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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争①/Ⅰ仏法と論理学/1世法と仏法と空仮中の三諦【石田次男先生】

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm より引用


はじめに

仏教一般の知識の内に<分別虚妄(ふんべつこもう)>という事が有る。「若し衆生・虚妄の説に因って法利を得と知れば(如来は)宜しきに随って方便として則ち為に之を説き給う」(『涅槃経』)・「故に知らんぬ迹の実は本に於いて猶(なお)虚なり」(『法華文句記』)と言う様に、「分別(直接判断・叙述判断・反省判断、一般に判断)というものは、得道に取って、時機相応の無分別法を説く分別以外は全て虚妄だ・と言う。してみれば、分別に対して万人が取るべき態度は、非離非著・亦用亦離・亦離亦明・という所か。

この様に分別一般は・命題の真偽に拘らず全て虚妄だ・と言う。この対話は<内外相対論(ないげそうたいろん)>という仏法の入口論であり、極意に立入る事は極力避けた。この点で分別虚妄の部に入る事になるが、極意の力を借りて分別を蘇生させ、それによって所述の真実を確保した積りである。

ではその極意が意図する所は何か。『像法決疑経(ぞうほうけつぎきょう)』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著非用の方便として闊達に駆使される。

我々もこの意図の万分の一を見習いたい……との願いに基づいて、この対話では、仏法としては一番当り前で・然も最も基礎になる部分を論じ合った積りである。ではその入口論の所詮は何か。それは<諸法因縁仮和合・万法無実体無本質>の一言に尽きる。そしてこれが世間では難解とされる所である。

無実体・無本質・は・実体・本質と相対して初めて成立つ考えであって、一般に外なる道では<実体・本質>を説き・内なる道では<無実体・無本質>を説く。この両者の比較を<内外相対>と言う。相対して捨てるべきを捨て取るべきを取れ・と教えているのである。この相対論が仏法の入口である。入口が解らなければ一切は解らない。

<分別虚妄>とは言っても、それだけで尽きそれだけで終わるものではない。何故かならば<虚妄>とは<真実>と相い対して初めて成立つ概念だからである。ではその<真実>の方はどうか。

『法華経』には言う。「我れ方便を以って……この因縁を以って虚妄無し」と、『涅槃経』には「願わくば諸(もろもろ)の衆生に悉く皆・出世の文字を受持せしめん」と、天台大師は言う「文字は三世諸仏の気命なり」(『摩訶止観』)と、「釈迦牟尼世尊・如所説者・皆是真実」(『法華経』)と。

ここに<分別真実>が在る。分別の中でも仏陀の秘妙方便の分別は<真実>である。<実語>である。実語は魔も破壊(はえ)すべからず……この真実の力を借りれば分別は生返る。双照建立の分別として蘇生する。妙とは蘇生の義なり・と言う・宜(むべ)なる哉。

言語(仮名分別)の問題さえ解決されれば既存の哲学諸問題は大半程解消してしまう・と言う。論理実証主義者から始まった現代の論理基礎論は、この事を明白に示している。蘇生分別……ここに足場を置いて、分別虚妄を承知の上で敢えてそれをしよう・というのが本書である。「説を離れて理無く・理を離れて説無し」(『止観』)だからである。

本書には一つの目標が有る。それは人類が三千年以上もの長きに亘って・産み出しては執著し続けて来た古い形而上学諸概念への批判である。こうした物事の見方考え方への批判である。執著は一切諸苦の母体となる。離れるべき諸執著を明らかにし、捨てるべき執著は敢然として捨てなければならない。

竜樹という人は、形而上形而下を問わず、<概念>なるものは皆・頭から信用しなかった・と言う。概念操作つまり・名辞の連鎖から成立つ諸命題を生(産)み出す・その能生(のうしょう)の根源となる反省法しか信用しなかった・と言う。

見様見真似でその後を追おう・という訳でもないが、兎に角・古来の形而上学諸概念を現代の光で照らし出してみよう・というのがこの書の元意と申し述べて置く。現代人における実体概念の多様乱用がこの事を思い立たせて呉れた。

形而上学諸概念を主語に立て……この主語は外延を持ち得ない……それへ相反する述部を付けて作った二命題は、論理上どちらも正当に成立する……つまりアンチノミー(両断)が発生する・と証明したのはカントであった。彼は学者であったからそこで踏止まった。竜樹は学者ではなく実践家であったから、論争相手に「汝の大前提を放棄せよ」と迫って止まなかった。

この実践一途の精神は後年・中国の天台智者大師の己心の中に鮮やかな大輪の妙華となって咲き開く。「摩訶止観」第七章正修止観の四・破法遍(法を破す事遍ねかれ)がそれで、中には「法は知るべく学ぶべく著すべからず」の大見識が開示されている。

学べば著し親しめば著するは凡夫の習い世の習い、<信>と<著法・著人>とは全く異なる事態であるのに、世上この二つが何と混同されている事か……。保身・出世に利用すべく、万々承知で著愛する例もまた何と多い事か。自己満足の著人法では話にもならない。

大見識はまだ続く。智者大師は<疑いの三義>(『止観』)という事を指摘して、自(自己)師(自分の師匠)法(親愛すべき法)の三を挙げ、妙楽大師は「信受すべき師法の二は、事前にまず大いに疑って正邪を明らかに見極め、選び取ってから信すべきである」事を説いた。

三疑を釈して妙楽大師は「自身に於いては決して疑うべからず、師法の二は疑いて後まさに決すべし。……。正法正師決定せば其の時に三疑は永く棄つべし」(『弘決』)と述べた。既存の学説に対しても今後の学説に対しても、それに接する求法の人の態度は正にこれでなければならない。この意味において私共二人のこの論文はまず大いに疑って貰いたい。その上で若しも疑う余地が無くなったらその時は認めて頂きたい。”不疑曰信”ではなく無疑曰信(むぎわっしん)を旨として読んで頂きたい。

形而上学的手法と形而上学とを混同してはならない。客観一般に対して、内観する点で仏法は一部分・形而上学と同じ手法を取るが形而上学ではない。終点無き<無形存在の学>……形而上学という橋は六道を横切る”三途の川”を渡る為に架けて在るので、その上に立ち止まれば害を為す。

形而上学は形而上学の領域に閉篭る間は、常に無用無益な認識に転化して・存在意義を失うだろう。おもえば宿命的な学問である。万学の王は大王では有得ない。形而上学を学ぶ者はこの学の領域から抜け出し脱皮して、必然的に信仰という実践の舞台へ進み入らねばならぬ。

この事からして当然の帰結が出て来る。それは、仏法を形而上の雲の上に祭り上げている世間の常識は丸きり誤っている・という一事である。だからこそ諸学との比較をしてみたい・というのが言いたい事である。これも分別虚妄・乃至・真実の内ではあろうが敢えて指摘して置きたい。
昭和五十三年八月

仏教とは如何なる事であるか。喧しい内部の詮索を抜きにすればこれ程自明の事は無いであろう。つまり・抜苦の為に、悟った仏陀が仏の方から迷っている衆生の方へ<悟りへの道筋を教え示す>という事だからである。

結果は與楽(よらく)となる。三世の諸仏は皆そうなのだが、この為に仏陀は悟ったその刹那から衆生の方へ面(おもて)を向け変えている。その仏陀に取っては(初めに中道在りき)である。これを果位の立場と言う。

これに引替えて衆生の方はどうか。衆生の面(おもて)は人により時により・あちらへ向きこちらへ向いて一向に定まらない。<初めに迷妄在りき>という態(てい)である。こうした衆生の手中には<虚仮(仮有)>しか無い。だが発心するや否や仏道修行の仕始めから仏陀へ面を向け変えている。これを因位の立場と言う。

こうして仏陀と衆生との<対坐>が成立する。仏は衆生の方へ慈悲と無上無分別智慧つまり般若の光を投掛けて、道を照らし衆生を励ます。衆生はその光に導かれて仏の方へ真直ぐに視線を向けて進み出す。因から果へ……これが衆生の取るべき・取得る・唯一の道となる。

無明即明とは言うが、私も衆生の一人であるから<初めに迷妄在りき>どころか、今でも迷妄在りきという儘で生きている。こうした自分が、照らされている光を遡って・迷妄の因位から果位へ向けてのコースで、内外相対の諸問題を見よう・というのがこの対話である。これも反省の所産というものである。従って当然の事では有るが、<仏の方から衆生を照らす>方向の論議はほぼ一切を省略する事にした。従って欠落が大きい事は謝って置かなければならない。こうした欠落部分はそれぞれ別の資料から得て頂ければ幸いと思う。同趣旨で・修行論・倫理論・実在論・なども全的に省略した。

本書の路線は竜樹と天台との・それも主に天台の立場に敷いた。然も智解の理・中心の迹門(しゃくもん)に敷いた。『法華経』の解釈は天台大師によって究竟せられ・加減すべきものは何一つ無い・と言う。その『法華経』を巡る名著・三大部は古今未曾有有の書であろう。

この『玄義』や『文句』に説かれている様に、天台においても・仏から衆生へ・と施設した路線(本門)が元意であろうが、本書ではそれも採らない。『止観』が教える様にひたすら<衆生から仏へ>の路線で話を進めた。多謝の所以(ゆえん)と謝りを申し上げて置く。

従って路線が著しく片寄る事も・話が数学みたいに無味乾燥になる事も承知の上・という積りである。理屈過剰で飽きが来るであろうが、拙いながら<内外相対とはどういう事か>の課題に取り組んだ積りである。全文を文底義で読んで頂ければこの上無い。

 そして更に、副次目標として<四句分別の取扱い>というテーマを取り上げた。これ無しでは内外相対が論じ難い(にく)いのである。四句(四論)に就いては・インドの昔から・使用形式が・習慣的に・或る型にほぼ統一され(本文第二章参照)ていた様であるが、古来の一様式に固執し囚われなければならない必然的な理由も見当たらない。私なりに組替えた様式にして提示した。試論であるから、刺戟になって、四句の研究が進んで行けば有難い・と思う。

話の内容はなるべく仏教学の手法で行きたい・と思ったが、そうばかりは出来なかった。仏教学にはそれなりに縛られる約束事が有るからである。客観研究の約束事に縛られると、肝心の仏陀の真意から遠ざかってしまう欠陥も生ずるのである。仏教学では宗派の意見に縛られる事からは免れるが、その逆も又起こるのである。須らく令離諸著(りょうりしょじゃく)を旨として行こう・と思った次第――。 

論理学の側面に力を入れたが、自分は斯学に就いては素人にすぎない。そこで、厚かましい事だが、本橋氏の伝手(つて)を頼って、五十六年にその道の権威であられる末木剛博教授(東京大学)に原稿の御目通しをお願い申し上げた。入院の為に原稿の清書も一部しか出来ない儘、失礼をも顧みず、手入れだらけの・本当に読み難(にく)い原稿を提出申し上げた事を誠に心苦しく思う。改めてここにお詫びを申し上げる次第である。

それにも拘わず先生には快く引き受けて頂き、後日に色々・訂正と御教示とを与えて頂いた。又この事とは別に、各大学の仏教学の諸先生方にも色々と有益な御意見を伺う機会を得て有難い事であった。各先生によって私と本橋とが知らなかった数々の事に気付き得たし、蒙を啓き誤りを改める事が出来て何よりも有難く思う。ここに先生方の御好意に厚く御礼を申し上げて微意の一端と致したい。

各先生方の御意見・御指摘に鑑みて、私達なりに自明と思っていた為に省略していた事も・改めて説明する必要がある・と反省した。この為に事後に大幅な説明の加筆をした部分も多くなった。又、先生方の御意見に対して、恐縮ながら意見を異にする為に、その理由や根拠を明らかにすべく加筆した部分も沢山生じた。その結果、末木先生に御目に掛けた原稿からは大幅に改まった事を先生へ御報告致し、感謝申し上げると共にお詫び申し上げたい。 

長年の経験から思うのであるが、仏教を取り扱うにせよ信仰するにせよ、案外入口の所で躓いてその儘押渡って行く事が多い様に見える。この入口の所というのが内外相対……内外を比較検討して充分に弁(わきま)える・というその事である。

この・入口での躓き・は今に始まった事ではなくて、釈尊の厳戒にも拘らず・仏教二千五百年の歴史の中で多々見受けられたし、我が国では明治以来のギリシャ哲学の影響その他によって、今でもやはり沢山見当たるのである。私と本橋とが意図したのは・その歯止めを試みよう・という事であった。

まだ色々問題は在ろうし、本書の中にも若干の誤り・間違いの類い・はまだ在ろうか・とは思うが、それでも大方の目的は達成出来た・と思う。菲才を顧みずやたらと論旨の枠を拡げたが、要は<内外>の一点をしっかり受け止めて頂ければ望外の幸せである。後は全て読捨て忘れて下さって大いに結構・と思う。

対話を終え文を整理して振返れば、まだまだ論旨単調であった・との反省も有る。然しこれ以上分量や時を引延ばしても仕方が無い・という想いも有る。目を通して下さる方々には、本書を起点として、これ以上の意見を世に出現せしめられる要切にお祈り申し上げる。

「後生(こうせい)畏るべし」と言う。今はこの事の将来における可能を深く信じて筆を擱きたい。弟子菲才の身ながら、恩師戸田城聖先生にこの一書を捧げて不肖のお許しを乞うものである。
石田 昭和五十八年十二月 

序:第一原理考争

1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼

(1)歴史に果たした役割

(石田) これから現代諸学と仏法についての話を始めたいのですが、つまりは一番新しい所と一番古い所とを交互に照らし合わせてみる訳です。それには、仏法を内道・内教・内学とし仏法以外を外道・外教・外学と呼ぶ古来の仕来りに従って、お互いを比較して優劣を考える・という、この<内外相対>の手法で行きたい・と思います。
従って、内道の学的内容へ立入る事になっても、極意に立入る事は極力避けて参ります。ですから、この対話から仏法の奥底を得よう・というのは勿論無理ですが、その助けにはなる・と思います。そういう事で、話の流れがどうなって行くかは判りませんが、何分宜しくお願いします。

(本橋) 御期待通りに話を運んで行けそうも有りませんが、こちらこそ宜しくお願い致します。それで、現代諸学というと、「自分は大学へ行かなかったから……」とか、「高校へも行かなかったから……」と敬遠する向きも有るかもしれませんから、なるべく砕いた話で参りたい・と思います。大学へ行ったとしても、文科・理科・医科など皆・分野が違っていて、専門以外は大学だ高校だ・と騒ぐ程違いの有るものではない・と思います。

仏法は本来難しいもの・と相場が決まっております。その難しさは、経文の様に用語が古い為の難しさと、常識とは違った路線から言表(げんぴょう)している事による難しさと、修行路線での難しさ……体得の難しさ・との三通りが有る・と思います。前の二つの難しさは、この対話ではなるべく砕いて参りますから、過大に考えない方が良い・と思います。

易しいものだったら論じ合う必要も無い事です。読者にしても、難しいから張合いを持って読める訳でしょう。

学歴程度云云・という問題は、何も基本的な条件にはなりません。仏様の直弟子だった阿難・迦葉・目連・舎利弗……、誰も大学は愚か高校にも中学にも行ってはおりません。本人の遣る気の有る無しで会得が決まった事です。要は本人次第です。遣る気の有無です。根気さえ有れば好い・と思います。仏様在世から明治時代迄は、インド・中国・日本で、高校や大学に行った論師・人師や宗徒は居りません。それでも仏法は理解できたし修行も出来ました。この本はなるべく誰にでも読める様に解る様に・と心掛けて参りますから、取越し苦労は要らない・と思います。

判りました。こちらもその積りで参りたい・と思います。用語なども極力日常用語に添ったものにして行く事にします。専門的な語には説明を多くして参ります。そこでまず、真理の追究・法則の発見・という事の基底を考えてみると、これは統一原理・延いては<第一原理>を知りたい・という事ではないか・と思います。この点はどうでしょうか。

世の中は個々ばらばらな物事の集りです。一見した所はそうであるだけに、果たしてそれだけなのか。個々ばらばらに見えている諸事象は、統一的に把握されないものなのか・されるものなのか・という原初的な疑問を持つのは当然でしょう。何に限らず学問はそこから芽生えて来ました。統一原理というものは局面局面での第一原理ですから、仰る事はその通りだ・と思います。

何事にせよ、人は記号・言葉・概念によって意志・意見を交換し合うしか有りませんから、共通の記号・共通の言葉・そして共通の概念・を必要としています。皆が何等かの統一原理・第一原理・を知りたい・と思い合えば、これに対応する為の概念・つまり第一原理概念や、最高類概念たるカテゴリー(範疇)の様な第一概念が要る訳ですね。

そういう事です。共通項が要ります。又、それらに応じた共通の約束事(エンゲージメント)・共通の了解事項・というものが要ります。

それに応じて生(産)まれた概念が、神(ゴッド)・本質・実体・形相(エイドス)・質料(ヒュレー)・動力・原因・真実在・などと、様々産まれたのだ・と思いますが、これらの検討は後の事とします。今ではこうした古代からの概念も、永い歴史の諸批判を経て、随分、置かれている地位が変わってしまっています。この意味では、三千年間の思想の歴史は、決して、無駄が多かった・とだけは言えないのではないでしょうか。

前進も後退もぐるぐる廻りも在ったでしょうが、流れの全体は川上から川下へ、そして大海へと、川幅は小から大へと、常に充実発展の大筋を貫いてきた・と思います。この意味で・統一原理・第一原理・という考えが果たし来た役割は大きなものだった・と感じます。

事情は東洋でも同じだったでしょうが、暫くは西洋事情を中心に話を進めて参ろう・と思います。

それが段々と、存在の第一原理・認識の第一原理・などと分化して来ましたから、存在を存在として在らしめるもの・とか、認識の成立根拠・とか、又、存在と認識とはどちらが第一原理か・などが問題になってきました。けれどもとにかく第一原理という着想が、哲学についても科学についても、その今日在る姿の所まで推進して来た・という事は、これは争えないでしょう。不思議なもので、洋の東西・民族のいずれを問わず、昔から何かの第一原理を立てていたものです。

歴史的に見て、宇宙に第一原理が在るのだ・という考えは、昔から世界中に在った気配が在ります。これが宗教の発生と密接に結び附いた様に見えますが……。

その動きは、西洋では少なくともギリシャ時代から見られます。紀元前七世紀頃・タレスは水を第一原理に立てたそうですし、東洋でも、インドでは紀元前千年頃・バラモン教が成立して・ブラ―フマン(梵)を第一原理にしていました。中国では歴史はもっと古く、何時頃からかは判りませんが、天地根元の玄気とか太極とか天神・皇天上帝とかいうものを立てていました。エジプト文明はギリシャのよりももっと古いのですが、文献が残っていないので今の所不明です。太陽か何かだったろう・と思いますが、遺跡の解明が進めば、恐らく第一原理が在った事は立証される・と思います。一通り文明が型を持つ様になった所では、何処でも第一原理を考え・求め・崇めていた様です。

梵(ブラーフマン)は我々にとってお馴染みのものです。世界の根本的創造原理・宇宙の最高原理・を意味する・インド・バラモン思想の中心概念です。人間及び万物の実体であるアートマン(我)と結び附いて・梵我一如・の思想を生み出しました。

ギリシャでは・形相・質料・動力・この三つについて三派の自然哲学者が派閥を作り合って、形相派から幾何学が生まれ・質量派から原子論や物理学が生まれ・動力派から力学……そして後世の熱力学へ・と発展してきますが、この途中へキリスト教が創造神を持込んで来ました。中世の<普遍論争>ですが、あれも第一原理論争の一種の変形です。これは長い間延々と続きました。ルネッサンスの基の一つにもなりました。

古代から中世に掛けては大まかに見てそうでした。下って近世へ入りますと如何でしょうか。

一番手っ取り早いのが、神が第一か・物質が第一か・という一七世紀以来の議論になって来ますが、その元を尋ねると神が第一原理になっていた訳です。それが中世の普遍論争で・スコラ学者の普遍論者(実念論者)が、「普遍は只の音符だ」と主張する唯名論者に負け、ルネッサンスから又段々と無神論が復活してきます。こうして、神を除外して科学が自分の領域を設定し、神抜きの領域が出来ますが、その物理学なら物理学の中で、やはり、第一原理は何か・と言ってしつこく追及して行った・無意識的・又は意識的・な学者の行動の積み重ねが在るのではないでしょうか。

(2)物理学者の哲学志向

宇宙を扱えば、一方は思弁対象としてのコスモス・一方は認識対象としてのユニバース・に分かれます。こうして哲学的世界観・物理的世界観・が出来てきます。一時は哲学的世界観の方は大きく後退して、物理的世界観の方が華々しく取り上げられた事も在ります。日本では終戦直後の一時期十年程がそうでした。

宇宙観・世界観・人生観、この三つは何時でも離れ難く結び附いて来ました。どの民族でも世界創成談・国土創成談の類いは持っていた事がそれを裏付けております。日本では古事記の中で語られている訳です。つまり最初は神話の形で語られ、段々と合理的に考えられて物理的世界観・宇宙観へ到達してくる訳です。

その点は民族を問わず形が共通しております。

これらは、<神と人と自然>の三者の関連から語り始められて、段々と神が追放されてきて、合理性が高められると共に、人や個物は、宇宙の中の対応物と密接に実質的な連絡が有る・と考えられて来た訳です。人間は小宇宙だ・と言う主張はここから来ております。そして<宇宙即我れ>と言う考え方になって参ります。こういうものとしての宇宙・に関する<宇宙論>の一つの特徴は、「どの様に生まれ、どのように今日の姿に到達し、将来はどの様になるのか」という歴史的展開に興味が集中しているのだそうです。

宇宙には秩序が在る・という事は、月や太陽の巡り合わせで一月・一年が出来たり、或いは月の満ち欠け・海洋の潮の干満・四季の巡り合わせ・雨季乾季の整然とした到来・等々から、どの民族も物理的に知っていた事です。コスモスとは元意は<秩序>という事ですから、思弁宇宙はコスモスと名付けられましたが、この名付けの中にすでに物理的世界観・宇宙観が根付いていた・と言うべきでしょう。神話の殻が脱ぎ捨てられるのは時間の問題だった・と言うべきでしょう。昔の学者は物理などと哲学とを兼学しておりました。ギリシャ時代からそうでした。

何か実用に迫られて研究する・というのは技術者の仕事であって、これはまだ本当の学者ではない訳です。本当の学者は已むに已まれぬ探求心から研究しているのでしてこれは誰が止めても止まるものではありません。ですから昔から科学者はそれなりに哲学者でしたし、哲学者も又それなりに科学者でした。例を挙げればきりが有りませんが、物理の圧力に関する<パスカルの原理>(水圧機の原理)の発見者パスカルは立派な哲学者でしたし、ニュートンは物理学者であって哲学者でした。彼の物理体系は永い間・物理学的宇宙論の最終的な説明・として信じられて来た訳です。

ところが今世紀前半に相対性理論が発見され、殆ど平行して素粒子の発見からミクロ世界の物理学が開けて、ついに物理帝国主義時代などという言葉さえ出来た位ですから、哲学的世界観へも革新的な大影響を与えた訳です。そればかりか、そうした物理学者が、進んで哲学的世界観を述べる・という風潮があるのは面白い事ですね。

私は終戦の時には内地に居たので復員が早かったのですが、帰ってすぐ、新しい思想が欲しくて神田の本屋へ行きました。ところが敗戦直後でめぼしい本など何も無くて、棚さえがらがらでした。やっとマックス・プランクの『物理学と世界観』というのを見附けまして、喜んで読んだものです。この学者は、物理学の立場から・決定論と非決定論との両立・を説いて「紳士淑女諸君、神を信ぜよ」と言っているのです。それでも当時の私には新鮮な学説でしたので、意までも記念として、このザラ紙に印刷された本を大事に持っております。

物理帝国主義といえば、これと並んで理性万能主義や知性万能主義も在りました。然しこれも・行き過ぎだ・と盛んに反省されているのが現代ではありませんか。でも仏法の方では、理性や知性を欠いた仏法や反省自覚の修行は在りませんから、理性・知性は極めた大切です。

事実、理性や知性を欠いた人は反省しませんし、仏道修行には仲々馴染めません。情念ばかり発達した理性や知性が後退している人は、仏法には本当に融け込めない・というのが経験上・統計的な実情です。それでも仏種を下して遂には得道させる仏法が在るのですから、これは有難い事です。

日本では湯川秀樹博士も世界観についての論文や本を出しております。或る本によれば、物理学界全般の風潮・というものが在って、湯川門下生達も、ハイハイと師匠の学説に従っている・という様なものではない。それ以上の発想をして、それ以上の発見をして、それ以上の世界観を創り出してみせるぞ・という気概に燃えているのだ・と在りました。

とにかく湯川博士は、西洋の哲学も東洋の思想も読みこなしているのでしょう。有名な話に、素粒子と時空間が分割出来ない領域……素領域の考え・を説明するのに、李白の詩「夫れ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」を持ち出した・などというのが在ります。当然、長い間の第一原理論争など、精密に内容を知っている・と思います。

(3)物理的世界観での第一原理

アインシュタインは、後期になるに従って、この天地宇宙の第一原理は<構造>である・四次元時空構造である・という風に考えた・のではないでしょうか。運動から力の概念を排除して・宇宙内の運動を時空の幾何学的構造で統一しよう・というこの試みは、実際には未完成の儘終わりましたが、ともかく、究極は構造だ・という執著心が在った・のではないでしょうか。

湯川博士は、一般相対論について、少なく共その構造主義を疑っている事はほぼ間違い無い様です。では全面的に否定的に疑っているか・というと、そうでもなさそうです。理論の辻褄が合っている訳ですから……。

