です。これは非常に重要な考え方で、迷いや悟りなどが識にあるとされます。

唯識説の発生と流れ
唯識説は二筋に発生し、上座部と大衆部から派生しました。中観派の成立より約二百年後に成立し、インドでは最終的な仏法とされました。

唯識のさらなる発展と分派
竜樹の中観派に対抗した瑜伽行派として唯識が発展しました。それが中国に伝わり、地論宗、攝論宗、法相宗などに発展していきました。

大乗運動と上座部の影響
上座部・大衆部から発展した唯識瑜伽派は、インドでの大乗化の流れから自然に発展しました。上座部の堕落が大乗の革新運動を招いたとされています。

唯識の開創と弥勒菩薩の関係
弥勒の開創による唯識は通説で、弥勒菩薩との伝説もある一方で、実際に弥勒という先人から始まったという説も存在します。

瑜伽行派の拡散と対抗
瑜伽行派は全印度に拡がりましたが、中観派に対抗したのは無駄で有害だったとされています。対抗すべき筋合いは全くなかったというのがその理由です。

唯識の大乗説の完成とその影響
天親菩薩によって唯識の大乗説は完成されました。その後、浄土系思想が興り、日本の浄土宗などがこの流れから生まれました。

唯識の出現理由と現代への影響
唯識は上座部の体系の中核である五蘊の識から登場したとされ、現在では深層心理学との比較で研究されています。この観点からは、唯識が進んでいると言われています。

漢土への伝播と法相宗の成立
唯識が漢土に伝わり、法相宗が成立しました。他の宗派は吸収され、法相が唯識の代表となりました。

識の本質と識空の理解
識の実体は存在しないとされ、識空が本当であるという考え方があります。天親以降の唯識の流れから、この識空の概念が理解できるとされています。

天親以後の三つの系統
天親以後は三つに別れたそうです。陳那・無性・護法の系統は「有相唯識」になりました。徳慧・安慧・真諦の系統は「無相唯識」になりました。この真諦が中国へ渡って攝論宗の開祖になります。難陀・勝軍の系統では、難陀が「見相二分説」を立てて、安慧の「唯自体分説」に対立したと事典に出ています。

無相唯識と有論の護法系の違い
無相唯識であった攝論宗は本来識空であったことを伺わせます。しかし、最後まで残ったのが有論の護法系であったことは、インドや中国にとって不幸なことだと思います。

唯識の発展と法有思想
唯識は一面は小乗に発して大乗になったので、当時の有部・アビタルマの我空法有の法有思想が忍び込んで来たと思います。それが後年、「有相唯識」「著有の法相」になったのでしょう。

唯識法門の解説
唯識法門は権大乗経の『解深密経』に説かれている所で立てたものです。三自性、三無性、第七識、第八識などの用語は全部『解深密経』に揃っています。

唯識説の経験論的な唯心法門
この唯識説の究極は、一切諸法は純粋に識られた状態においてのみ有るもので、識る心を切り離しては一切は観察できないという経験論的な唯心法門です。

認識論的考察
「諸識の転変を離れて全て外(げ)の色(しき)等の実法無し」という考えは、自分に無関係に宇宙に実法が在ると思うのは単なる妄想にすぎないと述べています。

唯識の三方面
唯識は非形而上学的な唯心論で、その理論には三方面在ります。①影像門の唯識説、②縁起門の唯識説、③三性門の唯識説、この三つです。

影像門の唯識説
影像門の唯識では「対象界は全て識の影像の顕現である」と言い、マルクスの認識理論とは異なります。

縁起門の唯識説
縁起門の唯識説では、物心一切の存在は心体である蔵識(アラヤ識)の転変により構成されて生ずると述べています。

三性門の唯識説とアラヤ識の役割
三性門の唯識説は、諸法の特質は三自性・三無性に在りとする説です。アラヤ識は一番大事な役割を担っており、「貯蔵タンク」と言えます。

唯識と仏法の位置づけ
天親達はこの唯識法門を仏法の極説だとは考えていなかったという点が重要です。識有論にしてしまい、「三乗真実・一乗方便」を主張し、「外道にも過ぎた悪法」にしたのは後人の仕業で、無著や天親等の全く関わり無い事です。

