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【まとめ】現代諸学と仏法~(序)第一原理考争②/Ⅰ仏法と論理学/2主語世界と述語世界と反省世界【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


2主語世界と述語世界と反省世界

(1)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その一

これまで私たちは、空仮中の三諦を「判断の繋辞(コプラ)」という観点から見てきました。つまり、主語と述語を統一する肯定または否定の「結合子(コプラ)」を考えてきました。今度は、言葉による分別表現の基本である「主語」と「述語」から、空仮中を探ってみたいと思います。

「分別」は「分ける」ことを意味しますが、その本質的な機能は「分ける」ことよりも「統一する」ことにあるのです。多様性を統一することで、分別は機能を果たします。しかし、分別が行き過ぎてバラバラになると、本来の「統一や調和」が壊れてしまうこともあります。例えば、現在の学校の試験制度は全人格・全能力を無視し、学力だけを評価するという問題を引き起こします。

この原則は仏教にも当てはまります。教えを分けて解釈すると、その一貫性が損なわれ、混乱が生じます。したがって、仏教もまた、「分けない主義」を採用し、法概念等を多様に用い、理解しようとしています。そして、「統一」こそが重要であると認識しています。

主語と述語の分別表現を掘り下げたいというのは、主語が明示されない場合、議論が虚論に陥ってしまうからです。この掘り下げを通じて、科学や論理学と比較した際の仏法の特色が明らかになるでしょう。

例えば、「諸法皆空=一切の仮有なる法はこれ全て空なる物事である」は、自己反省と自覚により得た悟りです。この自覚法は、論理学や因明の手法とは異なり、論理の規則に縛られません。しかし、その悟りを他人に伝えるためには、論理学に基づいた言い方をする必要があります。

仏法では、全ての法について、「内法」と「外法」という表現を用います。たとえば、五蘊の中で「色」は外法、「受想行識」は内法とされます。外法と内法はそれぞれ主語と述語の世界を構成し、それが生涯続きます。

記述や対話の主語世界は、全ての人に共通します。つまり、客観的な三人称世界を構成し、その主語と述語が記述により表されます。しかし、その主語世界は、個々の人にとっては、一人称のものであるときもあります。

したがって、記述や対話では、主語世界は初めから三人称のものとして設定する方が良いかもしれません。それは感覚が信頼できないからであり、人によって感覚が異なるため、修正を加えなければ主語世界にはなり得ません。

科学は観測対象を実体とみなし、物質やエネルギー不滅の原則を基本に研究を進めます。これは物事を三人称の観点から分析し、空間的に展開していくアプローチで、科学の世界観を形成します。

一方で、仏法は一人称の観点から物事を理解しようとします。主語世界(対象の世界)に対し、自覚的な述語(評価や解釈)の世界を展開します。科学が物事を「横」に展開するなら、仏法はそれを「縦」に展開します。これらは相互に補完する関係にあると言えます。

物や事象の多様性は主語世界の一部で、それぞれの人によって異なる知識や直接的な判断がなされます。この多様性は仏法では「己心の法」とされ、そのまま主語世界とされます。科学から見た仏法の主語世界は、一切法の世界、すなわちすべてが繋がり、仮有の現象世界とされます。

仏法では、主語世界に対し自覚的に反省することで、縦の統一世界を形成します。これは、客観的な物事を我々が認識し、それについての有無や性質を評価することである。だから、仏法では一切法はすべて「己心の法」とされます。

しかし、この理論はしばしば誤解され、「物は現実に存在するだろう」という反論を引き起こします。これは、主語の視点から物事を評価し続けているからで、仏法では反省述語の視点から物事を理解しようとします。それぞれの視点から理解しようとする試みを否定することは不適切で、大きな誤解と言えます。

(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二

文章の本質は、物事をどの視点から見るかによってその理解や解釈が変わる、という考え方です。特に、「己心の法」や「一人称世界」は個々の主観的な世界観を表しており、それは他人の視点からは理解しきれない部分があります。しかし、それらの観念を深く理解し、受け入れることは、日常生活や仏法の理解にとって重要であるとされています。

その一方で、物事を客観的に捉えることの重要性も強調されています。すなわち、他人や物事を外から見る認識の立場から、すべてはそれぞれが独自の存在であると認識することです。

子供の視点を例に出す部分では、視点が異なれば世界の捉え方も大きく変わるという事実を具体的に示しています。子供にとっての世界は大人にとってのそれとは全く異なるもので、それは人間一人一人が異なる視点、すなわち「窓口」を持っていることによるものです。

ただし、自己の視点だけに固執することは、個々人の成長を阻害し、問題を引き起こすこともあるとされています。その代わりに、自己の仮有(仮定した存在)に執着せず、それを否定し、受け入れることが大切だとされています。

最後の部分では、「空」の概念が物理的空間と関連付けられています。物理空間は物質的な要素がないが、それでも月や星などを収容する能力があるという特性を指しています。これは仏法の「空」の概念と似ており、物事の本質的な存在を理解する一つの方法として提示されています。

論理学では、「無」は「非有」を表しますが、仏教の智法(理解や認識の法)での「空」は純粋な「無」を指すわけではありません。「空」は一見「無」に見えるかもしれませんが、それは全てのものが絶えず変化し、一定の本質を持たないことを示しているのです。

仏法における「空」を理解するには、「智法」(内側からの観察、理解や認識)と「境法」(外側からの観察、物質的な実体)の両面から考える必要があります。私たちはつい、物事を「境法」だけから見てしまう傾向がありますが、実は「空」は「智法」の視点からも理解する必要があります。