そうしますと、一般相対論の客観的実在性・という問題はどうなりますか。

特殊相対論ならばあれで完璧だ・と思いますが、一般相対論になると、客観的実在性・という問題は<回転運動>で説明の付かない所が出て来る・と言います。運動は相対的なものだ…という事になっています。然し回転運動は絶対性が残る・という疑いが出て来る・と言います。
回転では、一点で以って回転という事は無い訳です。少なく共面積か体積かを持たないと回転ではないでしょう。生ジュースを作るジューサーの大きいのを作って、水を入れて回転させる・とします。すると水は渦を巻きながら中が凹みます。
この<凹む>という<位置の変化>は、見掛けの上では、外からの引力や何かの力には全く左右されずに、この回転自体だけで起こる訳です。相対する相手を必要としていない訳です。

もっとはっきりしているのは、台所の下水の流し口で見られます。廃水は人手で回転などさせなくても、勝手に回転して渦の真中が凹みます。

そうするとこの<凹む>という変化・運動・渦の中の各部分の位置の移動、これらは自動的に起こって来るのであって、相対的なものではなく、これ自体・運動として絶対性を持っているのではないか・という疑いが出て来る・と言うのです。この問題提起が物理学界に拡がって、今尚未解決のアポリア(難問)になっている・というのが常識の様です。

その実験は、空間や運動が・完全に相対的だ・という事は有得ない・と考えたニュートンが、絶対回転を示すもの・として指摘した思考実験・として知られているものです。

然し<絶対>と附けてしまうと、これは運動の実体化・ではないでしょうか。客観実在性・という思考が危険なのです。勿もこれは哲学サイドからの反省なのですが……。

客観実在性・という事自体の考察は、最早速物理学を離れて哲学が取扱う分野になります。一般相対論に対して必ずしも全面的には賛同しない人が居る・という事は、物理の内の事として、論証や・現実との対応・に関する分野の事でしょうが、問題は論証の方にではなく・実証の方に残っている様です。そこから、一般相対論の完全性・がまだ疑問の余地を残しているのでしょう。

もう一つ、一般相対論には、次のような問題が有ります。元々マクロ世界の法則だった一般相対論が、ミクロ世界の理論に直面して発生した問題なのですが、四次元の時空連続体というのは、素粒子や場に対して、運動の領域を提供しているだけなのか・それとも時空連続体が捩れた結び目に素粒子が発生するのか・という。時空と素粒子とどちらが第一原理か・という類いの疑問が在る様です。

してみると、何処迄も第一原理が顔を出して来る事が判るでしょう。湯川博士の<素領域>という事の提唱は、それへの解答として、時空構造と素粒子との未分の分野を提案しているのでしょう。そうなると今度は素領域が第一原理の座に着く訳で、やはり第一原理が幅を効かせている事になります。

物理学の中で、そういう第一原理性を持った客観的実在・を追及して行く事が、一つの方向として、どの程度迄・許される・とすべきなのでしょうか。

それは、お互い合意出来るコモンセンスの領域の中でしょう。物理学は演繹的帰納法の領域ですから、その中・という事になりましょう。その枠内のものとして仮説に迄及んで好い・と思います。

論理というものは、多様を統一する所にその機能が有りますが、諸科学にせよ物理学にせよ、現象の多様を論理的に統一する所に客観法則が獲得される訳です。その法則が妥当する適用枠が大きいほど・その法則は有意義性を高めます。

法則妥当の適用性がミクロの素粒子からマクロの星雲に迄及ぶ様な統一的な原理が樹立されたら、それは必ずや第一原理の座を占めるでしょうが、論理学の方から言えば、<外延>(共通の性質を持った個物群)の大きいものは<内包>(各個物に共通する性質)が薄まる・という事も在りまして、今の様な巨大な法則・というものは、案外に中身が薄いのではないか・とも予想される訳です。こうなると第一原理として相応しいかどうか・判らなくなります。

(4)客観性への執著と限界

最近では、素粒子はクォークという更に小さいもので組立てられている・とされ、クォークは今の所・三種類発見されているそうです。このクォークが物質の基本単位だ・とされていますが、それでも尚これさえ内部構造か転換構造を持っている様だ・とも言われています。

根源的な基本単位を設定する考え方は、これは第一原理思想の産物だ・と思います。然もクォークは客観的実在です。この様に客観性の世界で、一つの部分的な真理・部分的な法則、そういうものを追求して行く手段としてならば、第一原理思想は結構な事だ・と思います。

そして今度は、非合理領域へ入って、実際の人生論・生命論・生活論・の上から行くと、それは寧ろ執著の一つ・ではないでしょうか。天然自然の第一原理など在るものか・という気がします。第一原理とは人間が決めるものであって、人間の意志に関わりの無い・自然存在的な第一原理など在る筈が有りません。

物理というのは客観領域の学問でしょう。その中で第一原理と言っても、行き過ぎると無理です。第一原理は人間が決めるのであって、人から離れて、客観世界にそれとして自在する訳ではありません。この点、精神よりも物質優位を言う唯物論の根拠は崩れております。

客観という事が、人間の意志を抜きにした領域・での見方ではあっても、実際の生活の上では、人間の意志というものは何処迄も附きまとう。物理を研究するのも、我々は物理を研究するのだ・という意志が有るからこそ遣っている訳です。

ところが人間は、各人の意志からは離れた客観実在・というものを考えたくなるものです。この客観実在を宇宙大に推拡げていくと、<独立外界>などというものが出来てる・のだと思います。 

このレーニンの独立外界は「意識の外(そと)に在る」と定義されていますが、意識は空間でも空間的物理的なものでもありませんから、空間の様に内や外など在りません。「意識の外(そと)」という言葉が抑も言語使用上の誤りで、それに連れて<独立外界>も正しい概念としては成立致しません。

正にその通りです。いずれ後で詳しく申し上げますが、客観実在・と言っても、それは一応の約束上の名付け方なのでして、本当は、観測という手段を通じて<見られたもの>として以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。

更には<見る体系>が、観測体系とそれを働かせる手段とを通じて見た所の<見られた体系>以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。でも、客観という事に誰でも執著したくなる心情は判ります。

何故客観に執著するか・と言うと、客観性を明らかにしないと共通の通話が出来ない・からです。主観と主観とでは噛合わない所が九分九厘でしょう。

共通性が無ければ人と人との意見の疎通が出来ない・でしょう。そこで、自分の好き嫌いや意見を一応引っ込めて、それらに直接拘りの無い分野を表面に押出して、これによって共通の対話を成立たせます。その為にはコンセンサス・同意・合意というものをそこに結んで行かなければなりません。

そこで客観性が大事なのですが、だからと言ってそれに拘(こだわ)ると、そこが終着駅ではない・という事を見失ってしまう。すると客観から生じた<実在>という・この<考え>への執著が起こり、これが又・終着駅だ・と思込まれてしまう。これが困るのです。

それでは、人間の意識を超えた客観実在を追及する方向が、最後に怪しくなって来た段階で、どういう様に処理をすれば好いのでしょうか。

客観の場合には、如何なる学問の分野でも、未解決の領域は必ず常に残ります。幾ら天才が出て来ても永久にそうです。これは<客観>という遣り方そのもの自体が持っている限界です。この限界を心得る事が処理法になりましょう。

客観を立てないと・学問・特に自然科学は成立たない。これも学問の宿命ですね。立てれば立てたものに縛られる。これは人の側の問題です。

宿命です。客観は、対象の周りをぐるぐる廻りながら・無数に視点を作って眺めて行くでしょう。これによって・見えた限りの条件を集めて、再び対象を構成仕直す・という手段を取ります。これが・分析→総合(再構成)・という事でしょう。

これによって、分析前の対象と再構成し総合された対象とは、カオス(混沌)と判明との関係に立つから、その限りでは有益性を生じましょう。その記述は合理的予見を持つから<法則>と言います。

これは即ち、未知な対象を既知な説明で置換える翻訳作業・でしょう。個を普遍で翻訳する訳です。バートランド・ラッセルが「普遍概念を許さなければ個の説明が出来ない」と言ったのがこれです。

客観法則の<抽象性>はそこから起こって参ります。普遍の導入が、普遍性をもたらすと共に抽象性をももたらします。

以上の手続きは、特殊を、概念という普遍記号・符号・知識・で置換えるから、再構成された概念と元々の対象とは・完全に一致する訳には行きません。重ねてみて、そのズレてはみ出した所がアポリア(難問)として残ってしまいます。ここが客観の限界です。何度掘り下げ直しても事情は又同じ事です。

(5)主観要素の影響

色々な科学の中で、物理学は主観の影響が一番少ない分野である・一番厳密に追求出来る学問だ・と言われて来ました。という事は、客観性が一番確保されている・という事ですが、この点はどうでしょうか。

長い間そう言われて来ました。ところが素粒子論の発達がそれへ横槍を入れてきた訳です。

素粒子の運動を観測すると、当てた光が素粒子運動の中へ重要な要素として参加してしまう。光は客観存在でも、どれ位の強さ(質)の光をどの位(量)当てるか・は観測者の主観が決めます。光を当てない事には観測が成立たないのですから仕方が有りません。

そこで<不確定性原理>(運動量の不確定度X位置の不確定度=プランク常数・という原理)というものが引出されて、これが物理理論の一方の旗頭の様な位置を占めてしまいました。

結局、マクロの世界から誕生した一般相対論と、ミクロの法則の主役である素粒子とが、物理理論の中で出逢って、再び第一原理論争へ火を付けた格好になっているのは、客観世界へ主観の要素が権利を主張して入って来た様なものでしょう。未解決な新分野が生まれたのは、これは偶然な事ではありません。

それでも客観的学問性が一番厳密にやれる領域だ・という点はどう見るべきでしょうか。

大昔では、エイドス派の幾何学が一番厳密な学問だ・と思われて、宇宙は幾何学的エイドス(形相)を実体とする・と思われていました。今の一般相対論の時空構造第一原理は、或る意味で昔のエイドス実体論へ戻った様でもあります。

これは面白い事です。或いはアインシュタインの頭の中に・この昔の事・が在って、その応用的な気分が・時空構造論の主張・として出て来たのかも知れません。この推測は多分当たっているだろう・と思います。

まあ、それはそれとして置いても、物理学の場合は、帰納して行って、蓋然的な法則から必然的な法則の方へ・と一方的に進んで行くでしょう。不可逆にこの一方向へ進みますから、一番厳密な科学だ・と言われてきたのでしょう。

古来、観測や実験は、始めは大雑把でも段々正しさの確度が高まって行って、偶然性から蓋然性へ・蓋然性から又高まって行って必然性の方へ・と一本道を進んで行く。これが現象を煮詰めて行く観測とか実験とかの遣り方でしょう。

今度は、それを表現する理論とか法則・の方は主に数学を使う訳です。数学は計算ですから、否応無しに一意的必然的な結論へ導いて行くでしょう。確率論的な素粒子の世界でもそうなります。絶対的必然迄は到達しないだけです。

観測や実験は帰納の面・表現する計算は演繹の面・両方合わせて演繹的に帰納法の世界が構成される。これが物理学の世界ですから、古来、最も厳密にやれる自然学だ・と言われてきました。物理は統一法則や第一原理を見つけ易い分野だったのです。

その同じ物理学の中に、無秩序の度合いを表わす<エントロピー>という概念が在ります。熱力学の第二法則から導き出された概念です。熱であれ何であれ、自然界は黙って放って置くと、段々秩序が崩れて・諸状態が平均化してしまう。一方的に秩序から乱雑へ・と進んでその逆は起こらない・と言う。

これから見れば、物理学の法則追求は・偶然→蓋然→必然・の方向を辿る・としても、その対象である自然界は、寧ろ、エントロピー増大の法則・に従って、必然→蓋然→カオス(混沌)の方へ・と進んでいる事になります。

そうなれば、エントロピーの法則が第一原理として宇宙を支配する様でもあるし、カオス化が徹底すれば第一原理も何も成立たなくなるでしょう。話はあまりにも遠い未来かもしれませんが……。

エントロピーという唯一の窓口からだけ見れば、自然界の遠い未来像はそうならざるを得ません。それに連れて物理の法則性も無に帰して行く・と言うしか有りません。四劫説の・成・住・壊・空・の内の・住→壊→空・の過程を能く示しています。でも、宇宙や大自然界は、果たしてエントロピー第一原理の支配下に在るものかどうか・はまだ判ってはいないでしょう。天文では重力(引力)がそれに逆らっています。

星間物質が引合って新しい星を生み出したり、回転し合ったり・がそれですね。これは四劫説の内の・空→成→住・のコースを示しています。エントロピーの”マイナス”を引力の”プラス”がせっせと埋めている形です。

少なくとも動植物の生活・人間の生活・だけはエントロピーに逆らって遣っています。自然界の現象は放って置けば均一化の方向へ進みますが、人間が物事に手を加えれば又逆戻りします。整理という作業がこれです。

例えば、この皿の中の煎餅も、今こうしてごちゃごちゃ混沌としていても、手を加えて並べ直せば整然と規則的に並びます。エントロピーは減った訳です。その他一般に動植物の身体はエントロピーを減らす方向で生育して行っています。

物質とエネルギーだけを考える狭い立場からすれば、際立った状態(秩序)から有触れた状態(乱雑)へ・というネガティブな形にしろ、秩序という事に関係が有るエントロピー概念の登場は、一歩・秩序という枠を食み出した方向を示している訳でしょう。

そうですが、このエントロピーの増大の仕方も、数式で表現される様に秩序性を持っておりますから、乱雑度の進行も秩序に則(のっと)って現れます。裏で秩序性が糸を引いている・という事です。

結局、秩序と乱雑さ・とが相寄って現象しますから、一概に極め付ける訳には行かないでしょう。そのどちらを窓口にして現象を追及するか・は人間の主観が関わって来ます。この辺りにも主観要素の影響が有りそうです。こうして、主観要素の影響・というものは、ぼんやりしていると見過ごし易くても、以外に色々と沢山在るものだ・と思います。

(6)前提は常に問直される

人間の行為によってエントロピーを減らす事が出来る・これは当然ですが、チンパンジーが毎日巣作りをするのは、枝を折られる樹木側ではエントロピーは増え、巣作り行為の側ではエントロピーは減ります。生命現象の自然過程も又・その様に出来ております。増減相伴っております。

更に、単細胞から多細胞へ・植物から動物へ・という進化や生長の過程も、乱雑から秩序への、エントロピー減少の変化が営まれています。これを理解するために、物理学者のシュレディンガーは「生物はネグ(負の)エントロピーを食べて生きている」という表現をしました。

生物を理解する場合は、そういう方向を考えざるを得ないでしょう。生物はそのように出来た身体を持って生まれて来ています。それが土台で行動でもそうするのでしょう。物の結晶から単細胞へ・という生命発生の過程を考えてみると、物質も又チャンス次第では「負のエントロピーを食べている」のかも知れません。

とにかく、エントロピー・エネルギー・素粒子・四次元時空構造・その他・そのどれか一つだけで宇宙万象を一つの統一的な理解に纏め上げよう・というのは一元論思想ですが、そうしようとしても、これは神様でも出来ない相談でして、終点が出来てしまっては、物理学進歩の安楽死を意味します。

それはどういう事ですか。

客観的な現実世界についての理論としても、<唯一を以って万象を統一理解に纏める>という事が原理上不可能なのです。すべてを外延に含む事は、無分別になってしまって外延が無い・事ですし、内包の方は<法の中味>が全く無い事になります。分別ではなくなります。

次に、客観世界は相対世界であって・絶対世界ではありません。相対世界なのに、唯一が在って・二も三も無い――この状態は絶対世界ならば在る――という事は、相対性を失って、その<唯一>も又消えて無くなる・事だからです。

これは哲学サイドからの反省ですね。了解致しました。

第一原理思想からして一元論指向なのですが、一般に・こういう一元論思想には、それが、<妥当であるかどうか>という問題と、<何処迄妥当か>という問題と、果たして<好もしいものかどうか>という疑問とが付いて回る・と思います。

でもこれは哲学分野の問題になってしまいますから、ここではこれ以上触れません。一元論に対しては二元論が在ったし・現に在るし、又、弁証法的反省として、一元論に対する<反>の提唱が必ず有得る・事だけを申し上げて置くに留めましょう。

先程、自然科学の中では物理学が最も厳密さを保ち得る領域であって、偶然性から必然性の方へと辿る・という話が在りましたが、生物学の場合はどうでしょうか。

生物研究では・必然性・という事はもっと少なくて、蓋然性の・確度の高い所・で留まらざるを得ないでしょう。生物学基礎論のそれぞれの立場には、相当に主観要素が入ってくるでしょう。ダーウィンの進化論がその一例です。

生気論の場合は類推法でやりますが、一番新しい現代の生物学という事になれば、これは機械論でして、演繹的帰納法で研究を進める・のだそうです。この生気論と機械論との総合はまだ未解決だそうです。

あらゆる自然科学は、客観の領域ではありますが、元々・主観の領域と客観の領域とを・画然と切り放しが出来る・という考え方自体が、第一原理みたいなもので、限界が在る事です。仕方が無い事です。

物理学では、一応、そういう事が出来る・という前提の上に立っています。ところが、その前提が、最後の所で怪しくなり、逆に困難な問題となって現れて来ます。前提が逆に難問化して現れる・のはどの科学でも同じでして、数学でも、今でも未解決の問題が、数学基礎論の中に可成り在るのではないですか。

そう言われております。数学基礎論や論理基礎論は、最早単なる科学ではなくして、哲学の分野にも跨がり入るのでしょうが、それはさて置いて、何時でも既存の前提を問い直して学問は進むのでしょう。

有名な思考実験ですが、放射性元素の崩壊によって、一匹の猫が、半身は完全に死んで・あと半身は完全に生きている、決して気息奄々・半死半生・呼吸(いき)断え断え・などではない……という<シュレディンガーの猫>(量子力学のパラドックスの一例)の話が在ります。

こういう所に来ますと、最初に前提して置いた、人間の意識と客観対象とを切放せる・という前提が怪しくなって来る訳です。又、そうでないとすれば、その適用範囲は何処から何処迄か・という風に・結論や法則を導入するのに使った論理法を検討せざるを得ません。

そうです。前提を反省し再検討するか、論理法の適用範囲を見極めるか、いずれかの作業が必要になります。極限迄来ると、どうもそこに不可解な所が顔を出します。だからそういう際の解決法として、アドホック(便宜的)な仮説を設ける・という遣り方も在るでしょう。

行き詰まったら・便宜的な前提条件をとにかく付加えてみる・という仕方です。これを付加えてみて、それで一歩でも二歩でも前進できたら、次はアドホックな仮定をなるべく消去する様に努力する……こういう学問の遣り方が在りましょう。これも前提の問直しの一例です。

(7)内観における約束事

アドホックな仮定で処理しよう・というのは、科学の限界を押拡げて行く努力だ・とも言えそうです。然し科学としては、限界そのものを撤去する方法は無い訳です。

そうです。限界は常に付纏います。それで気に食わなければ、対象の外からぐるぐる回って眺めるのを已(や)めて、対象の中に入って内観(反照観察=反省の事)し、共感して味わうしか有りません。これは最早科学を已めた事を意味します。科学からの脱出です。

不可避な限界に遮られ、対象を知り得る限りは知ったが尚知り尽くせない。これは苦しい事です。学者に付き纏う必然的な苦悩です。知の対象は無尽ですから……。

こうしてみると、つきつめて再応の所からすれば、第一原理というものは、実は客観の対象の中には在り得なかった・厳密には客観の領域中には在り得なかった・という事がはっきりしませんか。客体の中に真の第一原理は無い。これは大事な事でしょう。

又、学者には、知って知り尽くせない苦悩が附纏う・という宿命的な点ですが、これは哲学者でも同じ事です。学者の宿命・限界です。反省は別ですが、知る事・思考・推理・推論・にばかり閉篭ると、逆にそれに縛られて身動き出来なくなります。

人間は学者で留まってはいけない・と言うのはその辺の事情なのでしょう。科学者や哲学者が、学者として色々考え、深い意見を発表しても、結局は、対象について、記号・符合を積重ねて<普遍>の遣繰りの世界をぐるぐる回っているに過ぎません。これが盲点です。

これでは迷いの六道輪廻の方程式そのものです。科学者は勿論の事、哲学者が哲学者として留まっている限りはそうなります。観察と思考との間を往復している間は、結局は終点が得られずに循環してしまいます。

自分を研究対象にして・反省でない内観・つまり自己観察・をしても事情は同じです。観察し思考しても、事態は、明らかになっただけで・これだけでは一向に変化も向上も無い訳です。終点無き循環・をするばかりです。でも知らないよりは益しでして、反省への手掛かりには大いに役立つ事になります。

これに対して、仏法で内観と言うのは、対象の中へ入って黙って味わっている事ではないでしょう。対象の中で対象と反省的に一体化して共同生活を展開する動的な動き、これが本当の内観ですから、内観は学問ではなくて反省生活です。この生活は改良行為という点で修行です。内観は修行なり・です。

内省や内観は<自分で自分の心理を観察する事>と言うだけでは足りないのですね。世間の定義では大体こんな具合になっておりますが、仏法の場合では・もう一歩・先迄踏込んでいる・という事ですね。

そうです。押並(な)べて・客観という事は、お互いの共通認識の場を作ろう・という要求から生まれて来た分野でしょう。人間は社会動物ですから、社会生活にはこういう<場>は是非共必要だし有益です。

でも、お互いに人間には・共通性も在れば・個としての特殊性も在る訳です。個別な意志意欲が在り・感情が在り・癖(習気=習慣的気分・前業の余残気分)が在るのですから、客観ではその分だけがどうしても切捨て・になってしまい、切捨てた不足分だけ生(なま)の人間ではなくなっている訳です。抽象人間に化しています。

お互いにずうっと話合いをして行って、全てを客観上で合意し尽くしたら、その途端に、共通出来ない・理解し合えない・互いの分野が顔を出して来ます。ここで客観性が行詰ってしまいます。

二人で同じこのお茶を飲んでみても、どういう風に美味しいと感ずるか、どちらがどの位・より美味しく・感じたのか、或いは不味く感じたのか、これはもう、どう仕様も無い・厳密な比較検討が出来ない分野になります。

ここは、完全客観化出来ない・感覚や状態や主観の領域です。個人毎の世界・一人称世界です。ここを消化出来るのは内観しか有りません。内観での消化は、比較検討という手段を取らずに反省共感という手法を取ります。ここ迄到達すると、客観的な第一原理は吹飛んでしまいます。

第一原理の追求・という事は仲々難問を孕(はら)んでいますね。それでも執拗に第一元理を追求せざるを得ない根拠は、最終的には、なにか絶対的なものに寄掛かって安住したい・という・人間の<願望>に在る・のではないでしょうか。

心理的にはそうでしょう。然もそれは深層心理内での状態ですから、仲々自覚出来ない所に面倒さが有ります。

話が心理面へ移れば、学問としての領域は、内観を論ずる哲学とか宗教とかへ移行してしまいますが、そこでは客観的な存立としての第一原理というものは無くなるでしょう。

無くなります。その替りに、人間がエンゲージメント(約束事)として・ルール(規則)として・人手で設定したもの・として現れて来ます。

物理学で代表される、主観性を出来るだけ消去して・客観的実在性を考えて行く学問・に対して、その反対の方向を目指す学問・も在る訳です。西洋の学問では、ベルグソン、デルタイ・などの<生の哲学>というのが、直感とか表現とかで・生そのもの・を捉えようとして、非合理な認識・を展開しています。

つまり、<非合理>に第一原理を求めた訳でして、これは批判哲学よりも豊かな内容を持つが、その非合理領域をどう一般化するか・が問題にされています。この学は・客観は裏へ回して・主観の領域を拡げよう・としています。この学は成功している・と言えますでしょうか。

評価という事になりますと、評者が持っている思想により・立場立場で違ってきますから仲々面倒です。とにかくこれは、生そのものを捉えようという正しい意図を持つ哲学だ・と言われております。人間生活の在り方の生々しさを掴んだ・という点では成功を認めて善い・と思います。

仏法から見れば、六道の生々しさから二乗独覚の悟りの方へ・と行く方向を取っている訳でして、具体的な生そのものを・生に即して捉えよう・という事で、能く調べておりますが、人生に現実はそれに尽きるものではなかろう・と思います。

我が国では・芸術関係の人々の中に支持者が多い・とも言われております。学生間では・一度は関心を持つ・とも言われております。

この説では、自分と他者との十界性・など思いも付いていないでしょう。何よりも欠けている・と思われるのは、有は何処迄も有(実有・厳有)であって、空・という判断・考え方が出来ない所が不足だ・と思います。

ヤスパースの様に仏教に関わっている人でも、せいぜい二乗界の初期段階・という程度ではないでしょうか。この人は自分の哲学の中に仏法思想を解消しよう・という態度を問題にされています。

生の哲学・実存主義など、系譜を辿れば古くはなりますが、固まった思想としてはそう古い昔からではなくて、むしろ一九世紀から二十世紀へ掛けての議論でしょう。その祖形の思想としてはキリスト教がそうですし、パスカルの思想などが挙げられますが、他と際立った哲学として登場したのは新しい・と思います。脱俗を目指しています。

これからも、人の納得を得る様な理論の構築はまだまだ出来るだろう・と思います。脱俗向上の意図は判りますが、でもその研究はまだ世俗の中を領域にしているに過ぎません。それが何時か本格的に仏法と出逢ってみたらどう変わりますか……。ここにも・第一原理を掴み出せるかどうか・という興味有る課題が残っているでしょう。

2:法身中心は一応の話

(1)認識が先か存在が先か

第一原理論争の中には、昔から・もう一つ面白い論題が在ります。<存在が先か認識が先か>という・優位を争う問題です。この問題を解こう・という動機が、認識論を生み出す一つの契機になった・と思います。哲学の流れとしては、存在論から始まって認識論へ移り、又存在論への志向が芽生える・といった、曲折した歩みを辿って来たようです。

存在論はギリシャ以来長く哲学界で主流を占めて来て、一六世紀のデカルトから認識論の時代へ入ったのですが、世の中を客観して論を立てれば、存在でないものは無い・から存在優位の考えになります。これは三人称の世界を展開する事になります。

でも、一人一人の立場から考えれば、認識されない存在は有得ませんから、この一人称の世界では、認識論から出発しないと、存在はどの様なものなのか・さえ判らない事になります。今では一人称世界で、つまり、一人一人の立場での存在を考える・という存在論さえ在るのでしょう。仏法の中での存在論は常にこの立場です。