(2)著有と五性各別という悪義

著有と五性各別の誤解とその背景

著有と五性各別の意味と論争の背景
著有の意味は簡単に理解できるが、五性各別については『解深密経』や『楞伽経』に明示的に記されている。この五性各別を現代でも否定する意見があり、伝教大師と法相宗、徳一法師との間の五年間の論争は非常に有名である。

五性各別の具体的な説明
五性各別とは、人間に先天的な五つの性質の差別があるという説で、その中の四つの性質は成仏することができないとされている。しかし、この説は今世の観点からのもので、永遠の観点から見れば、過去の生での仏教の誹謗が原因で今世では五性各別になってしまったという解釈もある。

法相宗の五性各別の解釈
法相宗では、五性各別を絶対的なものとして捉え、個人の実体として解釈している。これは、前世での行動が原因で今世での性質が決まるという考え方から来ている。

インドの国情と五性各別
インドのカースト制度や人間差別の思想が、五性各別の説の背景にあると考えられる。特に下層階級やアウト・カーストの人々は、成仏する資質がないと見られていた可能性がある。

法相宗の誤解
法相宗は、唯識の教えを誤って実体として捉え、心や識が客観的な存在であると誤解している。これは、唯識が心や識を客観的に観察するための方法論として提案していたものを、法相宗がそれを文字通りの意味で受け取ったためである。

唯識の真意
唯識は、心や識を客観的に観察するための方法論として提案されており、その教えを認識理論として受け取るのは誤りである。唯識は心や識の観察を客観化する手段として提案していたが、法相宗はその手段を目的と誤解している。

アラヤ識と日常生活の識の違い
アラヤ識は通常の識から作用識として認識されるものですが、それは科学的な客観存在としての実体とは言えません。これは迷いの中の人々にとっての実存です。

識の独立性に関する考察
実際には、表面に6つの識、裏に2つの識が存立しているだけです。それらは客観的に独立した事実として存在するものではありません。これらは縦の縁起連鎖としての関係性を持っています。

識とその関連性
前五識と第六識は別物ではなく、その他の識も同様です。これは譬えとして「六窓一猿」の例を参照すると理解できます。ですので、各識を別々のものとして扱う考えは適切ではないです。

唯識論と現代心理学の違い
唯識は禅の修行に関連する心理学として存在しますが、現代の心理学は客観的に人の心を調査するものです。天親の唯識論は心理学的仏法を表しています。

主観的と客観的の認識の違い
唯識論では心を主観的なものとして扱っています。一方で、現代心理学はそれを客観的に捉えようとしています。この違いは非常に重要です。

識の本質と修行の目的
心の迷いを解消するための修行においては、最終的な目的は「解脱」にあります。そして、染汚の第八識は、最終的には智に転化するとされています。

仏教学における経典の位置づけ
現代の仏教学では、多くの経典や教えが独立して研究されているが、それらは実際には深い関連性を持っています。

心の発展の過程
仏教経典を通じて心や識の理解は段階的に深まってきました。その結果、法華経における「一念三千」という教えが確立されました。

仏教経典の研究の現状
現在の仏教学における研究の取り組みは、経典間の関連性を考慮せずに、特定の教えだけに焦点を当てていることが多いです。

(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識

識の概念とその展開

識は感覚から始まり、五つの基本的な感覚が存在します。これらの感覚は眼、耳、鼻、舌、身体から得られます。動物もこの五つの感覚を持っています。この五つの感覚を統合して意識するのが「入法識」と呼ばれる意識です。

この第六の識、すなわち意識を反省的に考えると、自我の存在が浮かび上がります。デカルトが「我思う、故に我あり」と言ったような自我の存在です。これが第七の識、マナ識と呼ばれるものです。しかし、このマナ識は誤った判断や執着の識であり、真の自我を持つ者は持たないとされています。

識の深層とアラヤ識

このマナ識をさらに深く考察すると、第八の識、アラヤ識が存在することがわかります。アラヤ識は、意識の深い部分に存在する基盤となる識です。しかしこのアラヤ識もまた、汚れや執着が存在するとされています。