いきなり<一人称・二人称・三人称・の世界>と言うと、理解し難(にく)い向きが在りそうですが……。

一人称世界は<我れ>の自覚領域・二人称世界は<我れと汝>との社会関係の交渉領域・三人称世界は<あれ・それ・これ>という・存在を客観して認識する領域・ですが、論理命題界の三種類の区別を指します。いずれ論理学に触れる章で詳しくやりましょう。そこで正確に理解出来る・と思います。

認識論とは<自分を含めた世界の全存在は、人間にとって、どの様なからくりで・どの様に認識されるのか>という<認識成立の仕組>を追求する議論ですが、その発展によって、極端に言えば、今は認識論万能の時代を経て来た時代でしょうが、それでも唯物論者ではない反対論者も居りまして、認識自体も一つの存在だから結局は存在論に帰る・と言っております。「認識論の認識関係もすでに一種の存在関係に他ならない」と言うのがその一例です。これも一理有る所です。

「認識関係も一種の存在関係に他ならない」と言うならば、「あらゆる存在論の一切の存在と存在関係も、全て認識された上での存在・存在関係・であり、一種の認識関係に他ならない」と言返せる訳です。

両者の違いは、存在を窓口にするか・認識を窓口にするか・の差でしかありません。学の目的によって窓口は違って来る・のです。この<学の目的>を抜きにして優先論議をしても仕様が無いのです。

現代の哲学が存在論的基調を帯びたのは、現象学派のハイデッガーの<基礎的存在論>の影響だそうです。彼は・存在者を全面的に超越して存在の意味を問うた哲学者です。然しそうだからと言って、存在優位を主張するならば、これも又いけないのでしょう。

存在と認識は、互いに相手を求め合う事を最小限の充分条件とし・依り合い・によってのみ成立しています。これが<縁起>という事ですが、縁起の関係が崩れたら・両方とも消滅せざるを得ない道理です。客観や交渉は、この一人称の自覚世界の上へ築かれるのですから、誰の認識にも拘らない昔からの存在が在るのだ・と言っても通用しません。

存在の独存や認識の独存は金輪際不可能です。両者は<相依>の関係になっております。優先関係は認められません。この点から見ますと、縁起(の法)こそが第一原理なのでして、存在も認識も第一原理たり得ません。

厳密には、存在・と言っていけなければ、存立でも成立でも出来事でも好いですが、歴史上では、長い間、形而上学的な思弁で第一原理を求めて来た・と思います。総じて形而上学は、合理上では肯定も否定も出来ない概念や命題を沢山取扱いますから、気を付けなければなりませんね。

とにかく、認識が中心か存立が中心か・と、命題の人称を外(はず)してそういう風に論ずる事自体が錯覚ではないですか。ヴィトゲンシュタインが言う<無意味な命題>というのがこれです。鶏が先か卵が先か・という話に似ています。

五蘊(ごうん)説からしても、色(しき・存立)と識(了別・認識)に後先(あとさき)・第一第二の優劣など在りません。同時に・色に依らない識は無いし・識に依らない色も無い。それ自体として自然決定される中心など有得ないのです。

存在も認識も第一原理たり得ない。縁起という法こそが第一原理である・という事になれば、存在と認識・更には存在論と認識論との間の優位争いも消滅せざるを得ませんが、そうすると、論としての第一原理の座を占める第三の論が在る事になります。

そういう言い方になりますと、第三の論というものは確かに在ります。それは自覚論です。西洋哲学では・自覚論・と言えば<自我の自覚>という事になりますが、決して自我の自覚だけが自覚論なのではありません。キリスト教ならば<原罪>の自覚・という<罪の自覚>が在る訳ですし、善悪の自覚・聖俗の自覚・使命の自覚・才能の目覚め・春の目覚め・等々色々在る事です。

総じてその<自覚に就いての論>というのは合理主義の路線には乗って来ません。従って<自覚論>というのは、論として成立たせるには非常な困難が伴います。

仏法では・我が身の六道九界を反省して仏界を自覚する事・を目指します。仏法は反省をバネにして・体験中心に・直接手で掴む様に会得し自覚して行くのですから、この意味では明らかに自覚論です。

縁起法が第一原理だ・という考え方も認識の一つですが、存在も認識も・存在論も認識論も・全てこうした自覚の領域の上に、その上部構造として発生して来る・のですから、この自覚という下部構造を見落としたり除外したりしてはなりません。

このような反省自覚を説く仏法というものは、仏様が衆生に対して誡めて・反省を求め・自覚を勧(すす)める教法です。従って経文は修行論が過半を占めております。仏法はその上での<智法>です。勧誡二門に立つ智法です。断じて境法ではありません。

(2)自覚への勧め・自覚への学び

仏様の方からすると、仏教の全体は「この様に修行して苦から解脱しなさい」という大慈大悲(与楽抜苦)からの<仏様からの勧め>です。自覚の勧め・とはこの事ですね。

この勧めを受取る衆生の方としては「ではどの様に行ずるのか」という事になります。これに対して仏様は「己れの作業(さごう・行為の事)を反省して仏界を自覚出来る様に」行ぜよ・と言う訳です。仏様が大悟以前に反省し・そして自覚して・開悟した経験に基づいて、自分と同じ事を衆生にも「行ってみなさい」と言っている訳です。

勧める仏様は<反省―自覚>の行を勧め、受取る衆生の方は<反省―自覚>の実現を期して行を励む訳ですから、仏教の<教法の基本オルガノン>たる理論も<反省―自覚>という事になります。八万法蔵も結局は教(理)行(事)共にこの一点に集中している訳です。この一点が<観心(かんじん)>です。

普通<観心>と言うと、教相に対して観心・と言います。一般に、内観・観心・観念・観法・……。皆ごちゃごちゃに使う傾きが有りますが、本当は整理して理解しなければなりませんね。真の観心は・反省→自覚・でしか得られない。これを<得意>と言いますが大事な事ですね。

観心は反省自覚なり>です。推理つまり論理考察からは決して観心は得られません。己心を観じて十法界を見る・そして仏界を得る。これが観心です。信心を以って観心とするのが下種仏法ですが、ハイ・信じました・反省の方はしません・己心に十法界はとても見えません・では観心とは言えません。信心とも言えません。

仏法では、我が己心(心法)に就いて(就法)反省→自覚で得た<一如の境智=仏界>(巧帰)を<観心>と言い、これが仏道修行の目標な訳です。観心とは・自分の九界を反省して仏界を自覚する事です。この観心は最高の智法です。境法ではありません。

観法とは・その己心の内容を法(境法)の面で観る・のですから「故に止観に至って正しく観法を明かす、並びに三千を以って指南と為す」(妙楽・『弘決』)という事になる訳ですね。

「説己心中所行法門……天台の所行の法門は法華経なるが故に、……但己心の妙法を観ぜよ……若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」(立正観抄)という所を能く考えて見るべきです。仏法は論理(正しくは論法)的にも倫理的にも全て反省自覚法です。智法です。

普通そこの所が一向に理解されていない様です。仏法は反省自覚法だ・と言うと、何か現代の新説の様に受取られ兼ねません。少し述べて置いて下さい。

六道九界を反省して仏界を目指し、修行し自覚してそれを得るから・九界即仏界・が実現します。九界を反省して自覚するから初めて仏界の身に成得ます。これ以外に九界即仏界を実現出来る道筋は無い訳です。

この反省自覚の・道筋と具体策・を教えているのが仏法です。持戒にせよ・禅定にせよ・読誦にせよ、皆その<筋道・具体策>として教えられているものです。三世諸仏と仏国土との関係で仮令教主が替ったとしても、反省自覚・という教えの骨格は変わりません。

凡(およ)その所は判りますが、それを少し具体的に示してみて下さい。

例えば持戒を考えてみましょう。これは何も・聖人君子になれ・と勧めているのではありません。施戒とは、防非止悪(戒)で自ら身口意の三業を規制する事に依って、凡身凡心を外側から規制して、規制の強制力で反省させ、その反省をバネにして仏と法とを求めさせ、その求道の力で仏界を自覚出来る様に仕向けている訳です。

坐禅で代表される禅定修行の場合はどうですか。<定>とは<一心不乱>の事で、何も坐禅だけがその方法になる訳ではありませんが……。天台では・常坐・常行・半行半坐・非行非坐・の四種類の禅定三昧行(四種三昧)を説いております。

禅定修行で歩行禅をしても坐禅を組んでも同じ事です。心を<からっぽ>にするだけならば只の<お休み>です。ストレス解消の健康法にしかなりません。目を半眼にし・背筋を伸ばして身を不動に保つのは、不動心で心を集中する<目標>を持つ事です。煩悩が乱心を起こしてその<目標>を壊しに来るから、それに負けない態勢を取る為です。

ですからこれは己れとの闘いです。それで、心を観ずる・といって、自分の心の中の求道心を通して凡心を反省し、予(かね)て教えられていた法理を想起して仏を求めるから・初めて・心を観じた事になります。

ですから、妙法を受持しない心・では観ずべき対象が無くて、自覚の目標が無い訳です。こうなると、空見に堕して空病患者になってしまうだけになります。事情は読誦受修行の場合も全く同様です。<反省→自覚>が仏道修行なのです。

これは世間通俗の反省とは凡そ違ったものですね。

天台はこの<反省→自覚>の道筋を<反照観察>と言っています。『止観』大意章の「心の起こす所の善悪の諸念――に(九界の諸念)――従って無住著の智を以って反照し観察すべし」と言うのがこれです。この<反照観>が反省行です。

反省するには、筋道・具体策を教えた教理・教法・が是非共必要な事がそれで判ります。この教理・教法という化法に対する化儀が或いは持戒であり・或いは坐禅であり・読誦な訳ですね。これらの行態を貫いているバックボーンが反省行為という事なのであり、これも又智法なのですね。

口では「反省」と簡単に言えますが、実際には<反省する>という事は実に難しい事なのです。誰でも・自分のした事は・そんなに悪くはない・と思っています。自己辨護の心理がすぐ働くのです。

世間に向かっては、合理化の口実を付けて誤魔化したくなりますし、自分に対しては慰めの理屈を色々と立て、結局・反省はお座成りで終ります。

仏法の反省はもっと難しいのです。今の自分はなに界か・を反省するとしても、反省して・地獄・餓鬼・畜生・修羅・という界へ行っては何にもなりません。反省して・人界・天界・二乗界・へ行く事(自覚する事)ならば、仏法は無くても自分の努力で出来ます。

ところが、菩薩界・仏界を自覚するような反省だけは、仏法無しでは、<教法>無しでは、絶対に出来ない訳です。釈尊以来・時代毎に教法は変わって来ましたが、どの教法でも反省自覚法であったし、この一点は永久不変です。仏法は反省自覚法です。反省自覚の智法です。断じて境法ではありません。

反省自覚法と言うと、現代の論理学では<論理の限界を超えた・自我の自覚を得る為の弁証法>の事を指しています。仏法のは当然これとは違ったものですが、仏法内に反省自覚という事を教えた用語は無かったものでしょうか。

梵語のブッダ(仏陀)は漢語では「覚者」と訳されています。これは・悟った人・の意ですが、悟りとは抑も<唯自覚了>の事です。<唯(ただ)自(みずか)ら覚り了(おわ)った人>ですから・唯自覚了の人・が覚者になった訳です。唯自覚了を縮めれば<自覚>という言葉になり、これが現代でも盛んに使われている訳です。

今世間で使っているのは西洋哲学が入ってきた明治以降の風潮で、儒教の筋から取入れて<反省>と語用をしている・と思います。仏教の方からは来ていない・と思います。江戸時代の朱子学に語源が在ったのではないでしょうか。

それはともかくとして、<反省>の方は<省=顧=かえりみる>から現代用語として使われる様になりましたが、昔では<沈思量知>がこの意味でした。この沈思の思は思或の思――これは<情>の意――ではなくて、内省・内観・自己反省・の事です。量知は・はか(量)って知る・事ですから、沈思量知は<反省知識>という事になります。

沈思量知を縮めて<思量>という用語が在り、「此れ即ち不可なり――何(いか)に為(せ)ん何に為ん学者思量せよ」(末法相応抄)という風に使われていました。「学ぶ者よ反省しなさい」と言う訳です。ですから漢語の筋からすれば、「仏法は反省自覚法だ」と言うのは「仏法は沈思量知唯自覚了法なり」という事になります。

この<思量>は『法華経』方便品等にも盛んに出て参りますが……。

この思量の<量>(プラマーナ)というのは、仏法を含めたインド哲学での・大事な概念の一つ・でして、<認識根拠・認識手段・認識作用・これらの結果である知識>という意味を合わせ持ちます。

量論はインド論理学の中心問題であり、仏法論理学(因明・いんみょう)では、認識成立への与件としては、主体与件として<識>を挙げて、<根境識>(十八界)を論じます。<識>の基づく感覚機関が<根>、根の対象が<境>です。こうして知った知識が<量>です。

インド論理学では、こうして知られた知識は、正しい推理知としての正知も・反省して知られた観知も・どれも皆・解脱へ向けられ、<解脱という目標に添うべきもの>として心得られるのが特徴です。これは西洋の論理学には無い特徴です。

(3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論

そうすると、仏法の論は自覚論であって、存在論でも認識論でもない・という事になりますが……。

仏法そのものは・小乗から文底(もんてい)迄全部・修行論による自覚論であって、その他の何物でもありません。そこがややこしい所です。仏教は、自分を含む世界をどう認識するか(存在論)・という目標を立てたものではありませんし、又、全世界を認識するその認識はどの様なからくりで成立するのか(認識論)・という哲学レベルを目標にしている訳でもありません。目標は解脱に在り・です。

反省自覚法として、何処迄も修行の勧めなのですね。六道流転への誡め・仏界への勧め……。

つまり仏法というものは、存在論でもなければ認識論でもないし、修行論とは言っても単なる経験論でもありません。然し世俗からの現実の超脱正理(ニャーヤ)を説いて修行を勧めるのですから、正理を明らかにするには・存在論も・認識論も・経験論も・皆登場して参ります。これは皆・正しい自覚論へ集約するものとして、合理性を貫いて説かれている訳です。

仏道修行は必ず、信と信から出た知慧・とが基礎になります。仏法は<知慧の学び>であって哲学ではないが、大いに哲学面も説かれている・という事ですね。

そうです。その哲学面を取上げて言うならば・仏法は認識論が中心です。哲学面での中心の<説かれた理論>の<骨組>は徹頭徹尾・認識論です。決して存在論ではありません。存在論は境法です。仏法は智法ですから認識論――自覚認識論――の方を説く訳です。

というのは、枝葉を払除けた仏法理論の根幹は、色受想行識の五蘊(ごうん)という事を挙げて、<自分が如何に拘って・どの様な構造・仕組で世界を識り己れを識るか>を中心課題とし、結局は八万法蔵の哲学面での議論がこの一点に尽きるからです。

顧の五蘊縁起説が・事(じ)としては自覚論であり・理としては認識論だからです。この五蘊法は智法であって・本来は境法ではありません。対象化すれば境法にもなる・という事と・元来智法である・という事とは違う事です。

そうすると、仏法はその立場上・認識論を展開しているのであって、この事は「存在論よりも認識論が優れているのだ・こちらが第一原理だ」と主張しているのではありませんね。敢えて認識論を存在論よりも優位に据えているのですね。

そうです。仏法は・哲学的説明や知識理論面は徹底して認識論であって、どんなに存在論の部分が在ったとしても、それは常に認識論優位下での・それへ役立てる為の存在論になっております。経も釈も論も全てそうです。更に、認識論と言っても・それは自覚論の体内(その大枠の中)の認識論です。

自覚内容を他者へ語り掛ければ、成行きの必然で認識論にならざるを得ません。そこは仏と衆生・能化と所化・我れと汝・の二人称世界です。社会関係の領域です。だから元々自覚一人称の仏法から、仏教という・客観化し二人称化した教法・が成立っています。そしてその教法の<述べ方・記述の仕方>は三人称化しています。三人称化は方便・手段です。

自覚世界は個人個人の世界で一人称世界・我れと汝との社会関係は二人称世界です。これに対して・三人称世界は、個人からは外化して独立してしまった所の・その替りに万人に共通する世界です。存在の世界はこうした三人称世界ですから、仏法は存在論でない事は能く判ります。

仏法理論は一貫して認識論である・という事は、認識論や認識が優位であって・存在論や存在とか存立とかはそれより劣る・とか、存在や存立に動かされて人間は認識するのだ・という事とは違う事ですね。混同したら大変な事になります。

<認識>と言うと普通は、誰にでも受容れられる認識・つまり二人称・三人称の枠内での認識になります。<存在>についても事情は同じです。ところが<認識論・存在論>という事になりますと、元々は一人称世界を舞台にして思考される事が殆どで、この為に・諸説相容れない・事が多いのです。この事から哲学は<孤高の学>だ・と言われています。

然し能く考えてみると・孤高であっても、認識論は存在論や形而上学を除外しては論じられないし、存在論や形而上学も認識論を除外しては論じられません。どの論もお互いに<含み合い>の上で成立している訳です。そこで・どれを原理上優位に置くか・はその論者が立場で決める事です。つまり・どの論を論ずるか・に従って決まる事です。

優位や従属関係は自然決定するのではない・という事ですね。そうかと言って勝手に好き嫌いで決められても困りますが……。

もう一つ。仏法は終始一貫<反省自覚実践法>で、説かれた法門の哲学理論は徹底して認識論なのですが、ここから一つの混同が生じます。仏法は徹頭徹尾・認識論である・と言うと、反対解釈をして、すぐ、それでは全て認識が中心なのだ・と認識優位論が出て来ます。これは誤解ですが、大抵そこがこんがらがるのです。

存在の世界(三人称世界)では存在が優位に立ち、認識の世界(二・三人称世界)では認識が優位に立つ。これは当然な事ですが、そうかといって、三人称世界と二人称世界とどちらが優位に立つか・と問うのは成立たない設問になります。

認識優位か存在優位か・どちらが第一原理か・と言うのは、論争自体が成立ちません。過去の哲学史上ではこの点・無意味無効不毛な論争をしていたのです。そういう風に優劣を着けたがるのは、心情から出た事で、理性の預かり知る所ではなかったのです。間違いだったのです。

その論争の代表例は、割に近い所では、マルキシズムの側から盛んに仕掛けられました。物質を第一原理と固執して、意識は物質の反映だから物質優位だ・観念論は皆逆立ちだ・と主張されました。これも結局・理性を装った心情論であった・事が明らかです。

但・念の為に了解を求めたいのですが、普通<認識>と言うと、それは<理智によって客観対象を合理的に知る事>を意味します。だもここではもう少し広い範囲で用いた事を認めて欲しい・と思います。

概念操作以外の認識も在るのでして……、というのは、信仰して知られた仏法は非合理体得事法ですし、信仰者の認識は、対象を客観して得るのではなく、直接把握した対象を再度想い返し・反省して認識するからです。然も必ずしも合理的に思考して認識するのではない・からです。信の上での反省自覚の認識になるからです。

そこが仲々大事な問題です。直接体験における自覚認知結果としての認識そのものと、その体験内容を過去化し一般化した理論としての認識とでは、同じ言葉で「認識」と言っても、違った内容の意味を帯びて来る訳ですね。

先のは現実生活の上での・後のは理論としての・認識です。実際に環境と関係して自覚した内容を理論化すると、どうしても認識論にならざるを得ません。存在論には成りません。

(4)存在論者が陥り易い執著の穴――法身中心主義

その点で困るのが一つ在ります。それは「結局、天台は存在論へ転落した」と言う意見です。存在論らしい所は色々在りまして、例えば『止観』正観章・観不思議境の<十界の所居>の説明・などは確かに存在論になっておりますが……。

何も転落などしていません。当人が思違えているのです。この人は、仏法は智法であって認識論を説くものだ・と知っており、更に・仏法は形而上学を強く排除する・存在論など説くものではない・と知っている人です。そこから行過ぎたのです。

天台は・自分の己心の法の自覚論を人に示す為に、智法を徹底して認識論化して述べたのですが、その中に存在論も展開されていますから、そこに執著(しゅうじゃく)して見ると・転落した様に見えるだけの事です。読む側の法執から出た誤解なのです。

大体、自覚論であれ認識論であれ、その中に存在論も展開されていなければ・認識論を説く事が出来なくなります。在って大いに結構なのです。『法華経』にしても・娑婆世界とか霊鷲山とか十方の仏国土とか・色々存在論を展開しているではありませんか。

形而上学排除が存在論排除に繋がって、論の中に在っては悪い様に思うのは行き過ぎなのですね。これは増謗……。

その上で仏法の根幹は全て自覚論です。仏法での・自覚論・認識論・存在論・の関係は、自覚論という家の中に認識論という各部屋が在り、その各部屋の中に存在論という色々な家具道具の類いが在る訳です

部屋が家のそとへ外化して独立に存在する訳には行きません。家具道具類が部屋や家の外へ出てしまったら役に立ちません。何処迄も反省自覚の中の認識論・又その中での存在論でして、この関係は決して壊れません。

仏法では、自覚内容と・それを一般化して伝達する認識・との違いについては阿含部諸経の最初から厳しく峻別して注意深く取扱っている・と思います。前者を<事>・後者を<理>・と称するのはその一例でしょう。

その点はどの経文でもはっきりさせています。自覚内容は<離文字の法・無分別法・言語道断・心行所滅>など多彩な表現で示し、それは<言説・分別・仮名の法>(認識)とは違う事を力説しております。

仏法は仏様の如実知見(自覚)を説くものですが、他人に判る様に対他用に説かれた立場のものとしては、経も釈も論も根幹は全て自覚論の中のものとしての認識論です。これらの中心である経は、報身如来が史上に現れて現実の応身で以って説かれた果実です。

これも第一原理争いになって参りますが、現実に説法するのは常に応身如来であって報身如来ではありません。然も仏教一般の立場からすれば法身中心が根本であって、三身の中でも法身が中心になります。「諸仏の師とする所は所謂・法なり」(『涅槃行』)というのがこの立場です。

その・仏教一般の立場・というものは、何時でも法勝人劣の局面を論じておりますから、この場合は・当然・三身の中でも法身が中心になります。法や法身が中心だ・という話なら何処にでも在る訳です。

「ただ法身を以って本と為(な)さば何(いず)れの教にか之れ無からん」(『文句記』)でして、これは一般論ですから、どんな宗派、蔵教・通教・別教・円教……つまりどんな教にもどんな経にも在る事です。ですからどんな宗派でもこれを言う訳です。

実は今取上げた「如来如実知見」の問題は『法華経』寿量品の問題でして、一般論の場合とは違って来るのです。この極説の所になりますと、三身即一の自受用報身如来が中心になります。

「そういう事を言うのは宗派の勝手であって、仏教全体を冷静に見れば・やはり法身中心が本当だ」という反論が有ろうか・と思います。これは・理としては・法を第一原理とする事ですし、価値観の方からすると・仏よりも法の方が・より尊い・という主張になります。仏法の勝劣論は両者を含みます。

本覚論の立場からしても、永遠の法理が貫いている法体たる・宇宙・そのものから個々の仏は出現して来るのだから、大元である宇宙の<法>が中心である筈だ・という考えも出来ます。法勝人劣というのも結局ここに根拠が在る・と思います。

その法身中心主義は、存在論者が陥り易い執著の穴なのです。存在の窓口にしがみ付いているとそうなるのです。この対話では余り奥義には立入りたくないのですが、一端だけ申し上げて置きます。

仏法では仏なり事態なりから離れた法は無い訳です。仏なり事象なりから離れた法は抽出した<理>だけ・形式だけの事になります。法の理在は客観上の事柄でして、そこでは法はまだ尊貴でも不尊貴でもありません。三人称命題(客観)からは価値観――これは二人称命題界の産物――は出て来ませんから<尊貴>という概念が生ずる余地は全く無いのです。第一原理の方しか出て参りません。

そこを二人称世界の方から見返せば、法を証得する人を尊貴にする<可能態>の段階に留まっております。人法共にまだ尊貴ではありません。無記です。

人法は、仏と衆生との二人称世界で事在になって・初めて尊貴になります。自覚所証の法に対して能証の人(にん・仏)が実際に居て、人法が互いに顕わし顕われ合う……この人法互顕の所・具体的な<事実上の顕現>が大切です。この所証法は反省自覚法です。

事実の上では、自覚法理は・自受用智の仏様・つまり自受用報身如来の上にのみ顕現していて、あとは宇宙の何処にも無い――心外無別法――のですから、人法の間に勝劣は無くなります。人即法・法即人・の二而不二体一です。この報身如来が中心になります。妙法を反省自覚した方です。

こうして究極迄来て、『法華経』寿量品の人法一箇の局面になれば、報中論三と言って知慧(実相般若・無分別智)を中心に見ていますから、三身の中でも報身を中心として三身を働かせて行く・と言います。諸仏知慧甚深無量と称(たた)え、教主を自受用報身如来と称します。その知慧は直観智であり・自行智・内観智であり・無分別智・無礙智・無上知慧であり・化他智であり、その全部が無作本有の知慧である・とされ、化他の力用はこの知慧に基づく・と言われます。

普通、世間一般ならば、言語道断・心行所滅してしまうと、音楽・美術・芸術・等の世界へ入ってしまいます。言語道と心行所との以外の世界は、こうした<表現>しか無くなります。世俗ならそれしか行先が無い訳です。それは、纏めて言えば情念の世界です。これも直接把握の世界です。

直接把握の世界ではありますが、仏法の直接把握は<正見>を軸にしたもので、こちら(世俗の情念世界)は<思い>を軸にしています。日本人は『源氏物語』の昔から<もののあはれ・わび・さび>といった情緒を尊重して来た民族ですから、それはそれで好いのでしょうが、生死一大事の解決にはなりません。