いくつかの学派や伝統によって、アラヤ識の解釈や位置付けは異なります。一部の学派では、さらに純粋な識として第九の識を置いています。

識の総括

要約すると、識は感覚とその上の意識から成り立ちます。最初の五つの基本的な感覚を統合して形成される第六の識、さらにその意識を主導する自我意識が第七の識、そしてその基盤となる識が第八のアラヤ識となります。

識と修行

修行によって、これらの識は浄化され、真の自我や真理へと近づくことができるとされています。特にマナ識は、多くの誤解や執着を生むものとされ、修行によってこれを超えることが重要だとされています。

識の深層の解釈

識の深い部分には、アラヤ識やマナ識が存在し、これらの識は私たちの習慣や性格、そして自我意識の基盤となっています。しかし、これらの識は常に反省や考察の対象となるものであり、真の自我や真理を理解するためには、これらの識を正しく理解し、修行によって浄化する必要があるとされています。

「我」との誤認識
既に過去化によって固定されたものを「我」と誤認しているが、それは本当の「我」ではない。反省している主観の「我」は掴むとすぐに過去化し、つかむことはできない。

意志と識の関係
仮の判断は意志によるもので、その意志は第六識にも、マナ識やアラヤ識にも属する可能性がある。しかし、根本的な意志は第八識にあり、第七識を経由して第六識で気づかれる。

第九識の特性
第九識は浄識であり、言葉では語り尽くせない。しかし、その働きや関与については考慮する必要がある。

人の行動と第八識
人間は自分が考えて行動していると感じるが、実際の行動の衝動は第八識から来ている。その影響は子供時代の経験などにより強烈になることもあり、それが一生の行動傾向を支配する。

教育の責任
教育や指導によるインプリンティングは第八識の領域に影響を与え、その後の人生を左右する可能性がある。教育者にはその責任が伴う。

意識と自覚の関係
人は意志として自覚するものは第六識だと思うが、実際の出所は第八識である。意識の本質や動きには多くの要因が関わっており、それらは仮名であり、実際のものとは異なる。

天親の唯識説と第九識
天親の唯識説によれば、第八識は転識得智し、仏果を得る。第九識はその背後にあり、真如の都から来るとされる。第九識は心王として特別な位置を持ち、心数の第八識とは異なる性質を持つ。

心王の第九識と動き
第九識は静寂であり、それ自体は動かないが、他のものを動かす能力を持つ。この特性は西洋の「不動の動者」と似ている。

予備知識の必要性
第九識や判断意志を理解するためには、さらなる予備知識が求められる。

(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用

無量世における眼の因縁とは

無量世における眼根の関連性とは、五蘊の心の作用である妄念を生むものです。これに関連する知識の広がりは、<識>、<色>、<現量>、<分別>、<五蘊>など多岐にわたります。それは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根とそれに関連する境、入など、複雑な構造を持っています。

日常の認識について

我々の日常の認識は、それぞれの根が対応する境を活動として働くことで、認識が成立するという仕組みです。耳や眼に関する知識は多くありますが、ここでの重点は「分別」の側面にあります。

眼と光の関連性

人の眼は感覚の中で最も遠くまで到達する器官です。しかし、物を見ることは、実際には光の反射を眼で受け取り、それを脳に伝えて像を形成することです。このため、異なる状況や人によって、感じる世界は大きく変わるのが普通です。

感覚の信用性

デカルトは感覚は信用できないと言いました。実際、私たちは反射光を見ているだけで、物そのものを見ているわけではありません。劇場の舞台の照明のように、物の色は環境によって変わります。色そのものは、実際には物に固有のものではなく、私たちの認識や環境によって変わるのです。

仏法の教え

仏法では、物や色の認識は仮のものであり、真実を認識するためには反省や瞑想が必要だと教えています。その真実を求める方法として、天台宗は特定の瞑想法を教えています。この虚妄の世界を理解し、真実を追求するためには、『普賢経』をしっかりと読解することが大切です。

無量世に於ける眼根の因縁は、諸色に貪著し・色に著するを以っての故に諸塵を貧愛し・塵を愛するを以っての故に女人の身を受け、世々生処にて諸色に惑著せり。色・汝が眼を壊(やぶ)りて恩愛の奴(やっこ)と為(な)し、色・汝をして三界を経歴せしめし故に此の弊使(貪使・愛使・著使の三を指す)の為に盲(めしい)て所見(二乗・菩薩・仏の四聖の慧見・法見・仏見・の三見識の事)無かりき。……眼根は不善なりき、汝を傷害せしこと多かりき