こういう世界を<縁覚界>だ・と思っている向きも多いのですが、これは間違いではありませんか。全く縁覚性が無い・と迄は申しませんが……。

これは人界・天界に属します。縁覚界ではありません。声聞・縁覚界の最高位に達した人を阿羅漢と申しますが、仏説の第四回目の集結で『大毘婆沙論』を集結したのは五百人の阿羅漢だった・と伝えられています。この様に、阿羅漢とは法理ち理智とで成じた身でして、従って縁覚も独覚も同様です。情念世界は縁覚界ではないのです。

さて、情念世界についてですが、ショパンやシューベルトの音楽は素晴らしくても、こう言っては悪いみたいですが、それはフィーリングを満足させているだけでして、思或という迷いを慰めているだけでしょう。その思或の解決にさえなってはおりません。

慰安と化導とは異質です。話を元に戻しますと……。

転迷開悟は、仏様の化導に信順して行ずる以外には有りませんから、生死一大事の解決には、仏の知慧つまり仏智が中心です。こうして事に行ずる仏法に究極においては、境(法)智(慧)体一の報身が中心になります。知慧の勧めと知慧の学びとが道だからです。「法おのずからは弘まらず」です。

法勝人劣の一般論では・法身中心・が根本になりますが、実は、法身中心思想には・もう一つ理由が有ります。それは仏法を客観の立場に置く事でして、とにかくこれは何とも根強い風潮なのです。

昔、アビダルマ(法に対する明らかなる論議。小乗上座有部の対法論師を指す)がそうした様に、仏法を信行の外に外化させて、仏教学として三人称世界へ置けば、今度は法理が中心となり、客観的に把握した結果、法身中心主義・法理中心主義・にならざるを得ません。法身(法理)中心主義はこうして両面から生まれている訳です。

(5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

各宗派の本尊を見ると、禅宗は本来は無本尊で、法身本尊は真言宗だけです。東南アジアの小乗仏教には応身本尊が見られますが、あと、中国や日本では報身本尊が圧倒的に多い・と思います。この事は、仏法は報身中心が当然の常識になっていた・という証拠である・とも言えそうです。

その反面、人法体一の報身・という事を説いたのは『法華経』寿量品だけで、あとは法勝人劣を説く経ばかりですので、真の報身中心思想は仲々浸透し難(にく)い・とも言えます。この辺はどういうものでしょうか。

その寿量品に「如来秘密神通之カ」と説かれておりまして、『文句記』には、如来秘密とは、昔からこの寿量品迄まだ説かなかった人法体一の自受用三身即一の報身如来という事・これが<秘>であり、唯・仏と仏のみがこの事を知ろしめしていたその事を<密>と言うのである・と述べております。

この事が正に如来の秘密だった訳でして、報身中心が仲々浸透し難いのは寧ろ当然だ・とも言えます。この究極が説かれた以上は、これに背いて法身中心や単報身を固執すれば、何宗であれ非法な訳です。応身本尊主義も同様です。

自覚と認識との関係からしますと、「如来秘密神通之力」という事は、大変な事を教えている・と思います。「如来秘密は体の三身にして本仏・神通之力は用の三身にして迹仏」と説明されておりますが……。

その局面からの問題としては、如来秘密は、<秘密>と言っても、何も意地悪で勿体を付けて隠している訳ではないでしょう。仏様が悟った自覚体験というものは、説いても説いても言葉には言表わせない部分が残ってしまう。その部分は自然に秘密になってしまいます。

妙楽大師は「一身即三身・三身即一身が秘密だ」と教えております。人法のうちの人の方で示しています。

それで説明しきれたか・と言えば、そうではなくて、まだ余りが在る筈です。それで妙楽大師の言わんとする所は、一身即三身・三身即一身・という言表を通して、それによっては説明しきれない仏様の生(なま)の自覚体験・これが如来秘密なのだぞ・と教えている訳でしょう。だがそこでストップすると衆生へ伝達出来ないから神通之力を出す訳です。

神通之力というのは、様々な表現をして、法説・譬論説・因縁説・あらゆる説を動員して、なるべく相手に判る様に判る様にと肉迫して行く力が神通之力で、それが用だ・と言うのですね。体と用とは一体化していますが、尚その間には本迹関係が保たれています。用の三身の方は迹です。

如来秘密である体の方は説明しきれない訳です。説明しきれないから・と言って、始めから諦めて誰にも言わないのでは化導になりません。そこで用の力を出して頑張って説明する。その部分が神通之カでしょう。この、体験における自覚認識・と聞法における説かれて知った認識・とは違うでしょう。前のは体の方で後のは用の方です。

仏法は認識論だ・と言うのは後者の方の<用の認識>に関してなのですね。

そうです。「説示」と言いまして、仏様が衆生に教えるには<説く>方法と<示す>方法との二様が在りますが、用の方は<説>の方として理論化されたものですから、そこの所が、表現で言えば<間接表現>になっている訳です。ところが如来秘密の方は<示す>以外には教える事の出来ない<表現以前>の直接体験なのです。

若しも衆生がその仏様に直かに御目に掛かっていれば、その場の仏様の慈顔や御振舞いなどから直接表現(示の方)を受取る事は出来るでしょう。これは感応という事になります。然し滅後の衆生は、間接表現としての<用の認識>である・説法・の記述としての経文にしか接する手立ては無い訳です。

直接体験における自己認識や世界認識と、それが後に理論化され間接化されたものとは、同じく「認識」と言っても中味が違って来ております。後者は中味が減っています。言葉が同じなので混同され勝ちです。

自行の体の所は自覚であって、最早・論理や認識ではありません。化他の用の所へ来て初めて論理や認識という事が浮かんで来るのです。論理以前・認識以前の自覚世界というものは如々とした状態でしょう。これは正に只今も如々真実の道に乗じつつある進行形のものです。

「如来如実知見……無有生死……非実非虚・非如非異」(寿量品)と言われております。

<体>の進行形の如実知見とはそうしたものです。この知見者は他ならぬ報身如来様で、「如々の智・如々の境に称(かな)う」(『文句記』)て人法体一になっている訳です。人法一箇のこの称(かな)うている所を境智和合とも冥合とも言うでしょう。この様に仏様の自覚世界は如実で、他からはどう仕様も無い境智冥合の世界です。

冥合と言うと、まず前に二つの事が有って後で融合ったみたいですが、実はアプリオリ(先天的)に一つしか無い事です。体の秘密が論理以前の如々とした自覚世界だ・という事は、仏様に関してだけではなくて、総じて言えば、衆生の色々な活動についても同じ理合いでしょう。

眼を開いて絶待妙の立場から見れば、仏様も衆生も・そういうからくりについては同じです。体用二而不二体一です。非如非異です。

3:インドの伝統――<分けない>流儀

(1)自覚中心の相補関係、仏法・哲学・科学の相補

自行(じぎょう)における自覚体験としての<自己認識・世界認識>から、化他(けた)の為の理論へ・となって、ここ迄来ると論理というものが絡まって来ます。論理の立て方を誤らない様にしませんと、間違って伝わってしまいます。

この為に、仏法においては、受取る側としても、仏法の中では認識論の為の存在論であり、その認識論は自覚論の為の認識論である……という・この位置付けをしっかり掴んでいないと迷いの基になります。この三論は縦型の関係下での縁起関係でもあり、・相補関係にもなっている・と思います。

そうです。従って<体・用>についても同じ(縦型縁起)様な事が見られます。体は本・用は迹・という関係下に在る訳ですが、体(本)に非ずんば迹(用)を垂るるに由無く・迹(用)に非ずんば本(体)を現わす事を得ず・でして、用を持たない体は体ではなく、体を持たない用は<本無今有(ほんむこんぬ)>で<カラ理屈>にすぎなくなります。

用が無ければ表現法を失って体を現わす事が出来ませんし、体が無ければ用に化他の力を欠いてしまい・用ではない事になってしまいます。体用は本迹関係であり縁起関係であり相補関係であって、別々に切離す事は不可能なのです。

そういう関係から、哲学としても、もう一度、存在論と認識論・存在と認識・これについて、既成の議論ではない見直しをすべきである・と思います。本迹・縁起・相補・の三関係を正して考え直せば好いと思います。横に並べて見るのだけが能ではありません。

その点からもう一度、仏法・哲学・科学の三つを振返って見るべきです。仏法は<認識→修行(反省実践)→悟り(自覚)>というコースを行くものですし、哲学は<認識→思索→愛知>というコースを行くものですし、科学は<存在→認識→活用(実用)>というコースを行くものです。分野が違いますから三つは相補の関係になります。排除し合う筋合は元々全く有りません。

してみると、認識論と存在論との第一原理争いは全く無意味でした。その極端になったのが観念論と唯物論との対立ですが、対立した事自体が誤りでした。存在と知慧との相依関係を見落して、執著の塊になっていた訳ですね。

世界の現実把握の為とか思索の為と称して、ちぐはぐで無駄な設問を立てている場合が非常に多い・と思います。成立たない議論を無理遣り成立たせようとする。存在と認識とはどちらが第一原理か・というのは、闇の中で色を求めるみたいで無意味です。こうした類いの不成立で無駄な議論が歴史上・過去にも在りましたし、まだ哲学界に残っていはしませんか。

こういうのは、つまりは検討不足の一点に尽きる・と思われます。他への批判に先立って、まず自分の方の内部から正して行くべき必要を感じます。

要するに、存在論の存在一般・を能く検討してみると、事実の上では流動しつつ存立しているものを、まず<仮定の上で>固定化して――固定化という事は既に実体化です――これに対して一義化した名辞を差向けて把えているでしょう。だから一意共通化した槻念が発生します。これが認識です。

してみると、何の事は無い、存在一般は知覚し認識されたものとしての存在であって、これ以外に存在は有得ない・のですし、逆に対象を持たない意識も発生出来ない・のですから、物心相依の縁起関係を無視しては一切が成立しません。縁起法が第一原理な訳です。

存在論が外へ向けば科学を生みます。科学は万人共通に納得出来る様に、ひたすら客観化し理論化して、応用・実用・技術化・を志向します。哲学は理論化はしますが愛知の線で留まります。仏法は解脱を目標に進みます。これは決して客観世界ではなくて主観世界になります。

その辺は難しい所です。普通、仏法は活きた主観世界を展開する・とは言いますが、本当は、生活の現実では、常に・我々が掴んだ念々の主観世界も<刹那に過去化し乾上り固型化した仮構>にすぎなくなっているのです。この”スルメ”みたいな一駒一駒を<記憶>の力で繋合わせて・連続実在・の様に思っている――誤解――だけなのです

これは本当には実でもなければ虚でもない・非実非虚・非如非異・の・一時仮有無常の連鎖・なのです。こういう困難の中で眼前・現前・当面の<現実只今>を生きるのが仏法でして、天台ではこの生きる手法が<大止観>という観法(禅法)になっております。

もっと昔は各種の禅定修行・という事をしておりました。今流行のヨーガという術も、元を糺せば<正理(ニャーヤ)に呼応する身心相応行>という禅法だったのです。それが今、美容体操化している訳です。これらは皆<止観>と呼ばれて然るべきものです。

(2)真理と法・仏(覚者)――第一原理

第一原理論争を振返って思う事ですが、昔からとにかく何等かの<真埋>が第一原理として立てられて来ました。真理性の無い第一原理という事は考えられない訳です。個か普遍か・物か心か・と言っても、それ自体には真理性は無くても、世界に占めている関係上の位置・という<関係性>に真理性を認めている訳です。

真理と言えばすぐ・現実の法則・という風に繋がって来るのですが、その第一原理は<人間が決める。自然界の運動から自動的必然的に決定される事ではない>という事が明らかになった・と思います。この視座からすると、一体どんな事を第一原理とすべきか・という問題が出て来ます。

結論だけを言うと、生きて行く人間としては、法と仏(覚者)つまり法仏一如の法とこの法の体現者である仏、これを第一原理にすべきである・という事になります。この一如の人法を分けて徳に約して言うと、法ならば法徳・人(にん。仏を指す)ならば主師親の三徳・これを第一原理とすべきです。

人法は一体であって、『涅槃経』に「(人法)一体の仏を主師親と作す」と言う通りです。法徳は衆生をして解脱に到らしめる徳用で、この用の体は広くは縁起中道法、縁起法を浅深の次第で突詰めれば・事行の一念三千・という事になります。この体現者であり教主たる自受用無作の報身如来様が主師親です。

そうなるとすぐ、それは信仰者の立場であっで、学究の立場でも一般人の立場でもない・という反論が出て来ます。特に、主師親などという発想は、『涅槃経』などに在るにせよ、恐ろしく中世的でかび臭い・と軽蔑されてしまいます。

封建的でかび臭いかどうか。でも、現実に、どんな人でも自分で決めた自分の主師親を持っているのではないですか。

かび臭い・などと言っている人の主師親を言ってみると、悪魔(第六天の魔王つまり元品の無明)を君主にしてこれに守られ支配されているし、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴・の三煩悩)を親としてこの親に養育され・従っているし、邪見(虚妄分別・ヴィカルパ)を師匠としてこの師に導かれて暮らしているでしょう。自分で決めた主師観です。

無明・煩悩・邪見、こういう<法>がその人の拠所としている第一原理になっていはしませんか。これがその人の主師親な訳です。万人共通です。自覚していないだけです。

してみますと、冷静に反省してみれば「三世の諸仏は是の法(妙法)を師として修行覚道し給えり」と言う通り、仏の<法>というものを第一原理にせよ・という事になりますが、仏法で<法>と言う場合には、何でも法で、法という名辞(仮名・記号)が実に多義に使われています。

次の章からいよいよ仏法の話の中味へ触れて行く訳ですので、預め法という言葉のアウトラインだけはここで掴んで置く必要が有る・と思います。

<法>の根本は<人法一箇・人法体一>と言う様に、人(仏陀)と法とが一体で仏界を示現し続けている所・仏陀の在りようの所を指す訳です。一人称では人(仏)から離れた法は無い訳です。無分別です。

然しこればかりは衆生の示現し難く理解し難い事なので、教える側は、これを分別して、つまり種々相の上において・無分別を分別化した形で説き示す訳です。これが根本で色々と法概念が出て参ります。

前の方のが<体>で、後の方のが<用>ですね。色々な法概念・の方は用の方ですね。今言われた・分別した法・は皆これは用。教える為に分別した人法一体仏の方は体……。

すると、仏法では何でも<法>で、真理性の有無以前の事柄、つまり現象や施設(規則・定義・公理・公準・など)迄も法の一語で表現していますから、気を付けなければなりません。インドでは古来・外道でも仏法でも<分けない主義>なのです。

然しその中心となる意味は<法とはどんな物事でもその物事を全体的に抑えて言う言葉・表現>という事で、その抑えた全体は<分別以前のもの・若しくは分別を総括した所>を指しています。

この法が根幹で、説かれて言説化したものとしては、そこから色々と枝葉的に多義に使用されて来る訳です。基本は<分けない>主義でも、局面では分かれて来ます。命題文の文脈の前後関係から推せば、何を指しているかは判る様になっております。

仏法から離れて一般の常識から言ってみると、法という語は、規則(ルール)・真理・法則・方法・規範・法律・倫理・という位の範囲で語られますが、いずれも「その内容は変らない、変えられない」という不動性への同意の上に成立っている様です。

仏法でのダルマ(法)は、そういう常識的な面迄含むだけではなく、その上に・多義である・となりますと、理解する為には、予備知識として、或る程度の整理が必要になります。インドの<分けない>流義への理解も必要になります。

法(ダルマ)の意味内容(語用)が多義で困る・というのはその通りです。仏法では、教え(化儀・化法)・名辞・概念・判断・真理・型・形式・規則・法則・道・倫理・当為(ゾルレン)・対象・対境・現象・心象・知識・認識・自覚・手段(方法)・修行・心境・等々何でも<法>ですから、前後の文脈によって・何の法を指しているのか・を見極めなければなりません。アマチュアが困るのはこの点に有る訳です。

一般の学問でも<法>と言う時には「その内容は変らない、変えられない」(陳述性の維持)という同意の上で使いますが、これは仏法でも同じです。ダルマという名辞は語源のドフリィ(保持の義)から転化した名詞ですから、変らない事が含意されています。

とにかく仏様の一切の教示は、生死を出離して解脱に到達する為の不滅の規範ですから、こういう教法の性分は永久に変らない訳です。ですからアビダルマでも「自性を保持して変らない」のをダルマ(法)と言います。「法とは軌持なり」「自相を持するが故に名づけて法と為す」と規定されている通りです。

軌持とは「軌は軌範、持は任持(能く保って自性を捨てない)」でして、諸物の理も諸教も改変しないから軌範になって・一定の解悟を生じさせる事が出来る・という訳です。アビダルマでさえもこうなのです。

そういう観点で<法は変らない>という事は判りますが、法は不変・法は自相・自性を保持する・と言いながら、その教法の中味へ立入ってみますと、一切法は無常・無自相・無自性・無自体・と教えています。常無しで不変常住とは反対です。無自相・無自性ですから、自相保持・自性任持・とは反対です。逆説ではないか・という事になり兼ねません。自語相違・矛盾の感も有ります。

その辺は難しい所です。これは要するに一切事象(現象)を一切法と言っている場合でして、認識の対境(対象)の境法も・思考の道程の智法――これは教法ではない――も・取って返せ(境法化)ば全てそう(無常・無自相・無自性・無自体)だ・という事です。この一切法とは諸行無常の諸行と同意の場合です。

この場合でも、一切法は無常(アニトゥヤ)で・常無しの連続・ですから、無常という法は不変で常住しています。無自相という・相の真相・が自相をなしています。無自性という・不変の性・が自性になっています。無自体で縁起体だ・という・体の実相・が変る事の無い自体をなしています。

こういう意味で、「自相住持・自性保持・不変」という自然法(じねんぽう。法哲学で言う自然法=しぜんほうの事ではない)や教法の<ダルマの骨格>は変っていません。こういう内容については、本論で徐々に触れて参りましょう。

(3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点

話が段々逸(そ)れて来ました。法という概念を整理する方へ戻りましょう。無常という法そのもの――無常法――は常住不変だ・という事でしたが……。

<縁起>とは「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ無くば此れ無し」という・相依・相待(そうだい)・依り合い・待ち合い・の関係の事ですが、一切の事法・理法・はこの縁起法で成立っており、従って、諸行という一切万法は縁起関係の在り方(組まれ方)次第で常無く変って行くものです。

変って行かない諸行は在りませんから、諸行は無常法に貫かれており、この無常法は・横には全法界に拡がっていて・縦には不断不常の常住不変に継続して行く訳です。「諸行無常」とはこの事を教えている指摘なのです。

一切万法は<常住不変なる無常法>に貫かれており、無常法は縁起関係の上に現出する現象だ・という事になりますと、「縁起こそ法の根幹である」という事になります。

そうです。縁起は法の根幹です。「如来は此の法(縁起法・縁起中道法)を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』)と在る通りです。「此の法」を一般に仏教学では・縁起法・と解しておりますが、これはまだ正しくはありません。これでは但の世間法の悟りです。仏様の悟りは出世間法としての悟りなのでして、縁起法の奥の縁起中道法の方を悟ったのです

微妙な違いなので見逃されているのですね。縁起法は但の世間法だ・という事は、推理だけで得られて・反省を必要としていない・という事ですね。反省→自覚が出世間の悟り・ですから、縁起中道法でないと「成等正覚」ではない・という事ですね。

そうです。この縁起法や無常法は「法は如来の作に非ず、また余人の作にも非ず」(『華厳経』)と断わっている通り<自然法(じねんぼう)>なのです。この<じねんぼう>は現代の法哲学で言う<自然法>(しぜんほう)>とは全く違うものです。本有無作の無為法なのです。

法哲学での自然法は、立法による実定法の理念的法源で、実定法批判の基準・という事です。社会や人間の本性に基づく・規範になるものです。法制の拠所です。元は昔のギリシャで哲学者が考えた事で、真の法は普遍永久性を持つものである筈で、自然と調和した正しい理性がこれである・という事でした。

ところで、仏様は縁起中道法を悟って正覚を成じたのであれば、仏様の教法は当然この縁起法・縁起中道法・を説く訳ですね。

そうです。釈尊を始め三世諸仏の教法は、一切、この縁起の法・縁起中道法・を浅きより深きに至って説いて、遂には仏種(成仏の種子)である聞法下種の法体に迄説き到るものです。言う迄も無く、この聞法下種の法体も又・縁起法である事に変りは有りません。縁起しない妙法・というのは有得ない事です。

そうすると、縁起は法の根幹であり、仏法の根幹である訳ですね。

そうです。仏様の教えというものは、人為で作り出した教えを実践する・という事ではないのです。自然法(じねんぼう)という自然法爾(じねんほうに)の法をその有りの儘(如実)に知り、その知った通りに生きる・という事ですから、仏法は当然、法(自然法)を第一原理にしている訳です。

これが仏様の教法の骨格ですから、この教法は人間の当為(ゾルレン=人として当然為すべき行為)・認識・自覚・これに基づいた実践方法(諸方便)つまりは修行法・等々一切を分けずに含んでいる訳です。インドの・分けない流義・はこの点で尤もなのです。

とにかく教法と言えば、その中に一切合財が含まれてしまう……一法は開いて万法となり・万法を閉じて合すれば但一法となる・という事ですね。本とページみたいです。

この諸法一切を含む教法の中から、煩悩に負けない善法とか修行法などという面を差置いて、境智二法(境法=外法・と智法=内法)だけを取出して見た時に、仏法以外では絶対に見られない大事な点が出て参ります。

「一切法とは、識(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり、智(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり」(『大智度論』)と言われる場合の<法>の理解が実に大切になって参ります。

第一原理の話の中心として、<法>の話になって来ましたが、境智のどちらに就いても<所縁>の<法>という点が肝心な訳ですね。識智に縁(よ)らぬ境法は無い……。

この場合、<法>とは<衆縁の焦点>という事になります。一般に自然科学は物を相手にし、哲学は思惟・人生・出来事・事件(アフェアー)を相手にしていますが、仏法ではそういう事物・事象は全て「法とは衆縁の焦点なり」と捉えているのです。

衆縁の焦点とは<色々な諸縁が集まって機能している焦点>――これは変化しながら継続する――という事でして、一切事象(法)は有形無形の諸縁が集合交叉し相依った<成立ち>(佇まい)である・と見ているのです。これを「衆縁所生の法」(この所生は所現の意)と言います。ですから法に<個在>は有得ません

本当は法に個物・個在・独存・は有得ない・となれば、ギリシャ哲学の考え方とは全く逆になってしまいます。実体や本質は有得ない事にならざるを得なくなります。

そうです。どんな個物でも地球や宇宙の外(そと)に独存している訳ではありませんから、諸物・地球・宇宙に<依存>している訳です。お互いさま・です。この<依存>が<縁起>という事です。例えば<東京駅>と言ってみても、そういう個物が昔から不変存在として在った・という見方は虚妄だ・と排除するのです。

新幹線・東海道線・総武地下新線・横須賀線・湘南線・山手線、果ては列車・駅員・乗客、建物・売店・食堂・道具類、ガス・水道・電気諸系統・運行ダイヤグラム・予算・等々の諸線・諸機能の諸縁が相寄り集まった焦点として、東京駅という事象がそこに成立ち佇み機能している・という様な具合です。

すると、縁起法でない存在は無く、縁起と衆縁所生法とは・説明の仕方の違いでしかない・事になります。衆緑の焦点・というのもそうですね。衆=集で焦点は集まり……。

一切法は皆・衆縁の焦点だ・というのが<法>という意味でして、境法(外法)も智法(内法)も一切皆そうなのだ・とします。これが大事なのです。個物・個在・独存は完全に否定されます。実体や本質については後の章で詳しく解析して参りたい・と思います。

五蘊仮和合を衆生と為す」などと言うのもそうですね。五蘊のうち色は外法ですが、受想行識という内法が無ければ外法も内法も存立しません。内外二法が相依ってのみ、初めて外法は外法たり得、内法は内法たり得、内外衆合して五蘊が現出し衆生たり得ます。この様に一切の存在は仮和合の成立ちである・と言います。独自存在という見方や個在という考え方は否定されています。

「縁起の法は我(如来)が作に非ず、また余人の作にも非ず」(『雑阿含経』)と言われる縁起の法・というのがそれなのです。これを竜樹は・衆縁所生法・と説明したのです。衆縁所生法・即空即仮即中・と、反省法として把えているのです。

釈尊が最初に説かれた仮諦の法、これが縁起の法でして、縁起の法門は小乗阿含部の方便教だ・と蹴飛ばす向きが在りますが、これはとんでもない間違いです。縁起は一切法の根幹です。法は衆縁の焦点だから仮有の侭機能しているのです。厳有・実有の方こそ幻(まぼろし)です。

阿含での法門は・仏法と六師やバラモンの法とのけじめ・を説いているのですね。

そうです。竜樹の『十二門論』というのは彼の『中論』の綱格書ですが、その中にこう在ります。

「衆縁所生の法は是れ即ち自性無し、若し自性無くんば云何が是の法有らん(法は実体存在ではないが、無自性という自性が在るので法が成立している)。衆縁所生の法には二種あり、一には内、二には外、衆縁にも亦二種あり、一には内、二には外、……、是くの如く内外の諸法は皆衆縁従(よ)り生ず、衆縁従り生ずるが故に即ち是れ性(自性)無きに非ずや」

有(実有)や実体や本質を言立てる・有部(アビダルマ)・六師・バラモン・は誤っている。法は縁起生だから実有も実体も本質も在る訳が無い・と言っております。

つまり、一切法は縁起法だから無実体で空だ・と言っているのでしょう。してみると、縁起という考え方が判らないと空も判らない・という事を示しております。

縁起の仮諦が判らなければ仏法は一切合財全部判りません。仮諦が判らずに空諦が判る訳は有りません。空諦が判らずに中諦が判る訳は有りません。三諦が判らないと一念三千も只言葉を暗記しただけで終りになってしまいます。一切法は全て縁起法で、法は全て衆縁の焦点です。一切の理解はここから出発しなければなりません。

結論だけを言ってみると、「一念三千の法を第一原理とせよ」というのが私達の言いたい点ですから、ここでその「法とは衆縁の焦点なり」という事を徹底して理解して置く必要が有る・と思います。

<法の理解>は実に大切な事です。事法においては縁起法でない法は有得ませんし、縁起した法は全て<衆縁の焦点>です。理法ならば、理法というものは全て事象に依り・その中で機能しているものですから、それだけ取上げて・事象から勝手に外化させる訳には参りません。それでは形式科学の様になってしまいます。

[2+2=4]は真理に違いなくても、<2>とか<4>とか<2+2=4>とかいう実在は何処にも無い・のと同じ事です。事法と相待し相依し縁起しない理法などは無い訳です。総じて<法の理解>は大事で、相当に困難を伴う・と覚悟しなければなりません。

(4)信と批判精神――不疑と無疑

理法さえも事法と縁起している・となりますと、事法も理法も……つまりは内外一切法皆これ非実体法(無本質法)という事になります。実体か非実体か、実はこれが古今東西の大問題です。解決には批判精神が是非共必要です。

その<批判精神>が<信>ずべき対象を確保して呉れる訳です。<不疑>であってはなりません。不疑は精神衛生に最も悪いのです。疑いを駆使し・疑いを尽くして初めて<無疑=信>に到達出来るのです。

この対話の目標は<実体論が正しいか非実体論が正しいか>を明らかにしよう・という所に有りますから、己むを得ない場合の他は、仏法の極意に立入る事は避けたい・と思います。仏教は・非合理な侭・非常に合理的な宗教であって、世間の拝み屋の道具・祈祷師の装い・などにすべきものではない事が判れば好い・と思います。非合理即不合理ではない訳です。

仏教は合理性に富む宗教だ・と言うと、すぐ「仏教は一番料学的な宗教だ」という言い方が出て来ます。これは大変な間違いでして、智法を存在論にしてしまいますね。

仏教に限らず・科学的な宗教・など原理上有得ない事です。科学は分析・総合を手段とした部分学であり三人称世界のものです。仏教でも他の宗教でもこれは一・二人称世界の実践法であって非合理領域のものです。つまり信仰は一人称・宗教は二人称です。非合理世界のものだが合理性に貫かれている……それが仏教です。

仏教は非実体論に立つ宗教だ・という事ですが、現象の奥に実体が在りはしないか・と疑問(関心・探求心)を持つのは、これも人智の進歩の一つで自由な事ですが、この事と・本当に実体が在るのか無いのか・という事とは全く違った問題です。とにかく縁起法という出発点は明らかになりました。

縁起法が思考の出発点である事は当然ですが、この縁起法は、仏道修行の思惟の出発点から重々の反省を経て・自覚の終点迄貫き通される訳です。仏法ばかりではなく・本当は諸哲学・世間の思考についても貫さ通されるべきものなのです。

仏法では・華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃・迹門・本門文上・文底・は勿論・三世諸仏の一切の経々全てが縁起法門・縁起中道法門でして、縁起法門・実相法門と区別して言う場合の実相法門も、縁起法門の中の一歩踏込んだ法門・という事にすぎません。それについては本論へ入ってから詳しく話合いましょう。

縁起法に立つ仏法においては、一切諸苦の根元は当人の無明(法に対する無知)に在る・と言います。だから無知無明さえ克服出来れば大筋の諸苦は消え去る・と教えています。小乗教の十二支縁起などはその筋道を明らかにした好例だ・と思います。大乗でも無明と法性とを待置して解脱を教え・諸苦からの解放を目指している点では変りません。

小乗でも大乗でも行着く目標目的は同じです。そこを成道・得道・成仏・悟り・……・何と言っても同じ事です。その諸苦の源である無知の内容を追ってみると、衆縁の焦点である縁起法を<有りの儘>に見ていない・という<無知>に在る訳です。

諸行無常と言って、世の中の一切事象は無常(アニトゥヤ)で変化しています。常無しが真相でして変化しています。変化しない物事は無い。これは、実体が何処にも全く無いから変化しているのでありまして、若しも実体が在るならば・変らない芯・みたいなものが在る筈です。ところがそんな”芯”は一例も見当りません。

それでは<どう変るのか>と言えば、現象同士の相互作用(相依)の因縁関係で果を生じている。生じた果も又変って行く。変れば元通りではないから元の局面は「是生滅法」(是れ生じては滅するの法なり)といって無くなってしまう。

元の局面は無くなって新局面になっても・まだその法(現象)の自己同一は保たれている。この自己同一は実体でも本質でもないから「諸行無常是生滅法」以外は無い訳です。ですから一切事象が存続する様(さま)は<不一不異>だ・と言います。生滅するから不一で・自己同一は続くから不異です。

今のそこの所が一般には仲々理解されていません。いずれ後の章で詳しく論じ合いたい・と思います。「不一不異」は『大般若経』の中に説かれた問題で、空によって中道を標示している重要な課題です。

それなのに、変化する現象の奥に変化しない実体を求めようとする。ここに大変な無明が在ります。これは・変るものに「変るな」と命令する訳でして、通用しない行業です。この行業が<叶わぬ執著>という事です。

こうして叶わぬ願望で作り出した――本当は作り出せてない――実体――得たものは音符だけ――にしがみ付く。つまりは縁起法に対する無知――執著――叶わぬ心作業(さごう)・口業・身業、これが苦を引起こす・という事です。このからくりが明らかになれば・解脱への門・は遠くない訳です。

この門が以信得入の門・ですね。入いれば仏道修行という事になります。それは何も坊さんには限りません。誰でもそれなりに出来る事です。仏法は反省自覚法だ・という事でしたが、反省――自覚・これが修行法ですね。

諸行無常と言って万事は常無く変るのですから、反省→自覚の修行で・自分や条件を良い方へ変えれば好い。無常を悲観論の方にだけ受取るのは片手落ちです。

無常だ・という事は、諸行は悪い方へも変るし善い方へも変る事を示しています。万事は変る事が徹底して解ったら、不味い状態から良い状態へ変れば好い。そこで反省→自覚と修行すれば好い訳です。仏道修行とは反省→自覚・反省→自覚という行為を一生涯貫いて行く行業です。不苦不楽中道行です。

年年より月月・月月より日日・日日より時時・時時より刹那刹那に反省――自覚が繰返される様でしたら・これは密度が濃い事になりますが、そう理想的には参りません。

そこで普通、各宗各派毎に・勤行の形式とか回数とか坐禅の時間とかを決めて・させている訳ですが、行ずる僧俗の方は兎角そういう規定の方に心を取られて、肝心の<反省――自覚>という元意の方を忘れ勝ちでしょう。

昔からの持戒中心の修行・坐禅中心の修行・読謂中心の修行等々・どんな仕方の修行にせよ、凡身の凡行を反省して仏身を目指したものである以上、各種の修行を貰いている根元は<反省-自覚>という行業以外には有りません。反省に非ざる持戒・反省に非ざる禅定行・反省に非ざる読誦行……そういうものは無い訳です。受持一行又然りです。

空だ空だと言って・坐って半眼にして心をからっぼ(空)に落着けても、これでは坐禅にならない訳です。良い声でお経を読んで気分爽快になっても・お経の意味が解っても、これだけでは本当の読誦とは申せません。

凡愚心を反省し身心を正して「凡夫・大聖の為に法を説く」(『玄義』)で、九界から仏界の為に(自行)法界万霊に対して説法をする(自行即化他)……これが本当の読誦で、ここには真の反省が篭り・自覚が伴っています。

(5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

ここでは余り専門分野には立入らないで基本線を追って行きましょう。仏法では戒定慧の三学・信行学の三義等々・そのどれも反省―自覚以外には無く、学一つ取ってみても、知る為の学ではなくて、反省―自覚の資として学が成立っている訳ですね。

一口で言えば、凡身を反省して仏身を目指し自覚する・九界を反省して仏界を自覚する、これが目指す所です。この反省の為には、厳正な意味での批判精神を堅持していなければなりません。批判精神が無くては反省出来ないし従って自覚も出来ません。

自他の正邪善悪を見極めなければなりません。社会生活では・他への批判・己れへの批判・両方必要です。こうして批判精神は内へも外へも・自へも他へも向けられますが、これは当然な事なのですね。

早い話、昔からの第一原理論争にせよ・科学の発展にせよ・空仮中の悟りにせよ、皆、批判精神から生まれて来たもので、信と批判精神とは・相依って互いに成立つものです。「彼れ無くば此れ無く此れ無くば彼れ無し」です。片方の独存は不可能です。

批判精神有るが故に信起こり・批判精神無くば信も無し」という縁起関係下に在りますから、信を強調する事がこの大切な批判精神の封殺へ向けられるならそれは邪道です。盲従・盲信は信とは言えません。有信の人は須らく反批判を去って正批判に生きるべきです。無解有信から有解有信へ・です。

この批判精神はデカルトでは方法的懐疑として述べられています。

天台では<疑いの三義>(『止観』)として自・師・法の三を挙げ、「自身に於いては決して疑うべからず……自分は迚も仏道修行には耐えられないだろう・などと自分の資質を疑うな。師匠と法とは大いに疑って正邪を明らめてから信ぜよ。正法正師決定せばその時に三疑は永く棄つべし」(『弘決』取意)と言われております。

無疑曰信」(むぎわっしん/疑い無きを信と曰う)と言いますが、疑う余地が全く無くなる迄・批判精神を働かせないと無疑にはなれません。疑いが悉く局き果てたのが<無疑>です。この無疑が<信>です。

不疑……疑わない・と無疑……最早毛筋程も疑いは無い・とは天地雲泥の相違です。無理して疑うまいと努めても、解っていなければ疑いは必ず付いて回ります。ですからこういう人はもやもやしています。<不疑>からは金輪際<無疑>には到達出来ません。

信とは又・以信代慧(いしんだいえ)で仏界の無上無分別大慧に直結したものです。信からこの大知慧への行程が「勇猛精進」なのですが、『止観捜要記』に「敢(いさん)で為すを勇と言い、智を竭(つく)すを猛と言う、無雑の故に精、無間の故に進」と教えています。

それについて、勇猛は信力、精進は行力で、信力・行力が仏力・法力を顕現するのだ・と教えられております。

この「智を竭す」についてですが、この智には批判精神(洞察智・推理智)と反省智との二つが在ります。釈尊が・外道の法は誤っている・と排して強硬に内外相対を言立てたのはこの<批判智>の力に由ります。

一迷先達して独自開悟したのは<反省智>に由った訳です。従って我々も一生涯この批判精神(批判智)と反省智とを堅持して行かないと、勇猛精進という信行は成立致しません。実践躬行にはなりません。

我々は内外から色々な・学説・主義・諸説・勧進・に当面します。批判智・批判精神が衰弱してしまっては到底やって行かれません。反省智が無いと・毎日の自分の行業も無反省の儘生活が流されて行ってしまいます。反省の習慣が身に着いていないと、自分が今六道しかやっていない・という事に気付く事さえ出来ません。

只今の六道に気付いて仏界を求めるのが仏道としての反省自覚ですから、反省智・反省習慣が無い人の信心は一向に進まない・と思います。現に実例を見ているとそうです。大荘厳懺悔(だいしょうごんさんげ)も成立ちません。過去遠々劫現在漫々の罪障消滅の祈りも表辺(うわべ)の形式だけになってしまいます。

批判精神・批判智を持合わせなければこの対話も不可能になります。最早・信も消滅してしまいます。

信とは以上の様なものですから、信は慧の源(みなもと)で大切です。第一原理について、我々は・仏と法とを第一原理にせよ・と言いましたが、対境側はそうでも、境智而二不二ですから、智の側においては、以信代慧で<信>の一字一行が隠れたる第一原理として働いている・と言うべきでしょう。

仏と法と智と信とは、万人の己心においては、一体不離で分けられません。

もう一度締括って申しますと、批判精神を発揮して、世の中一切は<実体・本質在り>が正しいか<無実体・本質無し>が正しいか……これを見極めるべきです。見極めれば・どちらを取って信ずべきか・が明らかになります。これが<内外相対>(ないげそうたい)という事です。

この内外相対を厳密に言えば<仮令・無実体説(縁起説)に立つとしても、その上に立って行業因果を正しく説くか否か>という事になります。行業因果は反省自覚の基盤だからです。因位の修行者に取って仏果成就の事理法だからです。

内道の仏法が論法上でも<反省自覚法>であるのに対して、現在・インド六派哲学・と言われている六師外道などの外教外学は<推理推論法>である事を特徴として居りますね。推理推論つまり分別・の領域から一歩も脱け出せないから実体と本質――偽分別・邪分別・妄分別――が出て参ります。これが実有論・著有論でして<分別虚妄>以前の<虚妄分別>と排される所のものです。

「定んで有なるは邪なり」(『止観』)です。こうして、内外相対の第一の歯止めは<推理推論か反省自覚か、実体(有我)本質(自性)か無実体(縁起体)無本質(無自性)か>です。その上に、無実体説であれば何でも好い・という訳には参りませんから、<行業因果を正しく説くか否か>という第二の歯止めを構えている訳ですが、ここではこの程度で好いでしょう。

或る先生は「この対話の基調を明らかにすべきである」と言って居られました。

この対話の基調は天台に置きたい・と思います。文底下種の大法については、何も私が今更述べなければならない必要も必然性も有りませんし、種脱法門では却って内外相対を論じられません。

<内外>を論ずるには権迹の線でしか遣り難(にく)いのです。仏法へ入って参りますと、内外勝劣(内勝外劣・内正外邪・以下同)大小勝劣・権実勝劣・本迹勝劣・種脱勝劣――以上<五重の勝劣>が明らかになります。

この勝劣が<一致>になっては大変な事になります。内外一致(ないげいっち)・大小一致・権実一致・本迹一致・種脱一致……これでは・宗教は何でも同じ・という俗論になってしまいます。内外一致になれば五重相対は種脱一致迄一貫してしまう事にならざるを得ません。正邪は破棄されます。

そうです。それなのに・仏教界でも仏教学界でも・本迹一致よりも尚悪い内外一致の大悪義が大手を振って罷り通っているのは誠に驚くべき事です。これは一つには仏法を対象化・境法化して存在論を展開する――これでは形而上学になってしまう――からです。客観の視点から解釈するからです。次章からこの点を明らかにして仏法の本義を顕揚して参りたい・と思う次第です。

仏法は仮令どんな論を展開するにせよ・反省自覚の立場で・常に智法の窓口から論ずるのだ・という所を忘れてはなりませんね。科学的解釈・哲学的解釈を許さない……。それをやってしまうと内外一致になってしまいます。

そうです。その事が大事なのです。本書は論の目標が内外相対ですから・天台の路線・を基調にして参ります。それには、論理学的視野から始めて形而上学批判を以って終えたい・と思います。

次章からいよいよ本論へ入りますので宜しくお願い致します。仏法は智法である事が会得して頂けるならば幸いだ・と思います。

【Ⅰ仏法と論理学】

1世法と仏法と空仮中の三諦

(1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス

<仏法と論理学>と言うと、古来・仏教と関わりが深かった<因明>(いんみょう)の事を思浮かべますが、これとは別に全く新しい開拓を試みたい・と思います。

教法が在る所・論法や論理は必ず付いて回りますから、論理学的な側面は非常に重要です。この事は本章と次章とを見て貰えば判る・と思います。特に、論法の側面が解らないと、空仮中も一念三千も全く判らなくなります。

そこをこの章で論じたい・と思います。

昔・中観・唯識両派は印度大乗仏教の二大潮流を成しておりました。その中観派(ちゅうがんは)の祖・竜樹は中国や日本でも八宗の祖と崇められております。この竜樹は世間で通用している概念というものは、丸きり信用しなかったそうです。

経文を見ても仮名(けみょう)仮名と出ていて、世間で通用している物事の名前は皆・仮りの名前だ・として取扱っております。これは今の論理学で言う「名辞は記号(サイン)だ」という事に通じている・様に思います。

<仮名>は<世俗仮設の名字>という事だそうです。竜樹の場合は既成の概念は全く信用しない・のだそうです。未来に出来る概念についても同様でしょう。現実の如実なる物事と概念との間の距離をはっきり自覚しています。概念は記号で換置翻訳するからです。

現実の事象は無常で常に変って行って留まりません。それなりの概念の方は事象を仮りに<停止状態>にした所から作り出します。それで如実事象と概念との間には必ず距離が有って、全的には合一(合致)しない訳です。イカとスルメの差が有ります。

昔、アリストテレスの場合は「主語になる名辞が有ればそれに対応する個物が必ず在る」といぅ考えで、これを第一実体と称し、述語の中でも集合名詞は主語の位置にも来れるから、集合名詞が指す<類・種>を普遍者と言ってこれを第二実体と称し、アイ・ラヴ・ユーの様な<関係の論理>の主語は<偶然的な存在>と称して、彼の論理学では取扱えなかったそうです。

そして「主語名辞を通じてそれに対応する実体を知る事が本質を把握するという事だ」と言っていた・そうです。この事は沢田允茂教授(慶応大学)の本(『現代論理学入門』)に出ていました。

これは現実の<如実事象>と<主語・述語・概念>との間の距離に気付いていないか、又は無視しているか・のどちらかな訳です。従って、事態と概念とは全的には合一しない事が軽視されております。つまり、概念は抽象したモデル世界での事象とは合致しますが、生々しいこの現実とは全的には合致せず、普通は概念の方に不足している欠減分が生じます。

ところが、場合によっては、逆に概念の方に余分を生じてしまう事も有ります。戦時中に流行った<悠久の大義>という概念などは余り過ぎの適例でしょう。

概念の不足分の方を取上げて強調したのは十八・九世紀の弁証法でした。当時弁証法が持(も)てたのは、一つにはここに理由が有った様です。

逆に概念の余分性の方に注意したのは中世のオッカムで、彼は「命題の中へ余計な名辞を持込むな」と主張しました。プラトンの”髭(ひげ)”(普遍を指す)を剃落とす<オッカムのカミソリ>というのがこれです。

概念や命題には大きい効用が有ります。即ち正しく論理を展開する推理・推論は、自然や世の中の事態を明白にします。こうして合理主義は諸科学と技術との発達を導いて来ました。合理主義の白々しさや人間疎外が言われますが、これは取扱う人や社会の側の問題であって、合理性自体の罪ではありません。

元来無分別な存在を分別して命題を立てる事は、対象への人間の視野を<狭くする>事です。局限することによって、狭くした枠内において・という条件下でだけ、対象の事態を明らかにする事です。ここに合理の利点が生じて、広く応用が効く事になります。

その一方で、総体の調和を壊してしまう欠点と・視野を狭くした欠点も生じます。狭ばめた為に解明されない分野が残り、対象が提供すべき対人効用が切捨てられます。それを又別の命題で追求しても事情は同じです。全体性は掴めません。調和も壊れてしまいます。ここに分別の虚妄性が生じます。

哲学及び論理学の問題としての<記号>(サイン)と仏法で言う<仮名>(けみょう)とは、ほぼ同じ・と受取って好い・と思います。記号は人間の思考作用の根本に関わっていて大事なものです。記号の役割は、知りたい対象を、対象とは別物である記号という代理者によって知る・という所に在ります。<間接>に知る事になります。

我々が・対象を知りたい・と思う時には、その対象が<何であるか>を把握したい・という事よりも、その対象と自分との直接の関わりの中で、自分へ迫って来る対象の作用の、その働きの<意味>を知りたい・という事の方が多いのではありませんか。

この場合、対象から直接に<作用の意味>を掴み取る事は出来ませんが、記号を使えば、つまり記号を操作すれば<意味>は判ります。この為に、記号は対象の代理者ですが、同時に<意味の担い手>でもあります。ですから仏法でも<立名>(りゅうみょう)と言って仮名を大事にしています。

記号が意味の担い手だ・という事は、諸記号はバラバラ勝手に存立して気儘に働くものではなく、集団(文脈)の中で関連し合ってだけ生きて働ける事を示しています。

諸記号は集団つまり命題文の中の相互の連関(関わり)の内だけで有効なのだ・という事は、当然、諸記号間には約束されたルール(規則)が敷かれている事を示します。この約束された諸ルールが論理学を形成するのは全く自然の成行きです。

そして論理学の諸法則が発見され確立されるのは当然で、人々はこれを破る訳には行きません。早い話、5×5=24とは誰も認めません。論理が大事だ・というのは、認識でも対話でも・それが成立するかしないか・の鍵を握っているからでしょう。

その論理学のルールが<同一律矛盾律排中律の三つですが、これについての話は、もっと先へ進んでからでないと出来ませんから後へ回したい・と思います。

昔の中国でも<正名>(せいめい)と言って「名を正せ」と言っていた・そうです。概念を正しくせよ・というのが本来の意味です。インドでは<因明>という論理学が在り、ギリシャにはアリストテレス以来の論理学が在り、これを土台に合理主義が発展して来ます。

そうした<正名・因明・論理学>はいずれも世俗の学問な訳ですが、仏法としても、修行について自分が物事を考えたり(自行)人に仏法の話をしたり(化他)するについて、重要な役割を担う訳です。そして仏法には更に、反省自覚の為の論法として<四句分別>というのが在りますが、これは一括して次章で論ずる事に致します。

この四句分別というのは<論法>であって<論理学論理>ではありませんが、論理と論法とは親類筋に当りますから、続けて理解して行かないと会得が難しい・と思います。仏典には沢山出て来るので非常に重要です。

アリストテレスの論理学は・長い間・西欧の思想をリードして来ましたが、今世紀へ入ると<古典論理学>として扱われる様になりました。沢田教授の本の話へ戻りますが、三段論法を展開した古典的な<名辞論理学>には間違いが二つ在る訳です。

その一つは、主語名辞が有ればそれに対応する存在が世の中に<必ず在る>という点です。本当は主語名辞が有っても対応存在が<必ず在るとは限らない>訳です。一例ですが、無とは何ぞや・幽霊とは何ぞや・と言っても、そういう主語事象は世の中に存在しません。

その二は、時と場所場合に応じて述語的な存在は替っても・それ自身は変らない真の主語存在……つまり第一実体、第二実体が在る・という点です。実際はそういう<実体>は在りませんでした。

そういう訳で、古典では、現象は<偶然的存在>と言って名辞論理学の対象から外(はず)されてしまいました。個物を第一実体とするのは、結果としてそこに見られる個物・だけを見て、個物がどうして出来ているのか・という縁起構造を見逃しているからでしょう。形而上学的存在論からそうなってしまいました。

ところが本当は、個物も普遍者(類・種)も現象であって実体ではない。これに連れて本質というものも無い。主語は述語で叙述されて初めて概念内容が決まるもの。つまり概念は命題を通じて初めて決まるもので、名辞と自然存在との自動対応はナンセンス・という事になりました。こうして出来たのが現代の述語論理・記号論理学です。

(2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命

ところで竜樹が、命題の真偽を問わず概念は皆虚妄だ・と取合わないのは、概念を引出す元になる主語事象は、諸支が縁起関係の上に成立っているのに、古典論理学にせよ現代論理学にせよ当時の因明にせよ、縁起抜きで、主語となる事象の<成立結果>だけが独存体として指示されており、更に、そこで出来た概念は皆・世俗の中だけでの判断だからでしょう。

概念は皆・体験から生まれますが、然しそれは既に過去化し固型化し乾上ったモデル世界から抽象した<普遍思想>にすぎないから虚妄だ・と言うのです。つまり分析と総合とを経て再構成した仮構、この固型化した仮構の上に築いたもので、これは流動する現前当面の生活そのものに全的には当嵌りません。もう一つには、概念を使用する分別では対象の全体性及び仏界性は決して掴めません。

こういう事で、世俗の分別は究極の真ではないから概念虚妄・分別虚妄と言います。世間虚仮もこの謂(いい)です。だが虚仮虚妄の枠内のものとして概念や命題の真偽を分別するのならば、当然・偽を捨てて真を支持するのはやぶさかではない訳です。

分別虚妄は・本来それだけの線では・本当の意味にはならないのではありませんか。概念は抽象した普遍性のものである事と・概念では対象の全体性や十界性は掴めない事だけではまだ仏法にはなりません。

本当はそうです。真意は、分別では得道に達する事が出来ない所を虚妄と言うのです。迷いである所を虚妄と言う訳です。分別では六道から出られないのです。分別で得道出来るものならば、大学を出て博士にでもなければ好い訳です。仏法無用です。

虚妄に対する真実の方は、分別に対する無分別の方に在る……。

そうです。仏様の経文というものは、理論も文章(演繹操作)も・その中で使用されている概念も・全て正しいのですが、それでも「此等(爾前)の経文は寿量品の……文より思い見ればあに大妄語にあらずや」と言う様に、爾前の無分別は未(いま)だ分別の域を出ない・とされて<分別虚妄>(妄語)と却けられています。この様に<得道>(成仏)>を基準として<分別虚妄・無分別真実>が主張されている訳です。

その虚妄とか妄語とかの<妄>という言葉は、「妄(みだ)りに……」などと使われる事でも判る様に、「妄りがましい・道理に合わない・筋道が通らない・考えが無い・いつわり・実が無い・無謀」などという意味で使われます。つまり、真実に対して虚妄・実語に対して妄語、こういう語用です。

正に対して邪・実に対して妄、正邪・実妄、仏法でもこの枠組で使っている訳です。分別というものは肯定(有)か否定(無)かの二者択一を行う所に特徴が有りますが、実相には有無の二者択一は通じないのです。例えば、刹那の一念心の中に三毒の惑心が備わっているのかいないのか・について、『止観』ではこう言っています。

「もし先より有(肯定)なりといわばなんぞたちまちに縁を待たん、もし本より無(否定)なりといわば縁対するにすなわち応ず。有ならず無ならず、<定んで有なるはすなわち邪、定んで無なるはすなわち妄なり>。まさに知るべし、有にしてしかも有ならず、有ならずしてしかも有なり。」

実相は亦有非有・非有亦有だ・と言うのです。実相には有無(肯定否定)の二者択一は通じない事がこれで判ります。二者択一は通じない・という事は、分別は通じない・という事です。実相に対しては、正分別でも分別は虚妄なのです。無分別か<無分別の分別>でないと、実相に対しては真実ではないのです。<無分別の分別>ならば智法になります。