眼根と私たちの認識
眼根は私たちに悪影響を及ぼしていました。私たちが受け取る情報や認識は偽りのもので、それが正しいと思い込まされていたのです。私たちはそれに慣れ、それが普通であると認識してしまいました。

経文における他の根の解説
この経文には、他の四根についても詳しく説明されています。それぞれが深い意味を持ち、真剣に考えるべき内容が含まれています。

身心の真実
心を深く見ると、そこには実質的なものが存在しない。心の中の形や感覚は、誤った認識から生じるものです。身体は一つの機械のように動き、自由に行動することができます。しかし、このような認識は私たちの判断や意志を狂わせてしまいます。私たちの日常生活は、このような状況の中で生きており、常に巡り巡ってしまいます。

日常と六道の輪廻
私たちの日常は、常にこのような状態の中で巡り巡るものです。それゆえ、簡単に止まることはできない。しかし、滑って転ぶことを恐れずに、立ち上がり続けることが大切です。そして、立ち上がる際には仏の教えに従う必要があります。

無意識の中の衝動
無意識の中にある衝動や意志は非常に強力です。その衝動や意志は、私たちの判断の基盤となっており、それが主観と客体を繋ぐ役割を果たしています。しかし、これらは実際には分けることのできないもので、すべては一つに過ぎません。心は、言葉で表現することが難しいもので、一つとも言えない、独特の存在です。

(5)見る識も見られる色も仮和合

意志と認識の複雑な関係
意志が存在するためには、主観と客体の関係が明確でなければならない。このクリアな関係は、人間の高度な認識機能である第六識で初めて成立する。第八識のレベルでは、まだ全てが混沌としている。

概念の罠と仏法の教え
本質や実体といった概念は、現実を固定化する危険があり、仏法にとっては問題です。仏法は、何もかもが定まっていないという考え方を基本にしています。

自由意志の問題
自由意志とは一体何か、という問題は非常に難解です。この自由意志は、外界からの制約も含んでいる。だから、自由意志についての考察は、決して単純ではありません。

認識と物の関係性
認識(識)と物(色)との関係は、非常に複雑で二重の構造を持っています。人間の認識と物の存在は、互いに影響を与え合っています。一方は物質的、もう一方は精神的な要素で構成されています。

連鎖と無限の循環
全ては連鎖として存在し、その連鎖は無限に続いています。これが「五蘊(ごうん)」の教えです。五蘊は精神と物質、イベントを一体化して表しています。

認識の起源と働き
認識は「目覚めている状態」であり、その状態で初めて何かを「受け取る」ことができます。受け取ったものに対しては、思考や行動が生じます。そして、その結果として新たな認識が生まれ、循環が続くのです。

個々の要素の非実体性
物質や感情、思考、行動、認識など、個々の要素は独立した実体として存在しているわけではありません。これらは相互依存の関係で存在しており、それが「五支(ごしき)」と呼ばれるものです。

識の働きとインプリンティング
最終的に、認識は判断を下し、その判断は人の心に深く印象づけられます。これが「インプリンティング」または「刷り込み」であり、このプロセスを通じて、新しい認識や意志が形成されるのです。

色と識の相互依存
色と認識(識)は相互に依存しています。外部の色が内部の判断に影響を与え、その逆もまた真です。例えば、「これは茶碗である」という判断は、色や形に対する私たちの認識から来ています。

判断をするとき、私たちは特定の要素を選び出し、それ以外のものを無視します。このような判断は、第八識と呼ばれる領域に蓄積されていきます。

私たちが認識する物や事象は、「五蘊仮和合」と呼ばれる概念に基づいています。これは人間自身、または人間が認識する外界の対象が、常に変化する状態で存在しているという考えです。

識は、広義には精神活動または心理活動とも言えます。それはマインドやスピリットを含む全体的な心の働きです。

色や識が独立して存在するわけではありません。これらは相互依存の関係にあり、一方が存在しなければ、もう一方も存在できないということです。

実際には色と識は分離不可能ですが、思考の便宜上、分離して考えることがあります。このような便宜を真実と考えることが問題です。

過去に唯識派と中観派という二つの学説がありましたが、その中心テーマは同じであり、目標も解脱でした。違いは、唯識派が心理的側面から、中観派が論理的側面からそのテーマを解明した点にあります。