分別も無分別も同じ人間の為(す)る事なのに、こうも<虚実>が分かれてしまうとは驚くべき事だ・と思います。

一般に分別というものは「無明が法性に共(ぐう)じて一切の隔歴分別を出生す、故に世諦と名づく」(『止観』)と言う通り、無明の働きによって如実なる真実(法性)から隔て歴(へ)て出て来た・推理上の真実にすぎない世俗諦ですから、ここには成仏得道の真諦は無い訳です。

①無明の所作である事(無明覆障の産)
②主語存在(事象)の如実からは隔歴(きゃくりゃく)している事
③分々の推理真実にすぎない事
④重々の反省が加えられていない事
⑤以上により迷いに属する世俗諦でしかない事

この五つの事柄から得道にとっては虚妄にすぎない。ここを分別虚妄と示している訳です。成道を示し真諦の側から見返した場合には、どうしても分別虚妄という事になってしまう・という事です。迷対悟の迷=虚妄・という事です。

何しろ得道の空仮中ともなれば、論理学の対象となり得る範囲は<仮>の枠内だけでして、空・中は西洋或いは現代の論理学でも古新因明でも取扱えません。四句分別(後述)意外では取扱えません。ここに・どうにもならぬ厄介さがあります。

三諦論は古今の論理学論理では取扱えないのです。概念はその意味内容を一義化・一意化して初めて成り立ち得・機能出来るのですが、仏法ではその概念の発生源となる主語事象を判断(反省叙述)するのに空・仮・中と三通りに取扱いますので、概念の場合とは異なって、一義一意化と相容れない点が出て来ます。

そこの所が縁起法の縁起法たる所以(ゆえん)でしょう。仏法は縁起法ですが、世間の諸説哲学や宗教など)や諸科学は、実体論か実体仮定の上に築かれた諸説諸科学です。『中論』などでの竜樹の説が理解されないのも、縁起論に対して実体論思考で立向かう所から起こっています

<縁起>は仏法の根幹です。「如来は是の(縁起中道)法を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』『華厳経』)と言う通り、縁起論と実体論との対比取捨が<内外相対>の一つの要(かなめ)です。縁起とは・事物事象(法)が成立っている寄合い・つまり<相依>の<関係>を示すものです。

仏法は理法・事法・教法・行法、何一つとして縁起法でない法は在りません。権教・実数・文上・文底・皆・縁起法門です。そして縁起には平面的(客観的)な横型縁起法と反省的(主観的)な縦型縁起法とが在って、普通ここ(以上諸点)が理解されていないのです。

論理学での<記号・命名>と仏法での<仮名・立名>とは同じ事でしょうが、関心の向け方は違っている様です。

論理学では、名辞(記号)はその儘では肯定にも否定にも値いしない<無記>の立場から出発して、記号操作を正しくして得た概念は肯定され、不正操作から生じた概念は否定されます。この肯定された概念は又常識的に名辞化されて世間に通用します。こういう概念及び名辞は、論理学では肯定されるべきものと見ています。

ところが仏法では、その様な正しい概念や名辞でも、更に否定……反省操作上の否定を加えるベきもの・と見ているし、もっと更には、言語道断と言って超え去るべきものと見ています。つまりは、究極においては否定されるべきものとして取扱っています。

この意味で、仏法は論理学とは、名辞や概念に対する関心の持ち方が反対です。概念の取扱い方の違いにそれがはっきり現われております。

名辞や概念について今挙げた面ではその通りです。そしてその上にもう一段在るのです。天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」というのが・もう一段高度な段階です。これが仏法での<肯定面>です。

文字や概念が無いと誰にしても知慧の操作は出来ません。仏法は<知慧の学び>でして、知慧が働く・というのは、観察智と推理智と反省智との三通りの知慧が一緒に合体して働く事です。この三つは元々・一即三・三即一で、一でもなければ三でもない無分別知慧です。

ここの所に仏法の知慧が在り、この未分合体調和智が渾然の儘働く状態を<般若>と申します。寧ろ分けないで直指した所が般若です。般若は世上の小憎らしい才智や秀才・天才の智能などとは訳が違うのです。

この般若が自行と化他とに働く局面では、概念や名辞は尊重(肯定)されている訳です。つまり言語や文字については否定面と肯定面と二通り在るのです。

分別虚妄や言語道断はその否定面での事。その否定面を能く心得ていないと危くて使いこなせない。この使いこなす面が肯定面という事になりますね。

そうです。その肯定面を建立の仮とも諸仏の気命とも言います。言語・文字・概念の肯定面は建立の仮の全部ではないが一部分には入ります。言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他とについての気命なのです。論理学論理は智法なので気命になります。

ですから「仏は文字に依って衆生を度し給うなり、涅槃経に云く『願わくば諸(もろもろ)の衆生に悉く皆出世の文字を受持せしめん』像法決疑経に云く『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」蓮盛抄)と言われております。

肯否の一方を知ってもう一方を知らないと危険極まり無い……。

<諸行無常>でもそうでしょう。諸行は一切変らないものは無い・と言う。これを聞いて、今は良いが何時かは悪くなってしまう、これが絶対的真理で脱られない・と悲観論の方だけに受取ったら一方を知って一方を知らない訳です。

一切は変るのですから、今は悪いが何時かは良くなる……これも片面です。悲観面(否定面)も在れば楽観面(肯定面)も在る。両方兼備して完全な理解です。文字・言語・概念・論理・についても同じ事です片方を強調してもう一方を無視し、捨てて顧みなければ仏法ではなくなります。

これでは禅宗の「不立文字」説になり、「所詮・文字は月を指す指(ゆび)だ、月を得てのち指は何かせん」という妄語に発展してしまいます。生まれ育ってしまったら親は不要、習ってしまったら教師は無用、捨ててしまえ・という事になってしまいます。この風潮は今の世の中に現に在ります。これも二者択一の弊害の一つです。

言語・文字について否定面・肯定面の両方を確認して、今ここでは追々その否定面を追及して行きたい・と思います。

貴方が挙げた否定の局面は、分別虚妄の一語に要約される様に、これも大事で、それは、移り去って行く現象の流れをその儘体験で把捉しよう・という……一切の存在や知識を五蘊(ごうん)仮和合と見る縁起観だからそうなります。縁起観から言語の制約性に到達して行く必然性は後で述ベます。

<五蘊>は連鎖して働く<色・受・想・行・識>の五つで、これは五仮和合聚の事ですが、詳しい話は後として、この蘊は陰とも漢訳されています。『止観』では五陰の方を使っております

蘊(うん)は、非一(多数)・総略一衆・荷重・分段・などと色々に訳されていますが、要するに、和合聚(集)、つまり、仮りに和合した集まり・積み集められた事柄・何事かの知られた担い手・こんな程度で好いでしょう。

簡単に言えば蘊=陰=集(縁起集合)で充分意味が通じます。五蘊は縦型の無尽(無窮)縁起連鎖でして、その一回転分を切取って・事象(法)と識智(これも法)との<関係の型>を示した境智一体の智法です。詳しくは後程申し上げます。

仮名という問題は小乗の『ミリンダ王問経』(『邦先比丘経』)にも在ります。ギリシャ人のミリンダ王がナーガセーナ(邦先比丘)長老に対して「貴方は誰だ」と問う、長老は「ナーガセーナです」と答える。王は「ナーガセーナとは一体何だ」と問う、長老は「仮名です」と答える。

王が「仮名とはどういう事か」と問う。長老は「仮りに五蘊に依って施設された実体無きものです」と答える。王が「五蘊とは一体どういう事だ」と問う、長老は五蘊の各支を車の部品に譬(たと)え・五蘊を車の全体に譬えて・各支にも車にも実体が無い事を説き明かす。

こうやって問答を重ねて・縁起観から析空観(しゃくくうかん)が説かれ、五蘊仮和合の無実体なるナーガセーナが承認され、因縁和合の仮名説が認められ、王は仏法に帰依する・という事になります。

この、仮名を立てる<立名>という事が、後世に天台の五重玄義の<名玄義>として重要な問題になる訳ですが、それは後回しとして、ここでは仮和合なる体を指すサイン(記号)としての<仮名>に注目して置きましょう。

仮名の指す所(対象)全て仮和合の現象体ばかりで、それに本質や実体は全く無い。現象の他に現象のその奥へ実在(実体と本質)を立てるのは間違いである。それが実際世界の真相だ・と指摘して置きましょう。体験世界や客観世界には現象以外は全く在りません。本質や実体は思考の誤りから生じた虚偽概念だったのです。

五蘊ならざる存在は無く知識も無く、存在や知識として仮和合ならざるは無く・仮和合ならざる五蘊は無く、因縁仮和合ならざる知識は無い。縁起を素朴に言えば「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ起こるが故に此れ起こる」「未だ且って一法も因縁より生ぜざるは非ず」「故に一切法・空ならざるは無し」(『中論』取意)です。

(3)命題界の遣いで論理は分かれる

論理について仏法で能く「言語道断(ごんごどうだん)心行所滅(しんぎょうしょめつ)」という事を言いますが、この心行所・行ずる所(しよ)というのは<舞台>とでも申しますか。現代論理学では<命題界>というのがこれに当ります。この<所>は<命題界>という事になります。

ここでは論理がテーマですから、初めに末木剛博教授(東京大学)の『論理学概論』から一つの要点を抜き書きして示して置きたいと思います。(以下略出)

感覚世界→個々の感覚
・非人称命題→知覚命題→対象的知覚命題→人称命題
・人称命題
……〇不定人称命題―演繹法→形式科学(数学・論理学)
……〇特定人件命題
・一人称命題―自己反省(弁証法)→自己認識(自覚)
・二人称命題―類推法→他我認識→社会科学・歴史学
・三人称命題―帰納法→対象認識→自然科学

それで、論理と学問との対応ですが、それは次の通りになって参ります。
不定人称演繹法――数学・論理学(形式科学)
三人称帰納法――自然科学…………………合理
二人称類推法――社会科学・歴史学
一人称弁証法――自己認識(反省自覚)……非合理

前表は略出で不完全ですから、末木教授の本意から外れる点も在るか・とは思いますが、その点は教授に陳謝申し上げて置さたいと思います。

当然の事ですが、この表のバックボーンを取崩してはいけません。つまり、人称命題界と使用論法との関係を取崩してはなりません。関係を入替えたら背理になり、論理が正しいものとして成立致しません。

この表に照らせばすぐ判る事ですが、二人称命題である社会科学を弁証法で遣ろう・というマルクスは無茶です。論語読みの論語知らず・と同様、弁証法読みの弁証法知らず・と言うべきです。

社会には不都合・不整合・不合理・反合理・有害な事などは山程在りますが、社会内のそれら全ての事象は<同時>に共存していますから別に矛盾はしていません。矛盾が無いのですから弁証法は当嵌まりません。弁証法的唯物史観は完全に誤りです。

社会現象には矛盾が無いので、矛盾を軸にした弁証法が妥当する余地が無いのですね。

そうです。例えば夏に部屋の窓を全部開け放して冷房したら、これは矛盾している・と言うでしょう。然し能く見ると、窓を開け放して冷房を無効にしている事態と、冷房を有効にしようという意図とが・同時に共存していて<反合理>だ・という事です。

非合理や反合理は矛盾とは全く違います。非合理は合理の外(そと)に在り・反合理・不合理は合理の枠内で背いている状態を指します。今の例の場合は反合理状態です。この場合、矛盾は事態側に在るのではありません。こういう<選択>手段を取って平気で居る<人間側>の<考え>の中に在る事です。

こういう事で、自然や社会の側には<矛盾>は金輪際無いのですから、自然界や社会に<矛盾を基軸とする>弁証法が当嵌まる余地は全く有りません。社会はやはり類推法を適用すべき世界です。弁証法は<人間の行為>にしか適用出来ないのです。

この事は<矛盾>と<弁証法>という事が明らかにされなければ・仲々理解を得られませんから、後に弁証法を論ずる部分で詳しく取上げて行きたい・と思いますが、何よりも先進資本主義社会にマルクスの歴史進行予言が当嵌まらなかった事が、弁証法的社会観の破綻を示しています。これは常に指摘される所です。哲学としても社会科学としても、唯物論も間違っておりますが、弁証法の方が尚悪く間違っております

マルクスは当時のヨーロッパ社会を弁証法的世界観で<後付(あとづ)け講釈>したから正しそうに見えただけです。只それだけの事なのです。

それで、弁証法についてもう少し略引して見たい・と思います。

合理性の限界――自我はみずからを思量しえなくなる事によってみずからを知るのである。かくして自己矛盾を介して自我は合理性を離れた自己認識に達する。それは矛盾を媒介する思考であるが故に弁証法である。しかしてそれは反合理的ではない。この弁証法は合理性(無矛盾性)と反合理性(自己矛盾)とを総合するものである。……かくして一人称(自我)は合理性を駆使してしかも合理性を超える。論理の終局は非合理である」(以上初版本より)

今示された事は非常に大事な点です。どうも言魂(ことだま)の幸(さきわ)う国の日本人は、論理学が通じない・本当の意味の論理が肌に合わない人種だ・と言われますが、人生意気に感じたり・腹を打割ったり・もののあはれを知ったり・腹芸に長じたり・清濁合わせ呑んだり、それはそれで結構ですが、論理が通じない所は不味いです。

“フィーリング民族”で終ってはならない・と思います。“フィーリング学派”だった陽明学派などは悲劇の主人公が多いです。そんなであってはならないでしょう。

ここでまず問題になるのは人称世界という事です。人称世界の研究は、これだけで人文科学や哲学の一分科が出来上る程のものですから、人称世界・人称命題という語の使い方……語用を明らかにして置くべきだ・と思います。

この対話で使って行く場合には、普通・学者が使っている語用とは少し違ったものになるかもしれません。論理学的な側面から、うんと簡明化した意味で用いたい・と思います。要するに<人が対する世界の取扱い方の区別>という点で用いたい・と思います。

一人称は<全ては自分の世界である。自己の周囲も自己が規定して把捉したものである、己心の世界である>という程度に用います。
二人称は<我れと汝との世界。相依して交流し縁起している社会関係の世界>という意味に用い、
三人称は<客観世界。見えた事態を突っ撥ねて自分の外部へ纏めて、それをその外・周辺から眺めている世界>という程度に用いたい・と思います。

命題(プロポジション)を中心とした・人称と論理との関係では、
不定人称命題は演繹法
一人称命題は弁証法
二人称命題は類推法
三人称は帰納法
という風になっていますが、例えば二人称世界には帰納法などを用いては背理になるのか・という様な誤解も生じるか・と思いますが……。

要するにこの表での対置は<主柱>を示している訳です。一人称命題界の主柱は弁証法・二人称命題界の主柱は類推法・三人称命題界の主柱は帰納法・という事です。

不定人称命題界は形式世界ですから演繹法ですが、人称が不定だ・という事は、その儘一人称にも二人称にも三人称にも使用される・という事になります。但し支柱として使用される訳で、決して主柱として使用されるのではありません。主柱と支柱との区別は大切です。

主柱・支柱の関係をしっかり掴んでいれば好いのですね。

もう少し詳しく言ってみると、一人称命題界では、その合理領域は演繹的帰納法つまりは帰納法を主柱とし・支柱として類推・演繹の二法が使用可能だが、その非合理領域には使用出来ない・という事になります。

一人称非合理領域では、自我の自覚の場合には、弁証法が主柱で支柱無しです。この弁証法は結果的弁証法であって、図式弁証法ではありません。

二人称世界には弁証法は全く使用出来ません。従ってこの命題界の主柱は類推法・支柱は帰納法と演繹法・という事になります。

三人称世界は帰納法が主柱・支柱は演繹法。支柱としても類推法は生物学等の極く限られた狭い範囲でしか使用出来ず、弁証法は全く使用不可能です。

尚、仏法の場合では、一人称合理命題界(領域)の主柱は四句分別(原型)という反省論法で、支柱は応用型四句分別・弁証法・帰納法・類推法・演繹法の五つとなります。これ(四句)はここでは取扱えませんから、章を改めて後述致します。

人称世界のうち、一人称題界というのが最も難解です。「全てはこれ我れなり」と言われても、現実には山川草木の全ては自分の外部に勝手に存立しています。

別に山川草木を自分の心が制作したとか生み出した・という事ではありません。山川草木は自分が生まれる前から在ったし、自分が死んだから・といって無くなるものでもありません。だが、山川草木に相い対した自分の<心の中の脈絡の世界>にどう浮かんで・どう作用して来るか・は全く己心の問題です。心外無別法……ここが一人称命題界になります。

天台大師の「説己心中所行法門」が一念三千ですから、我が一念を直指して一念是れ三千・三千是れ一念で、これが一人称命題界の問題である事は、基本的にはすぐ判ります。事行の妙法・観行の妙法においては、自分(心)と世界とを分離し対置してはならない事も判ります。

然し理解の問題として取扱う場合には「全ては是れ我れなり」という状況は、どう説明したら好いのか・という点には、相当な困難が有ります。

自分の心をどんどん拡げて世界の全てを包み込んでしまった様な状態・と言っても好いし、世界の全てが自分の心の中に潜り込んで来てしまった状態・と言っても好いでしょう。智法だからこうなるのです。

又は天から降った雨が大地に滲込む様に・自分の心が世界の全てへ滲込んでしまった状態・逆に言うと・世界が心の中へ融込んでしまった状態・とも言えます。これは仏法の基本的な大問題ですから、これから詳しく触れて行く事になります。

してみますと、仏法の悟りは一人称世界にだけ有って、二人称・三人称の世界には無い訳ですね。従って教法としての仏法も、悟りの部分は常に一人称命題界のものとして在り、他の界には無い……

そうです。反省――自覚の道筋は常に一人称世界のものです。「己心の外(ほか)に法無し」と言うのはここの所です。その上で宗教としての仏教は<我れと汝><能化と所化><仏と衆生>の二人称世界のものなのです。宗教は社会現象ですから二人称です。更に、仏教や仏法を客観する立場に置く仏教学は三人称世界のものになる訳です。

総じて仏教の教法は、化他の為に、言い替えれば他の人へ伝達する為に、分別化・言説化したものですから、その為に二人称・三人称のものにはなっていても、元は一人称のものなのです。

又、仏法は反省一人称だ・と言っても、その自分の悟りだけに閉籠もっては独覚になり、二乗不成仏と変らなくなります。そこで二人称の化他の局面へ再び立帰って菩薩道を行ずる訳です。

(4)世俗は<究極の真>ではない

三諦論というのは、仏法としては最も基本になる法門ですが、この空仮中の<空>の理解の仕方に実体化が忍び寄るのは、主観者から離れた客観存在・というものをどうしても考えざるを得ない・という事と関係が有るでしょう。

客観実在は結局<感覚の実体化>に帰して来ます。それは後で申し上げましょう。空が説かれるとそれが対象化して捉えられ、客観実在の様に思込まれ、この為に空が実体化される。そこで「空も亦復(またまた)空なり」(『大般若経』)と、空を実体化すべからず・と禁じている訳です。

仏法では能く<俗諦・真諦>という立て分けをします。俗諦、これは世法の悟り・真理。真諦、これは仏法だけの真理・悟り。教えられれば初発心から等覚の菩薩及び仏様迄は真諦。私達が普通・あらゆる情報交換をして自分の頭に叩き込んだものは全て俗諦です。書物を読む事も同じで、自分の記憶装置の中に入っているのは全部俗諦です。

初期仏教の所から始めてみるとこうなります。後々の法華から振返ってみれば次の通りです。

〇三法印諸行無常(印)――――仮…………………俗諦
諸法無我(印)――――(無我)推理知識……俗諦
――――空…………………真諦
涅槃寂静(印)――――中…………………真諦

無我無自性は推理で得られますから俗諦ですが、無我無自性は即ち空・と反省されますからすぐ真諦になります。<印>は<印可決定>の意味。<法印>は<確定した教法>という事です。

それで、三十成道といい・何といい、仏様の悟り・というものは、無常な九界の経験を乗越えた一種独得な経験な訳です。そして、その真諦というもの・つまり仏様の悟り・三世諸仏の悟った所は皆全く同じだ・と言う。表の見え・は違っても根本同だ・と言う。

そうすると、その真諦に照らして、相対上、俗諦は真ならず・という事になります。

だが、真ではないけれども・全部嘘だ・という訳でもない。嘘は嘘なりに・嘘でない部分は嘘でないなりに・その儘在りの儘に在る。

俗諦を否定した所から進んで真諦が会得されたのだけれども、否定したから・と言ってこれ(俗諦)を全部ゼロにした訳ではない。諸学の真理はその儘残って世俗に通用するが、それでも・これらは究極の真ではないぞ・と否定されている。

では何を否定したか・と言うと、否定された勘所が有る訳です。否定の勘所・否定のポイント……。このポイントは、眼前現実の人生に取って<究極の>という条件です。<究極の真>には非ず・と、こういう否定の仕方でしょう。俗諦は究極の真には非ず……否定されているポイントはここです。だから<虚仮・虚妄>と退けられる。

<破>の立場からは、命題による認識は全く虚妄だ・と退けられます。<立>の立場では再び建立されて虚妄ではなくなります。この否定は反省判断上での否定ですから推理上の否定とは違います。推理否定は横型に否定しますが、反省否定は縦型に堀下げて行います。

そういう否定の仕方・退け方は、命題構成の仕方に誤りが有るから正当に成立しない・非真理だ・という類いの否定とは違う訳ですね。幽霊が居るか居ないか・という様な・事実認知の正誤とも違う訳ですね。

能く初めは、俗諦というものは否定されたのだから全部駄目だ・と蹴飛ばす悪い癖が有るでしょう。然し竜樹説によると、仏様は何も・俗諦という<物事の推理判断>が、世俗の枠内で正当に存立して現に在る事を否定した訳ではない。「如来は世と争わず」で、仏様はそんな事は致しません。

否定のポイントは<生きている人に取っての究極性>……これです。それらを使っても人生の諸苦から解放されはしない・という所が否定の勘所です。反省上での否定です。こういう立場から、お釈迦様でも三世の諸仏でも、真諦の座に位置している訳です。

九界と仏界とを横並べにしては、その事は判らなくなりますね。縦並べにしませんと……。縦だから反省しか通用しない……。

そこから、世間で使われる諸々の概念・諸々の理論・等というものは究極の真ではない、俗諦で言立てられる全ての法則・全ての真理・全ての思惟・全ての概念・全ての極意、それは解脱への究極の真ではない、よって分別虚妄にすぎない……と・こうなっている訳です。

これが遮られる<虚妄の仮>という事です。今度は、その同じものを仏様が空観中道観で消化して、衆生建立の為に再び使えば<建立の仮>という事になり、これは<妄語>ではなく<実語>です。

それと似た様な事は論理学にも在ります。日常使う言葉の矛盾性に悩まされますが、それ故に論理学では言語を厳密に使います。それでも、結局は日常言語に戻るしか無い・という事が自覚され、日常言語の無差別性・普遍性に対しては、使用(語用)面でコントロールする以外に無い・とされ、いわば言語の虚妄性が持て余されています。

ところでお釈迦様、それでは、これは究極の真ではないから、こういうものは一切使わない・と言って排除したらどうなるでしょうか。すると今度は、自分の悟った所を人に伝える手段が無くなります。

そこで、究極の真ではない事を充分承知の上で、これらを使って人々に語り掛け(化他)て行かなければならない。それが仮名や世諦を用いた・仮りの施設としての言説の仮諦。仮名であり俗諦だけれどもこれは照らし出した<建立の仮>。『止観』に能く出て来る<遮照>という二重操作がこれです。

大体、お釈迦様自身にしてみても、初めの凡夫時代には、こういうものを使って思索もし、概念操作や四句分別(後述)による反省なども大いにやり、色々な修行もし、苦しんで、全部それらを捨て、突き抜けて悟った訳ですし、やはり、世俗諦・仮名でも、凡夫には必要なのですね。

凡夫の自行にも必要、仏菩薩の化他にも必要。それを通じて虚妄の仮を建立の仮に変質させて行く事が大切です。一口に覚えたければ「衆生の言説は<妄語>、仏様の言説は<実語>」と覚えて下さい。「諸仏如来は言(みこと)虚妄無し」(『法華経』方便品)です。

「仏説無虚妄・実語」と言っても、平面的に単にそれだけで終るものではありませんね。<妄語対実語>には、重々に堀下げて行く段階が在ります。つまり「諸法相所対不同」という重層局面が在ります。

それには妙法尼御前御返事を拝見するのが一番です。説明は一切不要です。

「仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経経にたいし候へば・此等は妄語・仏説は実語にて候、此の実語の中に妄語あり綺語もあり悪口もあり、其の中に法華経は実語の中の実語なり・真実の中の真実なり、真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり、法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり、法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御カにせめられて実語となり候」。

(5)真ではないが使わなければならない

三諦論の話へ入ろうとしているのですが、そうしてみますと、三諦も・仮も空も中も・果ては<妙法>も、言語として捉えた側面から言うならば、全て施設した仮名である・という事になります。

こうした言語を、論理学とか世俗諦の上から論じたら、いずれも仮名です。仏法においても<施設の名字>と言い切っております。その辺は虚妄の仮・という事になります。然し仏様がこれらを用いて教えている悟りの思想内容は、虚妄どころか大真実なのですから、それに連れて、用いられた一言一句は「皆是真実」の実語です。

ですから<妙法>という言語(名字)も、仮名であるその儘に実語な訳で、この時には虚妄性……言語としての虚妄性は限りなく後退して行き、遂には消え去っている訳です。

そういう側面は、論面学で言う語用論と意味論との問題・とも言えそうです。全ての世俗諦も言語(仮名)も、自行化他に亘って必要なものばかりで、決して無駄が無い……。否定と排除の面を説かれたから・と言って、そこだけにしがみ付いては迷いであり・誤りになる。建立面を見ると、寧ろ無駄が無く必要な訳ですね。