これらの学説は本質的には敵対していないとされています。特に、中国と日本における長い議論は、本来必要のない争いであったと言えます。

(6)心はただこれ名のみなリ――無所有不可得

仏法は一般的な判断や考え方を「虚妄」と呼び、否定します。対照的に、論理学は「虚偽論」という分野で虚偽を防ぐ方法を議論します。この二つの学問が共有するのは、「虚偽を避け、真実を追求する」という基本的な姿勢です。
科学や哲学、宗教においても、真実を追求することは基本です。論理学が「真か偽か」という二者択一の形で考えるのに対して、仏法ではこの二者択一自体が疑問視されます。つまり、仏法は判断をより深く反省し、二者択一以外の選択肢も提案します。
一般的な判断は、事実を確認し、それが真か偽かを検討するところで終わります。しかし、仏法ではこのような「真なる判断」も最終的には虚妄であるとされます。それは「真でも解脱には役立たない」という意味で、病気や死についても同様です。
仏法では、真実とされるものをさらに反省し直し、新しい形の「真実」を提案します。この反省的な判断は、仏法特有の考え方であり、世俗的な考え方には適用できません。
一般には、心や身体が実体として存在すると思われがちです。しかし、仏法では心や身体は実体とは言えず、常に変わりゆくものであると説かれます。つまり、「心はただ名前だけであり、実体は存在しない」と仏法は教えています。
このように、仏法と論理学や科学とでは、「真実」や「虚妄」に対する考え方やアプローチが大きく異なることがわかります。それぞれの視点から深く考え、自分自身を反省することが重要でしょう。

心とプロペラの違い
心とプロペラ(回転する羽根)は、根本的に異なります。プロペラは二枚か三枚の羽根で構成され、回転すると円形に見えます。しかし、その円形は羽根によって形成されているだけです。一方で、心はこのような基礎構造を持っていません。

誤解とドグマ
多くの人々は、心にも何らかの基体(基盤)があると仮定してしまいます。これは誤った推論や固定観念(ドグマ)であり、十分な検討や反省がなされていないのです。

仏法における心の説明
仏法では、「六窓一猿」という概念で心を説明します。この「一猿」は心を象徴し、「六窓」は私たちの六つの感覚器官(目、耳、鼻、舌、身体、意)を指します。これらの窓から「猿(心)」が顔を出しますが、それ以上に存在する「一猿」はいないと教えられています。

名付けられない心の本質
この「一猿」もしくは心は、その本質が絶えず変わるものであり、名前や概念で捉えることはできません。すなわち、心に基体は存在しないのです。

捉えられない心
現在の心は、捉えようとするとすぐに変わってしまい、確固たるものとして把握することはできません。ですので、その心を名付けることさえもできないのです。それは「非心」と言えるでしょう。

心の名前の誤用

一方で、心の「写真」のような過去の記憶を「心」と名付けていますが、これは誤用です。この名前を現在の心に使っているだけで、実際には名前は仮のものでしかありません。

心の本質についての結論
無論、仏教の第八識や第九識といった概念でも、すべて名前は仮のものです。本質的には「有も無もない」と言える状態、すなわち「非心非不心なる如是心」が心の真実です。

(7)判断における虚妄と真実

身体の不確定性と境界問題
身体と言っても、実際にはこれがどこからどこまでなのか明確ではありません。例えば、水を飲めば、その水は身体の一部となります。呼吸をすれば、外界の空気が身体内部に入ります。これらを考えると、身体の境界がどこであるのかはっきりしません。

微小な電流と宇宙の影響
さらに、体内の微電流も、外界の電気状態や刺激と共に変動します。宇宙線も私たちの身体を通過するなど、私たちの身体は外界と常に影響を受けています。

体温の維持と外界との関係
体温も同様に、衣服など外部の要素と結びついて維持されています。これらを総合的に見ると、身体とは、実は外界との明確な境界がないものと言えます。

微生物との共存
私たちの体内には大腸菌などの微生物が存在しており、これが身体の一部であるかどうかも曖昧です。これらの微生物もまた、私たちの健康に影響を与えます。

宇宙階層と人間の位置
物理的な観点からも、私たち人間や地球は、宇宙という巨大な階層構造の中で非常に小さい存在です。そのため、私たちが存在する意味や境界も相対的なものとなります。

身体と自我の関係
結局、身体やその境界について厳密に考えたくなるのは、自分自身を独立した存在として確立したいという、無意識の欲求から来ている可能性があります。

存在と存立の違い
私たちの身体や心は、「存在する」のではなく「存立する」ものです。これは、外界と一体化して成り立っているという意味で、絶対的な存在ではありません。

自分の身体との関係性
最後に、自分の身体も実は「自分のもの」ではありません。何故なら、身体は多くの外部要素と相互作用しているからです。たとえば、太っている人が痩せたいと思っても、それが簡単にはできないのは、身体が自分だけのものではない証拠です。

以上のように、身体やその境界、存在について考えると、多くの複雑な問題が絡み合っていることがわかります。それは、私たちが一つの独立した存在とは言えない、という事実を示しています。

現代科学と古代哲学の一致

科学、特に物理学において、宇宙や世界は「存在する」のではなく「成立している」という新しい視点が広まっています。これは古代哲学者・竜樹の考えに非常に近いものです。

竜樹は、万物はお互いに依存しながら成立していると教えています。これを単に「存在する」と捉えると、その認識は誤りであると言います。

「分別」とは事実を取り出し解析することですが、それ自体は偏っていて不完全、すなわち「虚妄」とされます。概念も同様に、過去の事象から引き出されるため、それもまた「虚妄」とされるのです。

概念は、抽象世界や過去の事象から生成されます。それは「無から有を生む」行為であり、その存在は最終的には虚妄であるとされています。

「天月・池月」という考え方で、池月(水面に映る月)は本来存在しないものと教えられます。これも虚妄であるとされるわけです。

若い頃、私は「存在するものがなぜ虚妄なのか」と大いに悩みました。しかし、最終的に理解したのは、事物が「独立した実体として存在する」わけではないということでした。
事物が依存関係で成立していると理解することが「真実」、それを単純に「存在する」と見ることが「虚妄」とされます。
私の悩みは、先入観や先入知識を取り払う過程で起こったものでした。仏教の教えに従い、心の中を一新すると、悩みは解消されました。

竜樹や天台は、我々が認識するもの全てが虚妄であると強く主張しています。その上で、概念や言語そのものを問題視しています。
「これが真実である」と言うと、その「真実」も誤って実体化してしまいがちです。真の「真実」は、そういった認識を超えたところに存在するとされます。
竜樹は、仏教だけでなく科学にも通じていた非常に多才な人物であったとされています。竜樹は、物事を単純に認識する「直接判断」ではなく、その後の「反省判断」が重要であると教えています。このような「反省」が、真の悟りに繋がるとされています。

(8)判断の経験的下部構造

判断と行動の関連性
人々の日常生活において、「判断をするための判断」というものは存在しません。判断と行動は密接に関連しており、一つが終わるともう一つが始まります。状況が変われば、再び判断をして行動を起こします。このように、人生は判断と行動の連続であり、どちらが先かを決めることは難しいです。

判断の複雑な側面
判断の研究は、論理学や心理学、哲学など多くの分野で進展しています。しかし、実際の生活の中でどのように判断が形成されるのかについては、まだ十分に解明されていないようです。現実には、簡単に真偽を分けられない多くの要素が影響を与えています。

文化と環境の影響
例えば、エスキモーの人々は「水は氷からできる」と考える一方、我々は「氷は水からできる」と考えます。社会や文化、環境によっても判断は大きく異なることがあります。

個々の違いによる判断
年齢、性別、個々の好みや感情も、一つの出来事に対する判断を変えてしまいます。例えば、同じ価格の陶器と磁器があった場合、人によっては陶器を選び、人によっては磁器を選ぶでしょう。

判断に影響する多様な要素
判断は非常に多くの要素に影響を受けます。本能、習慣、環境、知性、感情、意志など、多くの側面が関わっています。さらに、それぞれの人が持つ生まれつきの気質や身体の調子も、判断に影響を与えます。