そうです。大体、一般の学問では、分野に従ってそれぞれ特有の用語が在ります。数学ならば加減乗除とかルートとか分数とか微積分とかいう風に。物理学ならばCGS単位とか素粒子とか……。

社会科学なら社会とか経済とか議員立法とかいう風に……。ですが仏法では事情が違っています。仏法には・仏法を独特に表現する・仏法だけに限られた・そして世法には見当らない・特殊な用語というものは無いのです。

この意味で元来<仏法用語>というものは原理上在り得ないのです。言語・文字は全部世俗の言葉・仮名で、それしか無く、それらを組合わせて仏法の事態を表現するしか有りません。言葉は全部世俗の用語。表現される表現成体は・世俗とは違った仏法界の事態。だから難解で誤解されてしまう事にもなります。

現在<仏法用語>と言って、特殊な用語が在る様に思っているのは、用語が古くなって、一般人には判らなくなっているからにすぎません。仏在世の弟子達はそうした悩みは特っていなかった筈です。日本の場合は経文が漢文で、いわば外国語だから取付き難い訳です。もう千年もしたら益々そうなります。外国へ進出したらやはりそうでしょう。

世俗言語で世俗とは違う事態を表現する。仏法が世間で理解されない事や、初信の時代に「判らない」と言うのは、一つにはここにネック(障害)が有るのでしょう。

ですからこのネックを打破する為に、竜樹は概念虚妄・分別虚妄を強調し、『止観』では<虚妄の仮>を強調致します。一般に仏教典では、名字は全て仮名・仮名……と注意を喚起する訳です。若しも名辞に従って世俗概念を作って執著してしまったら、仏法はもう仏法ではなくなってしまいます。

けれども、それを使わないと何も出来ないでしょう。迷っている衆生へ仏法界の事態を伝達する方法は、この仮名を使う以外には無い訳です。ですから仮名でも、仏様にも凡夫にも必要欠くべからざるものになる訳です。

この事は、考えてみれば大変な問題ですね。必要だが施設の仮名……。

仮名は無益なり・と言って、禅宗の「不立文字」の様に、皆これを消す訳には行かないでしょう。仏様だってこれを消したら何も出来なかったのですから……。

それで、化他に出る場合には、やはりこれは究極の真には非ず・で大いに不足しているのだけども、それを承知の上で使わなくてはいけない。そして使って人々に語り掛けて行く所が仮諦です。応身の振舞いです。言説です。教法です。この化儀を使わないと化法が成立たない訳です。

真諦の仮諦が俗諦の意味合いを持って来る。それならばこれで全てか・と言うと、やはり不足性が有る訳ですから、それを補って、自分が心の中で、語り掛ける源泉として、自分の一念の中に握り締めている所が、言語道断・心行所滅の境智と言われております。不可思議・不可説・無分別の悟域です。

言語の道……論理が断えている・心行所滅……概念操作が及ばない・というのはそこの所です。心行の所・というのは概念操作です。<所>は<舞台><局面><場>の事です。論理学ならば<命題界>の事です。世俗の「真である・真でない」では最早及ばない。だから世俗の真は非実非真・有に非ず無に非ず・空なり・と言う。空諦です。

然して、悟った中味と化導で説く所、それとこれとは・仏様の己心においては全く一つのものである。空仮相等しい(違っていない)と言う。これが<中>・中諦です。一番基本的な線から行くと、ざっと以上の様になって来るのではないですか。

これは取りも直さず三諦が智法である事を物語っております。境法ではないのです。これが空仮中三諦の基本的な意味合いです。だから姿・形は仮、心の性分は空、その基体は中、そう言われている言葉の中味はこれです。空仮中は事物側に在るのではありません。

ところが往々にして逆にしてしまい、間違って、仮とは事物の姿・形、空とはその性質、中とは体なり・と言ったり聞いたりで、始めはその程度で判った積りになってしまいます。実際は判っておりません。約身・約智・約境・約観・約諦・約理・約行……皆一緒くたに考えています。

始めの内は仲々判らないものです。苦労しないと判って来ません。「善く観ぜざる者は心に一切の相を具することを信ぜず」(『止観』)で、「心は性の方で・相は仮の方の筈だ、はてな?……」という事になってしまいます。

何故そういう事になるか・と言うと、釈尊の仏教は末法の今の事行の法ではないから要らない・と勝手に全く排除してしまう事と関係が有りますね。

そこです。初信の内は自分で調べないからです。御書にはちゃんと在る訳ですけれども、必要なポイントが要約された形でしか出て来ないでしょう。初信の時は・要するに言葉だけ覚えて、要約されているのか・これで精一杯拡がっているのか。その区別も付けないで丸暗記しているだけですから……。

これはお経を読む心理と同じです。「爾時世尊……告舎利弗……」。さて文上の意味は・文底の意味は・と砕いて理解していません。理解はしていないけれども丸暗記はしています。御書に対してもそうです。唯信の宗旨ですから、それでも信が有って勝手な解釈を振回さなければ叶っている訳ですけれども……。

知りもしないで好い可減な事を言う様ですと、もう唯信ではなくなります。初信は「旅客来り嘆いて曰く……」、暗記はしているけれども中味の理解はまだ出来ていない。段々年数が経つに連れて変って来る。単に理解するのではなく、体解から理解へ・という風に変って来るでしょう。仮令学生などが理解から入ってもそれはまだ嘘です。その理解がやはり体解を通ってからでないと本物にはなりません。

(6)三諦の基本的な意味

三諦の基本的な意味は、求道の自行面では、縁起の仮から空へ、そして空の儘仮を備えて仮空相等の中へと行く。化他面では、空仮相等の中から仮へ帰って来る・という事でしたが……。

化他面は果位の教主の双照の立場です。本当の三諦はそこに在る訳です。この場合、空というのはどちらかと言うと悟りの色合いが強い。仮というと衆生化導の化他の色合いが強い訳でしょう。

その悟っている自分と・悟った所を人にも悟らせょうとする外に対する働き掛けと・これは何も異なった事でない・と言う。相等しい、空仮相当である。これで中道法相です。空にも仮にも片寄らない所です。

だからこの違っていない所を拡げて行くと、仮のなかに既に空仮中あり・空のなかに空仮中あり・中のなかに空仮中あり・いずれも実体化すべからず……と・こうなります。これで相即円融です。

但し、空仮相等というこの<相等>は、「相等に非ず不相等に非ずして如是相等なり」という内容の<相等>でなければなりません。記号論理学での<相等>とは若冠違った内容になります。

各々に三つを含んでいる・という所をもう少し伺いたいと思います。「一諦にして三諦なり」(『止観』)と言う相互包攝論だ・と思いますが……。

解(げ)の認識論としてはそうなります。然し本来は反省論でして、行(ぎょう)の実践自覚論として扱うべき問題です。それはそうややこしくはありません。お釈迦様でも何仏でも、仏様はなぜ化他に出るか・という動機を探れば、慈悲(これを顕現したのが応身)が有り、且つ自分が悟っているからです。

この世に出現しているその<仮に出ている>動機を考えれば、そのなかにちゃんと空が有る。だから法報応の三身で応身というのは・法を説く外用の化他の面だ・と言います。報身は悟りの智慧の身であり化他の為の智慧の身でもあります。応身は慈悲で・報身は智慧です。応は仮・報は空です。

智慧は道理を内容としますから理・智共に空なる法です。こうして慈悲と仏智の基体となる所は法でして、法を身に帯したこの法身は中道を行じますから中です。法は中なりです。この法は本有無作の自然法(じねんぼう)です。自然(じねん)法身が中道です。

この智慧という事は、概念操作をやる智慧ではなくて、実際の仏様の体験から生じた所の・概念操作を含みながら然もそれを超えた反省智・体験智・直観智です。これらあらゆる作用智を一括した無分別智・無上智慧です。これを<般若>と申します。

カントに言わせると、直観は<知>ではない・と言いますけれども、然し、反省も知を生みます。智慧による反省や概念操作の働きをぎりぎり煮詰めて行って、ほぼ一瞬間でその操作を完了したら、これは瞬間の知で、直観知になってしまうでしょう。直観知を完全に拒否してはなりませんね。

さて、仮のなかに空の悟りが有るならば、表に出ている化他の時の仮の面と、その動機となり原動力となっている空なる智慧と、どちらが表面に出て居ようとも、結局は相等しい。この仮空相即の所に中が有ります。仮には振回されない・空にはむなしくされない・不動不寂・これが中です。

今度は、智慧という・悟りという・己心の空なる内面性を見ても、自分が悟っただけでそれで好いか・となると、これは考えざるを得ません。空を悟って空に留まっては空に寂せられてしまい、著空頂堕の空病で何もならない。二乗・菩薩は空病なり・で、これでは仏様ではありません。

悟った以上は衆生を化導しなければならない・という<無縁の慈悲>による衝動的な意志の発動が有るでしょう。無縁とは特定縁に偏らない・縁(相手)を選ばない・という事です。するとそれは既に・この空のなかに仮諦を孕んでいます。化導の智慧も孕んでいます。孕んでいる以上はやはり空仮相等で以って、これで中道です。

中道とは・道に適(かな)う・法に適う・とされていますから、中道是れ法身で中諦という事になります。会得すればこれも反省知です。直観知です。智法身です。

その様に基体(如法に生きている・という事)となる所の中道は如是体です。体にも非ず不体にも非ざる如是体です。法身です。法身が有って道に適って生きて居る以上、必ずそこには良し悪しに拘らず活動性が有りバイタリティ(活力)が有ります。

バイタリティが有る以上、必ず自らに対しては悟りを深め(空)、衆生に対しては與楽抜苦の働き掛け〈仮)をします。バイタリティの発動性というものはこの二つしか無いです。そうすると中のなかに空仮有り・となります。

こうなると、仮のなかに三諦有り・空のなかに三諦有り・中のなかに三諦有り、互いに含み含まれ・攝し攝せられて円融している。三諦相即の一心三観(因行)円融三諦(果徳)というのはこれではないですか。一諦も三諦・三諦も一諦、反省上の縦型縁起関係で存立して何処にも固定化・実体化は有りません。法執も有りません。無礙です。

そこが一番基本的な所ですね。空仮中の三諦というものが在り、それを体(からだ)で知るには、次第の三観が在り・不次第の三観が在って、相即の三観から仕舞いには円頓の三観になります。これを天台は順序を立てて言っております。

それは何も別の事ではないのでして、行の訓練の仕方の順序だけの事です。『摩詞止観』というのは、こうきちっと出来ています。次第を踏まえを不次第を踏まえて円頓へ行くのか・と言うと、そうではありません。訓練の順序だけの事なのです。

三観について、その目指す所の<仮>は意志による判断によって形を取り、<空>は反省判断で智に生さ、更に再反省した<中>は法に適った生き方である・という風にも言われますが……。

そういう面も有ります。色々な面が在るのです。仮というのは、但の世俗や俗諦を否定してそこから一度脱けて、又勝義の世俗へ帰って来る所です。ここを建立仮と言います。普通、建立仮は化他面ばかり強調されますが、実際には自行化他に亘るものです。

空の部分は、何処迄も反省して真諦を衰えさせない・という反省の判断です。生活が続き当面する事態が変って続く以上、連れて反省も又続く訳です。空観がしっかりしていないと、あっちへ拘(こだ)わり・こっちへ囚われ・あれを愛し・これに執著し・で自在には振舞えないでしょう。

何せ世の中は相手が有る事で、男が玄関を出たら七人の敵が居る・と言う位ですから、自在に振舞う・という事は大変な事です。自在は放縦とは違いますから、倫理性と正理と正しい智慧と行動力とを要します。活力も必要です。

中というのは、反省して世俗を出て真諦へ達したけれでも、その上で更に再反省して、真諦のなかに世俗を引張り込んで消化してしまった訳です。こういう事で、純世俗や俗諦と真諦と、勝劣の位置付けをはっさり着けて円融した所が中諦です。

この為には反省操作が要る訳です。反省判断を必要とします。だからこういう中道を外れてしまうと、今度は断常の二見が始まる。断常の際を超えるのを無辺中道・と言いまして、断見常見を超えた不断不常の息二辺止の所が中道です。断見も形而上判断・常見も形而上判断・悪しきドグマです。

現代は学問が発達し教育が行渡って、一億総インテリという状況下に在るのですが、それでもこういう話を仲々理解出来ないというのは、どういう点に障害が在るのでしょうか。見惑の所以(せい)だ・と言ってしまえばそれ迄ですが……。

一般には先入観の虜になっているからでしょう。一つは・学校で教えられた諸学の先入観念です。特に大学で教えられるのが一番質(たち)が悪いです。諸学は皆・実体仮定の上に築かれているので・実体思想に凝り固まってしまう。

これらは世俗では大切なのだけども、仏法理解に対しては実に質(たち)が悪い。というのは、俗諦の真で凝り固まって実体化したものだけを教わるから、入力されたコンピューターと同じで、実体思考しか出て来なくなってしまう。

それは確かに実感致しますし、これも大きな一面だと思います。

もう一つは、そういう風に出来上った頭に安住してしまって、それ以上に突込んで概念操作や反省操作をやってみよう・という意欲が足りないからです。不足感や不安・不満感はレジャーで紛らかしてしまう。こういうのを天台は「頂堕」とか「法愛の惑」と言って、破るべきものとして戒めています。

結局、学問で仏法の方を眺めてしまうのです。仏法で学問を眺めないで学問で仏法を眺めてしまう。

それは摧尊入卑(尊法を摧し砕いて卑法の中へ入れてしまう事)の危険性が非常に大きい訳です。勿論・概念操作で比較するだけではいけません。それでは唯この俗世界だけで客観をやっている事にすぎませんから……。

客観や分析・果ては推論操作は、結局は科学理解の方法で、形而上の推論操作と雖も哲学理解の領域にすぎない。宗教・特に仏法には手が届かない……。

そうではなくて、修行し、自分の信心の体験の上に根を生やして概念操作や反省操作・比較等をやるべきです。それで信行学の<学>が大事になる訳です。学は智慧と相い呼応した相応法なのです。智慧の<修行>です。その儘<行>(ぎょう)なのです。

ですから、序でに申しますと、仏法の<学>というのは今の学校式の<学ぶ>という事ではないのです。<習う>という事で、正確には実践で<修習>する事です。戒定慧の<三学>はそうです。仏法は<智慧の学び>です。仏法そのものが智法です。

末法の今は智慧よりも信を強調します。本当は末法以前でもこの点は同じなのですが、「以信得入」と言って・仏法には唯<信>だけが能く入り得るのだ・と申します。「以信代慧」とも言って、信は智慧の代理役になっておりますが……。

因果関係から申しますと、信は因・慧は果・という相依関係(縁起関係)になります。信も又智慧なのです。と申しますのは、智慧の働きが無いと正しく<信ずる>事が出来ません。犬猫や馬鹿は仏法を信ずる事が出来ません。智慧が無いからです。これで信は智慧だ・という事が判ります。

(7)<待>と<対>との違い――絶待と待絶

結局、三諦・と言えば法体は円融頓成の三諦しか無い訳ですね。この円頓の三諦の仮・空・中の関係を明らかにすべく、天台は破立とか遮照とか、相待(そうだい)・絶待(ぜつだい)・待絶(たいぜつ)という事を説きますが、こうした昔からの用語は一般に馴染みが有りませんので、ざっと説明を加えて欲しいと思います。

それらは大体・竜樹から天台迄の間で使い出されたものです。まず<待>の方から始めなければなりません。<待する>というのは<縁起関係>そのものの別名です。ですから相待縁起・縁起相待・と一括して用いる事も有ります。相依相待の縁起という風にも言います。

心の中で<まちもうける>事を期待・と言います通り、待は<まつ>事です。この世の事象は全て<相い寄り・相い待ち・依り合って・成立し存立し>ていますから<縁起している>訳です。<待は縁起なり>です。

西洋には縁起・という考え方は在りませんでしたから、何時も相対・絶対という概念を用いています。日本では・相対・絶対・と相待・絶待・は字の感じと発音とが似ていますから、概念上でもしばしば混同される場合が有った様です。

今の用語で言う相対・絶対と、仏法に出て来る相待・絶待とは違います。相対性原理と言う相対は前者で、その相対に対して絶対が有るでしょう。仏法の方では五重相対の相対が在ります。絶対という用語は、調べた範囲では経文等に仲々見当りません。仏法では・相待・それから絶待、『六巻抄』等には・逆にした・待絶・という用語が在ります。この<待>の字が違うでしょう。

相対は、現象と現象との間の相互否定的な関係を言っています。つまり対立関係・抗争関係、関係であり構造であり相互否定的な関わりである所を意味しています。絶対は、言語上では相対に<対>している訳ですが、その<対>を超えてしまった理想的な<モデル状能>を指し示しています。

相対でもそうなのですが、特に絶対という事は、まず直ちに関係や構造ではなくて、その前に個在を仮定して、仮定されたその個の独自存立を言っている訳です。

個の独自存立は何処迄も仮定でしかありませんが、その個の独立自存の存立と実体というものは、この<対概念>の基礎になっている訳です。ところが学問的に反省してみると、実はこの対概念は・待概念という包攝基盤を持たないと成立出来ないのです。

それで仏法の場合、<待>は、関係とか構造とかいう意味と共に、その前にまず・相依性と優劣とを言っている訳です。<待>は相い待する二支が互いに相手を求め合っている関係・を意味します。対立し敵対するにも・まずその前に求め合わないと対立さえ出来ません。まず両々相俟って一緒になる必要が有ります。これが<待>です。

碁・将棋や相撲でもそうでしょう。戦い闘うにしても・その前に対立(睨み合い)段階が在り、その対立の前にまず求め合う待立が必要です。呼び出しが東西の力士を呼び挙げるのが相待です。待概念在ってこその対概念・対立です。闘いは・敵対はその後です。

それで何よりもまず相待……。待概念は縁起観から必然的に出て来るものです。求め合って相い寄り・相い依り・相い待つから相待です。これが<縁起>という<関係>です。この概念は、何も反省判断を待つ事無く成立する推理上の概念ですから俗諦です。俗諦上の概念ですが、仏法の中では迚も大事な役割を担うのです。

絶待妙とか遮照絶待・という用語が在りますが、この<絶待>の方は……。

<絶待>という事は、劣を捨てて勝を取る・それを重ねて行くと・もう相待すべきもの(相手)が無くなる。相待が絶待の中に皆取込まれてしまう。勝劣の儘取込まれて質が転化してしまう。この絶待作用は究極の根源法にだけ備わっている事です。

ですから、待と対とは字の感じや発音は似ていても、概念内容は丸で違います。「一般には絶待の待は対の字を使う」という某『大辞典』の解説は決定的致命的な誤りです。但し昔の人が当て字に使った例は在るかもしれません。

更にこれにはもう一段有ります。人法について劣を捨てて勝を取って、然も劣をも取込み生かして用いる(功帰)。法に就いて(就法)これを随義転用とも法開会とも言いますが、絶待の中に取込まれて質が・良い方へ転化したものを・活きの法門として生かして用いる。絶待はそこ迄行っています。

華厳は<死法門。(一代経中の根源法が判っていない為に法門が効力を失っている・という事)で法華体内(法華の中に取込まれて法華義で解釈されている事)の華厳は<活法門>(根源法が判っているので法門が有効に働いている・という事)なり・と「三重秘伝抄」に在りました。

体内・体外も又反省判断の所産です。仏法ではこの判断の否定は<無>・肯定は<有>と表現されますが、万象を仏界から見れば、有にも無にも非ず……空と言う。その空を踏まえた儘に有無に非ずして有無の仮に偏する。それを妙とは申すなり、中道一実の妙体なるを云云・と在ります。こういう考え方は<待>からしか出て来ませんね。

そういう風に・反省の有無を体内に取込んだ一実妙体の中道が<絶待妙>です。この場合の絶待はこちらの<待>です。能く出版物の活字は<待>を使っていますが、正確に言うと当て字も甚だしい所です。でなければ区別が頭の中に無い為の誤りでしょう。

その絶待に待して<待絶>という用語があります。相待を絶したのが絶待で、これは教の解の上の事。それが行の観の上に転ずれば待絶になる・と言われますが……。

<待絶>は「待対を絶する」という事で、相待・絶待・共に絶する。解(理解)の分域を断って行へ進む事です。「待対」というのは要するに・取捨の必要から<相依りながら成立し合っているものを較べる>という事、比較判断です。

その比較判断を絶した行業の領域が待絶です。絶得で理論上これ以上比較する必要の方は無くなったが、まだ修行に使う方の用事は残っている。その<使用>が待絶という事になります。絶待は教での面・待絶は行での面・という事です。同ながら違い目も有ります。

両者は違ってもいないし・又違ってもいて不一不異。でなければ亦違亦同。教が行と別の事を教えたら教ではないし、行が教と同じなら行は無用、違うなら非行……。

待絶は「待対既に絶す、即ち有為に非ず、四句(四句分別)を以って思うべからず故に言説の道に非ず心識の行に非ず(『止観』)ですから、絶待を本来の全体無制約無分別界の不可思議妙境へ引戻して捉えた法体・の修行を指す言葉です。例えば止観行を「不思議十乗十境待絶滅絶寂照の行」(『弘決』)という風に表現しています。

絶待と待絶とはその法体は同じ一つのものですが、解の面から眺めれば絶待、行の面から捉えれば待絶、こういう違い目が出て来ます。両者は勝劣しております。智解よりも事行の方が勝れます。妙解を開いて妙行が立つ訳です。「慧は行を浄くし・行は慧を進め」「一体の二手が更互に揩摩するが如く」(『止観』)修行して参ります。

(8)円融三諦しか無い――破立・遮照・中道――現量・比重・思量

次に<破立>と<遮照>との問題に移りますが、これは仮空中の間の関係を明らかにする操作であり、これによって即仮即空即中の筋道が正当である事が示される・という事ですが……。

<破立>は・破ると立てる。<遮照>と似ています。ほぼ同じです。仮空中の間の関係を明らかにする事でもあるし、真俗・九仏(九界と仏界)の関係を明らかにして、俗から真へ・九界から仏界へ・の道筋を明らかにする事でもあります。

遮照ですと、遮はさえぎる・照は照らし出す。遮は、仮なら仮が、その儘では道理上不都合だから・都合が好い局面へ導く為に一旦遮る。照は、不都合でも何でも・その様に在るものは在るのだから、在るべき位置を与えて明らかに在らしめ、その儘照らし出す。大体そういう操作です。破立も遮照も反省操作でして概念操作ではありません。

破立の破と遮照の遮とは否定的な一面、立と照とは肯定的な一面ですね。仮に就いて破立・遮照、空に就いて破立・遮照、中に就いても爾前の中は破立・遮照。

破と遮とは悟りを求めて世俗・九界から真諦・仏界へ進んで往く方向で、これは自行。立と照とは自行でもあり・又・真諦仏界から他を化導する目的で再び体内の世俗九界へ還って来る方向で、これは化他。これが空仮中について、次方・不次方・円融三諦にも多様に使われるのでしょう。

「(衆生は)深く虚妄の法に著して堅く受けて捨つ可からず……是くの如き人は度し難し」(『法華経』方便品)。これは衆生個人個人の迷惑(人に迷惑を掛ける事ではない、自分が迷い惑う事)を指摘して執著を遮っている訳です。

この様に、遮というのは、結局、断常の二見を遮るのですけれども、纏めて言えば俗諦を遮るのです。

現われても見えなければ仕方が無い。見える・ということが大切なのですね。

照というのは、俗諦も悟って用いれば有効なり・と仏界の慧光で照らし出して肯定する訳です。だから遮は否定(反省否定)の働き、照はその否定を経た上での肯定(再反省肯定)の働きです。すると自動的に建立が成就する事になります。これが破立の立。

仏界から照らせば真実が出て来る。断見はこれこれかくの如く間違っている・というその真実が出て来る。常見はこれこれかくの如く善くないものである・というそういう真実の姿が出て来ます。自行の反省自覚も照立、化他の用教においても照立です。

してみると、まず仮について虚妄の仮・破・遮・という事は連動していて、一連に何事かを指示している・という事になります。建立の仮・立・照・という事も同様です。この辺を整理してみたい・と思います。

まず、悟り・としての<諦>ですが、これは梵語の<サトヤ>を漢訳したもので、<諦理・真理・理性(りしょう)>などと訳されていますが、これは或る意味で正確さを欠いています。というのは、外道・仏法を問わず・インドの思考の常道では<事態>と<真理>とを分けないのです。

寧ろ<分ける事を拒否>するのです。そこで<事態>そのものが<真理>で・又逆に・<真理>と言えばその儘<事態>を指し、事態即真理・真理即事態・という事です。<諦>はこういう用法での真理であり悟りなのです。<法>という語の使い方の場合と同じだったのです。

諦も又法ですから、その事は容易に納得出来る・と思います。

そこで<世間で人々の為に施設された世法の悟り・真理><世間の仮名の真法を認める>のが<俗諦>で、つまりは<比量>(推理知識)が俗諦になります。<出世間の人に悟られた悟り・真理><一切法無生・空仮中なり・と体得された悟り・真理>が<真諦>で、つまりは<仏様の思量>(反省知識)>が真諦になります。

してみると、直接判断は単に主語存在を措定しただけですから、<現量>・(感覚知識)はその儘では俗諦でも真諦でもなくて、只の<虚妄の仮>と呼ばれて<諦>とは申しません。これには真理性が無いからです。

俗諦は世間の<認められた真法・施設された叙述法>ならば、これは三人称世界での・事物認識の路線・での話になりますから、比量が俗諦になる・という話である事は判りました。仮令一・二人称でもそうです。

そして、現量と共にこの比量つまり俗諦も又・仏法では<虚妄の仮>なのです。

真諦は<出世間の人に悟られ体験された真理>なら、これは三人称の事物認識ではなくなります。一人称世界での<反省体得>ですから、言語道(論理)や心行所(概念操作)ではなくて、反省自覚された<事法>です。つまり菩薩界・仏界における<思量>が真諦の内容になる・という話である事も判りました。菩薩のは・與えて言えば・の事です。

現量は本来・一人称のものですが、すぐ三人称世界へ置き替えが出来ます。比量は三人称のものですが、現量と共に一人称界へ引戻して、一人称の境法つまり一人称の主語存在・として取扱えます。ここが虚妄の仮になります。

虚妄の仮に対しては建立の仮が真諦に当る事は、以上の事から容易に推察が付きます。俗諦の比量は三人称世界での事、真諦の思量は一人称世界での事。一般にはここの点が混同されて、議論を判らないものにしてしまっております。

誰のものにせよ、直かにぶち当たった縁起仮有の現量仮は、その人の直接把握によった・眼・耳・鼻・舌・身・での感覚知つまり直接知識ですから、その儘<悟り>としての<諦>ではありません。俗諦でさえありません。デカルトが言う様に「感覚は信用出来ない」のです。これは何処迄も虚妄の仮で、六道九界に属しているにすぎません。

だから、真を求める為に、破とか遮(双遮)とかの反省操作を加えて捉え直す必要が有る訳ですね。

そこで、二重に否定し更にその上に二重に肯定する・という反省操作――これは思考での概念操作とは全く異なる――を加える訳です。「現量仮は有(肯定)にも非ず無(否定)にも非ず空なり」、更にもう一歩進めて「その仮と空とは無にして有なり中なり」と<思量>(反省知識・反省の事)する訳です。

そうすると<立・照>という事で建立仮に変ります。これが仏法の<諦>です。真諦の諦は仏界にのみ属しています。ですから円融三諦の仮は<仮諦>と諦の字が付いて、九界の虚妄仮とは全く違う訳です。仏界の思量仮でないと仮諦ではないのです。これが<建立の仮>す。

縁起仮有の現量仮は信用出来ない感覚知で虚妄の仮であり、仏界から反省された立・照の思量仮でないと悟りではない、仏法の諦ではない、仮諦は仏様の思量仮つまり建立仮に限る・という話でしたが、ここでの<思量>という用語は能く聞きますが、・<現量><比量>という用語は聞き慣れません。これらはどういう事でしょうか。

現量は感覚知識・比量は推理知識・思量は反省知識――知識は判断でも好い――という事で既に申し上げた通りですが、問題は<量>という事でしょう。

<量>というのは・計る・測る・謀る・等に通ずる用語で、直接には<はかる>と読んでいます。意味も正に読んだ通りで<はかる>という事です。有形無形の万端の事物事象に亘って・測り得るものは全て<はかる>・それが量(プラマーナ)です。量論はインド哲学一般(含・仏法)での大問題なのです。

<はかれ>ば大小・多少の具合が決まりますから、測った対象に連れて量の内容が鮮明になり、そこから<量>に色々な概念が付いて来る事になります。人物の才能を計れば「あの人物は器量者だ」という風に使います。この<量>という語は・仏法でも仲々大切な用語なのです。仮名だからといって軽視する訳には参りません。

今では美人を「器量好し」と言います。これは用語が俗化してしまった訳ですね。推量や思量は能く耳にします。これらは知識に関しての用語になっておりますが……。

熟語は色々在ります。思付く儘挙げてみますと「予少量為りと雖も忝くも大乗を学す」(立正安国論)。「諸法は現量に如(し)かず」(真言見開)。「(声聞衆は)思を尽くして共に度量(たくりょう)すとも仏智を測ること能(あた)わじ」「咸(ことごと)く皆共に思量すとも仏智を知ること能わじ」「是の法は(声聞の)思量分別の能く解する所に非ず」(以上三・『法華経』方便品)。「心が籌量(ちゅうりょう)するを名づけて意となす」(『止観』)。

「寿量とは諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云う」(『文句』)。「此れ即ち不可なり……何(いか)に為(せ)ん何に為ん学者思量せよ」(末法相応抄)。「不思議円満……諸(もろもろ)の情量を絶して亦三千三観並びに寂照等の相無く大分の深義本来不可思議なるが故に名づけて蓮と為すなり」(十八円抄)。「(禅宗は)己が情量に著し封ぜらる所をば知らざるなり」(諸宗問答抄)。「諸人は推量も候へ」(教行証御書)。その他沢山在ります。

度量(たくりょう)は今では「度量(どりょう)が大きい、度量が狭い」などと使われています。情量はフィーリングで得た知識の事でしょうが、今では使われていません。現量は法に就いての感覚知識・直接知識・という事でした。思量は沈思量知で反省を意味する・という話が前(序章)で在りました。反省判断・反省知識・という事でした。

<量>は計る・考え分ける・明らかにする・調べる・つまびらかにする・みつる・いっぱいになる・等々ですが、調べて計って考え分けて明らかにつまびらかにするから知識が得られます。測る操作つまり<量>が<知識源>になる訳です。

この知識源としての<量>が仏法に登場して来る訳です。「得意とは……不思議円融三観……聖智の自受用の徳(反省智徳)を以って量知すべき故に」(十八円抄)と言う様に、円融三諦は自受用の円融三観の智徳で量知する以外にありません。この智徳知は推理知(推量・比量)ではなく、内観知・反省知つまり思量の知識なのです。思量量知なのです。

量という事や現量・思量の方は判りました。然し<比量>は仏典に出て来ない様に思います。今の所・経典等に見当りません。

比量が仏典に無いのは、仏法は推理推論を排するからでしょう。思考推理知の方は論理操作つまり概念操作で、これは<比量>と呼ばれ、経典には無いかも知れませんが、現量と比量とはインド論理学である<因明>に出て来ます。唯識派では「現量とは対境を無分別に量知する事」と言っており、これは一人称の立場で現量です。これから三人称の現量が登場する訳です。「諸法は現量に如かず」(諸法を知るにはまず現量が最優先する)は、この<法の無分別量知>による直接知識を指している訳です。

この現量から比量と思量とが得られます。比量からも思量が得られます。更に比量と思量とは、境法の座に据え直して置くとメタ現量となり、再び我々の眼の前に現量化して現われます。<メタ>は<高次・高次元>という事です。経文に残された仏様の思想の文章などがその例です。

デカルトは「感覚は誤る、信用出来ない」と言ってその証明をしました。現量が感覚知ならば当然…その儘では信用出来ない事になりますが、理論ではなくて具体的に見て行きたい・と思います。

水を例にしてみても、喉が渇いた人には甘露です。この感覚は誤っておらず・信用出来る訳です。これがその人の現量です。満腹の人には無用の長物という現量になるでしょう。胃腸の重病人には毒薬でしょう。これが当人の現量というものです。

科学者がH2Oと見たらこれは比量です。反省知である思量はもう少し高度な事になります。それには<沙羅の四見>などが適例でしょう。

沙羅の四見とは、釈尊入涅槃の沙羅林を、或る人は凡聖同居土と見・或る人は方便土と見・或る人は実報土と見・或る人(仏)は寂光土と見た・という話ですが……。

これを現量で見たら只の林でしかなく、同居でも方便でも実報でも寂光でもない訳です。ところが見る人の境涯が凡夫か二乗か菩薩か仏かに連れて、同居・方便・実報・寂光と、実際の生活関係が違って来ます。これは各々の思量が違ったからです。各人の反省把握が違っている……これが思量というものです。

ですから、仏法に無縁な人が如何に現量を比量しようと思量しようと、出て来るものは諸行無常の仮(現量)と科学的な仮法(比量)ばかり、つまりは虚妄の仮しか得られません。これは決して<眞諦><仮諦>ではないのです。

能く凡身その儘仮諦であるかの様な本覚論者の説を見掛けますが、これは決定的な誤りです。衆生の凡身を仏様が見れば仮諦ではあっても、他人に取っては・そして当人に取っては、唯の虚妄の仮でしかないのです。ましてや空諦・中諦は思いもよらない事です。

(9)科学的形而上学的存在論の乞食スープ

或る記事に「三諦の法理はあらゆる存在・事物に具わっている不変の真理ですが」という書き出しで

「水には”湿り”という性質があり、温度によって変化するという力用(りきゆう)があります。こうした性質は空諦といえましょう。この水はある時には固体の氷になり、また気体の水蒸気になったりもします。そのような具体的な姿形が仮諦です。しかし、姿形は変わってもH2Oという水の本体は変わりがありません。それが中諦といえます。人間の場合においても、Aという人がいて、年齢とともに姿形が変わっていくでしょう。その変わる姿が仮諦であり、AにはAとしての性質や知恵があり、それが空諦。更に三歳の時のAも、四十歳の時のAも、一人のAであることに変わりはありません。このAという人間そのものが中諦といえます」

というのが在りました。これはどうですか。観と諦との相依を無視して、観を除外した諦を説いた・としか見えませんが……。

これは何とも無茶苦茶でとんでもない破仏法です。この記事が述べた所は全部・推理でしかない比量つまり世俗の分別で、然も偽分別・虚偽にすぎず、俗諦にもならないヴイカルパ(妄分別)でしかありません。仏法には縁も所縁(ゆかり)も全く無い根底から誤った見解です。

科学知識と形而上学的存在論で三諦を手前勝手に解釈したからこうなったのです。摧尊入卑の大謗法です。「仏誡めて云く、謗法の人を見て其の失を顕わさざれば仏弟子に非ずと」と言われております。この破仏法解釈はとんでもない謗法です。大非法です。

三諦の法理は「あらゆる存在・事物に具わっている法理」などではありません。そんな客観上の「不変の真理」などではありません。これでは三諦は<己心の法>ではなくて<他心の法>ではありませんか。

三諦の理が存在・事物に具わっているものならば科学のカで見出せる筈です。そうならば製薬会社で”三諦の素”でも造って売りに出したら好いでしょう。挙会社の株価がピンと跳ね上る事・請合です。これでは仏法無用・修行無用・反省無用です。

存在・事物に具わっているのは常に比量法理ばかりで、だから科学で見出せるのです。自分の勝手な情量に頼って三諦法理を客覿し、そして諦を事物側に寄せて考えている事こそ決定的な迷い・邪見なのです。三諦は智法です。境法ではありません。

三諦が存在・事物側に具わっているならば、前の沙羅林の実報土・寂光土性そしてその相を・誰でも客観的に実験証明出来る筈です。その性相は比量な筈ですから出来る筈です。ところがどんな科学者でもこれは原理上不可能です。というのは、寂光土や三諦は思量であって比量ではないからです。伝教大師が言う様に「諸(もろもろ)の情量を絶せよ」です。真諦は人智の側にしか無いのです。

三観三諦について観は因行・諦は果徳ですから、行修の人にしか三諦は得られませんね。その行修の人だけが存在・事物について三諦を得られ、いわばその人が攝取した事物・存在が<その人に対してだけ>三諦を現わし・その己心に現われている訳です。この記事のこの手の論法を流行らせるのは大変な誤りを広める事になる・と思います。

水の湿りは現量で、湿りという性質は比量です。湿り具合も比量です。固体・気体・液体は現量です。H2Oという本体――これはHとOとの縁起仮有の状態つまり<佇(たたず)まい>であって<本体>ではない――は比量です。こうした現量や比量が、虚妄の仮でこそあれ、どうして空諦・仮諦・中諦なのか。書いた本人が何も解っていない証拠だ・としか言えません。

Aという人がいて……これは現量です。年齢と共に変わっていく姿……は比量です。Aとしての性質や知恵……は性質や知恵の自己同一にすぎません。やはり比量です。単なる普遍です。空性ではあっても決して空諦ではありません。

大体、人の性質や知恵は、自性が無いものであって、年と共に縁起無常で必ず変って行くものです。<Aとしての性質や知恵>などという<一個人に属する独特なもの>――これでは自性だ――などは在り得る筈が無いのです。自性では中はおろか空にもなり得ません。

これはギリシャ存在論の<実体と本質と属性>という在りもしない虚妄な思考に騙されているからそう考えるのです。それへ自分の科学知識をこね雑ぜ合わせたから、こういう解釈になってしまったのです。こういうのを・折衷主義の乞食スープ(レーニン)・と言うのです。

三歳のA・四十歳のAは現量です。歳を貫く一人のAは時間軸上の普遍で比量です。やはりA個人の<存在としての自己同一>にすぎす、これは空法であって断じて中諦ではありません。比量は俗諦にすぎず、真諦ではありません。凡人が凡夫一般について幾らそんな事柄を推理し叙述しても、仮諦も空諦も況んや中諦など、出て来る訳が有りません。

凡人の思量でさえ出て来ない三諦なのに、どうして現量や比量(俗諦)を直指して三諦(真諦)だ・と言えますか。それならば禅宗の「直指人心見性成仏」の方が、この記事の論よりも余程益しだ・という事になってしまいます。心性を比量して見る点では全く同じではありませんか。この論は禅天魔にも増した大妄語です。見惑の極です。

筆者はこの記事に自信を持っていない筈です。まず自分が知りもしない癖に、三諦論を安直に現代風にアレンジ(整理)し・科学論化して人に解らせようなどと、浅はかに思い上がって考えるから、こういう大邪見の記事になってしまうのです。全く以って良い所・正しい所は一箇所も在りません。大非法の極です。こういうのを六師外道見と言うのです。

この記事についての事は判りましたが、どうしてこういう事になってしまうのでしょうか。自分の才を頼んだのか、勉強不足から来たのか、仏法を軽く考えて取扱った為か、周りの教えて呉れる人がそう教えた為か……。事情は色々存る・とは思いますが……。

教えた師匠が悪い事は言う迄もありません。条件は色々在った・と思います。その中で一番基本となる条件は、身を以って反省修習していない・という一点に集中する・と思います。仏法の<三学>の<学>は<修習>です。これに身が入っていないからです。修行への態度が逆様なのです。

<修行>で<実存>を得ずしてどうして<事法>の<形而下世界>の<真>(仮)が得られますか。事法の形而下世界の真を得ずしてどうして<形而上世界>の<理法>(空)が解りますか。況んやどうして反省事理法(中)が解りますか。所詮この人は無反省で・自分自身と戦っていないのです。

年が若かろうと何だろうと、真に<理法>が解るのは、正しい<修行>を正しく真実真剣に実践して・なにがしかの<実存>を得ているからです。これが「剣豪の修行を思わせる厳格なる鍛錬」というものです。我々でも誰でもそうです。竜樹・天台・皆然りです。そしてその為に憎まれ煙たがられるのです。

現量や比量の仮は全て虚妄の仮・という事でした。こうした現量や比量――比量はメタ現量となる――を再々思量した出世間の思量仮でないと建立の仮ではない。これが仮諦であって、虚妄現量仮(含・比量仮)は仮諦ではない・という事は明らかになった・と思います。

<量>の理解が大切である事は判りました。これらの量知とか推量の様に<量>の付く用語は明治期迄は沢山使われていた様です。今でもその一部は結構残って日常使用されております。俗化してしまったのもあります。

寿量・無量・現量・籌量・推量・詮量・比量・思量・情量・器量・度量・測量・計量・局量・酌量・裁量・などと沢山在りますが、この<裁量>というのは「或る分別や反省について、自分の考え通りに判断を決めて処置する事」を言います。能く出て来る「裁量権」などと言うのがこれです。

人は法(現量)に当面すれば当然何等かの対応をしなければなりません。処置に迫られます。そして、現量(虚妄仮)はその儘では信用出来ませんから再び裁量し直さなければならず、それには計量上・比量と思量との二つ・つまり論理操作(推理・叙述判断)と反省判断との二筋道が在ります。そこで次の様になります。

但し以上は妙法を持(たも)っている人についての話です。妙法を持たなければこうはなりません。

「但己心の妙法を観ぜよ……若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」(立正観抄)です。観は推理ではありません。反照観察・と天台が述べている通りに<反省>の事です。反照は推論ではありません。

ですから「十如是事」では・本覚の視点からは相性体の三如是が三諦である事・をまず挙げて「かう解(さと)り明らかに観ずれば此の身頓(やが)て今生の中に本覚の如来を顕わし即身成仏とはいはるるなり」と締括って示しておられます。<観>が条件です。

三観三諦は『止観』に示した止観行で、天台の説己心中所行法門です。立正観抄に「説己心中所に行法門……天台の所行の法門は法華経なるが故に」とございます。

前表について、立行量知は、仏智つまり無上智慧の無分別智という自受用般若の智徳で体得知された自覚知ですから、虚妄の仮であった現量諸法を種(因)として、思量仮つまり建立仮という仮諦が会得(果)される訳です。修行因果で得る訳です。

ですから妙法を持(たも)たない己心など、幾ら観じても、所詮・出て来るものは流転の六道だけ……つまりは消化不良の現量諸法虚妄仮か、せいぜい俗諦の比量仮(これも虚妄仮)ばかりで、仮諦は絶対に出て参りません。前出所載記事に騙されてはなりません。

(10)反省自覚の筋道――縦型縁起法

本覚論に立ちさえすれば、仮であれば何でも仮諦・であるかの様な立論は根底から誤っている訳ですね。そうした議論が流行しているのは困った事です。

反省する所行妙法の己心にしか仮諦は得意されないのですから、結論を主張として冒頭に掲げて「我が身の色形に顕れたる相を仮諦と云う」(十如是事)と述べられていても、これはまず<條件>を挙げたのでして、「妙法を持った我が身の相」でないと金輪際<仮諦>とは言えません。既に持っている弟子檀那への御教示なので<受持妙法>という條件項が前提文面ではまだ示されていなかったのです。すぐその後の締括りの文で示されていたのです。

一般の衆生身については、本覚の視点からと雖も、可能態としての理在以上には出ないのですから、気を付けなければなりません。仏身と衆生身とは生活背景が全く違います。貴方も努力次第で金持になれるのですぞ・と言われても、貧乏人はまだやはり貧乏人の儘である様なものです。

金持ちを目指す努力でさえも大きな障害・困難が伴います。まして仏道修行では比較にならない困難が有ります。

この表の智目行足について「智目行足清冷池に到る」(『玄義』)と言われ、解行について「解行既に勤むれば三障四魔紛然…として競い起こる」(『止観』)が言われている様に、実際に仮諦という<諦>を得るのは実に容易な事ではないのです。それは「受くるは易く持つは難し」だからです。

俗諦にすぎない虚妄仮・と仮諦である真諦の建立仮・との関係は大体明らかになった・と思います。現量・比量・思量・の視点から度量(たくりょう)仕直したのは良かった・と思います。

曽谷入道殿御返事に「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり、然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」

とございます。御本尊は確かに紙と墨文字です。誰が見てもこの現量は同じ筈です。比量を推量してみても・題目と十界の列衆の個々の意味しか得られません。この比量も万人共通でしょう。以上が虚妄仮です。

然し思量においてはがらりと変ってしまいます。二乗は理空存在と見、菩薩は無量の法門と見、我々には三秘總在の無量不可思議妙法とは見えても、教えられてはいるものの、直かに元初無作三身如来様とは見えません。そこが浅ましさで凡夫の思量の限界です。

ところが、仏様の思量では確かに元初無作自受用報身如来と御覧の筈です。ここが思量仮の仮諦です。この様に仏界において建立して、化他の為に我々に示された所を建立仮・と言うのです。だからこそ仮諦という<諦>なのです。

仮を何でも彼でも皆・仮諦扱いにする乱暴は、竜樹や天台等には全く無いし、三世諸仏に背く事です。これこそ破られ双遮されなければなりません。勝手な情量で捩じ曲げてはなりません。

照の面についてはまだ本当に明らかにされた・とは言えない様ですが、とにかく仮諦についての肝心な話は済んだ・と思います。俗諦についての遮照は、今迄は主に仮についての遮照でした。次に空へ移りたいと思います。空についての遮照は……。

空についての遮は、まず、空に著し留まる所を遮ります。これは行道での遮です。教法の上では・小乗の析空や権大乗の体空などの単空及び実教の空に思想が留まる所を遮り、一旦遮った上で、法華の円融中道のものとして更生させる所が照らし出した所です。

教道では・般若部の十八大空という相待空やそれを超えた純空相の絶待空を・単空の儘では在らしめない・それを基本原理としては認めない、悟道(行道)では・空悟に著して留まるな・と戒める、そこが遮です。円融中道の体内のものとして認める所が照です。

一般に八万法蔵の全ての仮空に亘って、一度それを遮る事をしないと・照らし出す事は出来ないのです。体外の爾前の仮空を遮して、遮を通じて法華実教の体内の仮空として照らし出して生かす。行道面では・仮を反省して空を得た儘で終るのではなく、もっと進んで中へ達してそこから振返る。中から再度・仮空を照らし出して見る。そこで遮照絶待は、遮照を経て絶待を得る・という事になります。仮も空も中と一体化して絶待の仮空になります。

仮空の仮について破空立有、空について破有立空・と在り、更にその各々について破立絶待・と在りますが……。

天台教学のなか・特に『止観』のなかでそう言っています。これは円融三諦に達しよう・とする場合に・兎角・概念した事の反省操作の上で陥り易い執著点を切捨てている操作なのです。これは、まず立空(破有)の方から先に考え、次に破空を考えれば判ります。

<空を立てる>という事は・悟りを立てる事です。俗諦から抜け出し(破有)て真諦を立て(立空)る事です。その為には、俗諦の諸々の実有の思い・を破さなくてはなりません。この破立を正しく心得れば、そこに絶待と待絶との中道が現われる・と・こうなって参ります。

『速証仏位集』のなかで天親の『仏性論』を解釈した文に「一切の法無我の中において有我の執をなすを虚妄執と名づく」と在るでしょう。それがこれ(破有)に当ります。その虚妄の執を破するのです。虚妄事に対する執著心を捨てるのです。この有我の有と実有の有とは同じものです。空を立て、その空の力に依って有我・実有の<思い>の執を破る訳です。

有を破するから空が現われるのではありません。闇雲に破ったとて空が現前する事など有得ません。これでは逆です。空に依るから有を破る事が出来るのです。破する・と言っても破る道具が無くてはいけないでしょう。そのオルガノンこそ正に反省否定で、有に非ず無に非ず(非有非無)と二重に反省否定する事が空ずる事なのです。遮遣成立です。遣蕩成立です。

有を空じれば自ずと空が立ちます。確立します。この様にして破立が正しく使われて空に寂せられなければ中道が現われます。この中道は有にも動ぜられず空にも寂せられない・非仮非空・亦空亦仮の円融中道です。

そこ迄が破有立空・即ち仮→空→中への道順ですね。求道の自行面……。

それを踏まえて、今度は破空立有つまり中→空→仮への道順を考えるのが順序になります。これは自行であると共に衆生済度の為の化他面です。

求道の自行に由って悟って中道の立場に立てば、今度は化導の為にもう一度立還って有(仮)を立てなければならない。言説の世界を立て、説法しなければいけない。立てた有は言説・理論・仮名・仮設で、不可説を可説化するのですね。

その有(仮)は最早仏法哲理です。仮諦です。それは空ではないのか・と思うかもしれませんが、空なる儘の仮諦なのです。心法所具の仮諦です。立証は省略します。言説で言えば元来は純世俗や俗諦の言説ですけれども・真諦化して立てるのです。立仮・立有。

そうする事によって、自分一人が悟りの世界に安住している態度を自ら破するのです。自分一人が安住していれば、独覚二乗と同じで、それはエゴイズムで空病ですから、空のそういう間違った使用法を自分で破る訳です。自分で破るから自行です。

別の側面から言えば、但空の立場・析空・体空の立場を破るのです。これが中を用いた破空。そして立有。この様に破立を正しく用いれば、仮諦即絶待中道なり・となります。空諦即絶待中道の場合も同じ事です。

その局面が・即仮即空即中・と言われる所ですね。結局、一諦も三諦なり・で円融三諦ですが、以上は『止観』の解の章で述べられてはいますが、元々は正観立行の問題として扱われている・と思います。

その後に中空仮と言って、中について又・但中・不担中等の破立を立てます。更にその上で、破立絶待・成すべき破立は皆済んだ・済めば照らし出された待絶の無分別行だけだ……となります。

これが遮照中道です。天台というお方は、徹底的に分析手法で以ってこまごまと述べ立てております。本当に頭が良過ぎて追(つ)いて行けない感じです。

それはそうでしょう。章安大師は『止観』の序・縁起項で『法門浩妙なり、天真独朗とやせん、藍よりしてしかもより青しとやせん」と賛嘆しております。

天台が行った<内観>とは、妙法を持った自己の内なるもの・つまり只今現前当面している<迷蒙なる我が刹那一念>を、己心の内において、他ならぬ自分自身が<観る>という事です。この<観る>は<見る>や<考えてみる>事とは違います。

その観る操作は、虚妄なる我が刹那一念の仮心を、これは九界なるが故に実有に非ず・肯定受容するに足らず、肯定受容するに足らずと雖も九界の故に実無にも非ず・完全否定するも当を得ず(以上・非有非無)と二重に反省否定し、更にその上に、その虚妄仮心は九界にして妙法仏界に非ず(無)と雖も、九界の虚妄を却けて反省建立した妙法受持の建立仮心には亦・妙法仏界有り(以上・亦無亦有)と二重に反省肯定するのです。

それが四句分別(後述)に依る反省操作なのですね。四句分別は智法……。

これが円頓の一心三観の因行。その行果が円融の三諦でして、これは反省→自覚→再反省→再自覚の操作になります。縦型四句反省の手続きです。始めの反省は双遮による無明の断破、次の再反省は双照による法性の照出。ですから円融三諦は円融無分別の双照三諦に他なりません。

真の<中道>とはこの事態を指している訳です。これが究極の第一義諦つまり円融頓悟道第一義諦です。釈尊が一代五十年の説法を通じて説いた究極の理の面はこれです。一切経の理面の終点はこれだったのです。双遮も双照も己心内の<九界待仏界>の関係を基軸にして、縦型縁起法で組上げた反省自覚の道筋だったのです。

三観三諦の<観>という事は仏法が決して境法ではなくて智法である事を能く示している・と思います。<反省自覚>という事も同様です。四句分別も同様です。

そうです。そして判断とか演繹とか帰納とか類推とか弁証や四句分別とか……つまり論理学論理全体も智法であって決して境法ではありません。他の諸科学は境法ですが、数学と論理学とは智法である点で仏法と共通しているのです。四句は中道へ通じ易いです。


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