判断研究の未来
判断に関する研究は非常に広範で複雑なものです。これまでの研究はほんの一部であり、今後はさらに多くの側面を考慮に入れた研究が必要でしょう。複雑な要素を大雑把に分類し、それぞれを詳細に調査する必要があります。

判断は単に論理や哲学だけで説明できるものではありません。多くの条件と要素が複雑に絡み合って、それぞれの判断が形成されるのです。この広いテーマ性を考慮に入れなければ、真に包括的な理解は得られないでしょう。

(9)判断の限界と循環問題

判断論の局限性
判断論が真偽や正誤だけに焦点を当てるのは不十分です。判断がどのように人生に影響するのか、その限界がまだはっきりしていない点も問題です。

人間の本質と判断論
アリストテレスのように論理的な側面からだけ判断論を研究しているのは不足です。"生きている"人間とその判断がどのように形成されるかについての研究はほとんどありません。このため、未来の哲学研究の主要なテーマは判断論になると思います。

科学と哲学の協働
科学と哲学が一緒に働く場合、統一された枠組みが必要です。確かに、論理的に判断を出す技術も重要ですが、それだけでは足りません。

判断の根底にあるもの
判断の下部構造は何か、それは単に論理や概念計算よりも深いもので、生物学的、物理学的な自然な存在に基づいている可能性があります。

判断論と仏法
仏法では判断は「迷対悟」というフレームワークで考えられています。この考え方に基づけば、判断の根底にあるのは人間の生々しい、非理性的な部分かもしれません。

哲学と仏法の交差点
例えば、ドイツの哲学者ハイデッガーは、人間が死に直面するという状況から判断を問題にしています。これは仏法の「生死一大事」に関心を持つ点で共通しています。

判断の複雑性
判断には様々な要素があって、それを整理するのは困難です。判断は論理面でも複雑で、永遠の課題とも言えます。

無限性と判断
判断には無限性があるとされていますが、それは単に私たちが知識や理解が不足しているからではなく、判断そのものが問いと答えの無限の連鎖から成り立っているからです。

仏法の解決策
最終的に、仏法では判断や分別を超越した「無分別」の領域に進むことで、この問題が解消されるとされています。

判断の限界と矛盾
論理と思考は最終的には循環する性質があり、それゆえ判断には限界と矛盾が存在します。この問題を解消するには、分別を止めて「無分別」に入るしかないでしょう。

論理学とその限界
末木先生の著書『論理学概論』によれば、論理学の究極的な目的は非論理的な要素を含むとされています。この見解は仏法における分別と無分別の関係に似ており、判断や思考の限界を示しています。しかし、なぜ判断は循環的な性質を持っているのでしょうか。

個と普遍の関係
現実世界で存在しているのは「個々の事象や物」です。一方で、これらの個々を理解や説明するためには「普遍的な概念」が必要とされます。しかし、これらの普遍的な概念は、あくまで人の頭の中でしか存在しない抽象的なものです。

個と普遍の相依性
基本的には、個々の事象から普遍的な概念が生まれます。この普遍的な概念を用いて初めて、個々の事象を説明することが可能です。そのため、個と普遍は互いに依存する関係にあり、この相依関係が論理と思考の循環性を生む根本的な要因となっています。

循環推論の問題
例えば、AからBを導き、BからCを証明する場合、Cの真実性はAの真実性に依存します。しかし、もしAの真実性もCの真実性に依存していると、真実性が保証されない状況が生まれます。これが「循環推論」と呼ばれる問題です。

概念の不確実性
循環推論によって生まれた「概念」は、真には真であるとは言えません。それは日常の常識や言語の便宜によって成り立っているだけで、厳密な学理においては真であるとは言えないのです。

漢字表記に関する私見
さて、余談として「わかる」という言葉について触れたいと思います。一般には「分かる」と書きますが、私はこれを「判る」または「解る」と書くことが適当だと考えています。なぜなら、「わかる」とは分析だけではなく、総合するプロセスも含んでいるからです。また、「解った」という表現もありますが、それは「判った」の一部と考えられるため、基本的には「判った」と書くべきだと私は考えます。

以上が、論理学とその周辺の課題や漢字表記に関する私の考えです。特に、循環推論の問題は論理学の重要な研究課題であり、更なる探究が必要だと感じています。


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