私たちはつい物事を「存在する」と考える傾向がありますが、これは一種の誤解であり、それに対抗するためには「智法」の視点で「空」を理解する必要があります。「仮」「空」「中」という観点から物事を判断することは、「智法」に基づく判断であり、それはまた物質世界(「境法」)との関連性を通じて理解されるべきです。

一見すると、物事は存在しているように見えますが、それらは常に変化し、一定の本質を持たない、「仮有」の世界です。この「仮有」の世界への執着を手放すことで、心の自由が得られます。「空」の世界が基盤であり、その上に「仮有」の世界が存在すると理解することが重要です。しかし、私たちは日常生活の中で、「空」の世界の基盤を忘れて、「仮有」の世界だけに焦点を当ててしまいます。

私たちが本当の自由を得るためには、「空」の世界と「仮有」の世界が相互依存して存在していることを理解することが求められます。「空」の存在により「仮有」が存在し、「仮有」の存在により「空」が存在します。この相互依存関係は、物事が空間内に存在し、同時にその空間を形成している、地球の存在のように理解できます。

このような理解を深めることで、仏教の教え、特に般若部の教えを理解するための基礎が形成されます。般若部の教えは、すべてのものが本質的に「空」であり、一切のものが無実体無本質であることを強調します。この理解により、心の自由が得られ、自己束縛から解放されます。

(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道

一切法(すべての現象)を内法と外法という二つの視点から見ることと、それらがどのように統合されるかについて述べます。
最初に、我々はすべての法則を外法として認識し、主語としての世界を設定します。しかし、この主語世界が内法を含む述語世界として展開することで、外法も最終的に自己の心の法則に収束し、内法も外法もすべて一緒となり、内外の区別が消えます。

これは、アリストテレスが論理学の中で指摘した「主語と述語は入れ替わることができる」という考え方と似ています。つまり、外法も内法に変換でき、逆に内法も外法に変換できます。これらは相互に交流し、合体して真の実態を形成します。

外法は、自己の心の法則となるためには内法と呼応する必要があります。これは一時的な便宜上の分類であり、外法がその自体として存在するわけではありません。外法と内法の両方を認識し、それらが一致して真理に到達すると、最終的にはこれらは同一の法則であることが明らかになります。これが全ての法則の真相、すなわち「諸法実相」です。

また、自分自身を反省するとき、我々は「見る自分」と「見られる自分」の二つに分かれますが、実体としての世界を認識しているとき、この二分法は存在しません。反省する自覚は、「見られる自分」が過去の形状を持つ一方で、「見る自分」が現実の世界を開くという役割を持つことを意味します。

しかし、「見ている自分」については、それが実体であるかどうかを議論することはできません。議論を始めた瞬間に、それは過去のものとなり、対象化されます。これは、まるで生きているイカがスルメになるようなものです。

つまり、「見ている自分」は一切を超えた存在であり、それは「我」とも「我の心」とも言えない、描写不可能な存在となります。

物事の本質や人々の行動といった様々な法則の具体的な形や性質、因果関係などは、実際には記述不可能な存在です。天台学派はこの無記なる現在の自己を、「名前だけの心(行動する自己)」として見ています。つまり、自己という存在は名前に過ぎず、本質的な実体は存在しないと考えています。

自己観察を通じて、自己を見る視点と見られる視点の間には時間的な前後関係があるとされます。反省や思考を繰り返し行う中で、自己を見る視点は無限に遡行し、最終的には分別を失い、反省だけに頼った判断に至るとされます。

この観察の過程では、見られる自己が過去の自己、見る自己が現在の自己であるため、その間には時間的な矛盾が存在します。この反省は一つの存在を二つに分け、そして自己の反省には限界がないため、その過程で自己を捨て去るとされます。

この反省の過程では、主語の世界と述語の世界が融合し、それが中道となります。大般若経における「八不中道」は、その教えが空に焦点を当てているにも関わらず、「中道」を強調しています。これは仏教経典が中道から空を説くためです。

空、仮、中の値付けは、それぞれが他と一体であり、等価であるという円融三諦の真意に反するとされています。仮と空は見た目は全く違いますが、互いに無くてはならない存在であり、それぞれが中道を形成する必要条件となります。

思考の世界だけにとどまると、自己反省を止めることはできません。この問題を解決するためには、分別的な思考から、無分別な行動へと自身の立場を転換する必要があります。

仏道の修行は、言語論理や概念操作から離れ、行為を通じて思考を深め、知識を再評価することで悟りを得るとされます。これが人間の行為として可能な最終的な目標であり、仏道修行の中心とされています。

最終的に、現象を仮として認め、その実体性を空として否定し、そしてこれら二つを中道として肯定する考え方は、「解」という段階から「行」の段階へと進むことにより理解できるものとされています。

理論だけでは真の理解は得られず、行動と実践によって初めて解が完成するということが、「摩詞止観」の一部で強調されています。この法律を修行するには、心を一つにし、志を専らにしなければなりませんが、それでも様々な障害に遭遇することが示されています。

真の理解を得る保証は、その理解が検証されることによって得られます。理解が正しいかどうかを自己満足で保証しようとするのは成り立たず、「教えだけで行動や証明がない」状態になります。

それゆえに、物理法則は実験結果によって、仏法は行動による体験によって保証されます。特に個人の世界では、学問を理解したと感じても、それが実際に正しいかどうかは確認する方法がないため、その学説を実生活に適用し、その結果良い効果が現れたかどうかを検証することが必要です。

さらに、悟りの観点から見ると、三観(仮観、空観、中観)はそれぞれ独立しているわけではなく、円融三観の一部として成り立っています。そして、自己反省を繰り返し行うことで、次第に三観を自身の心に取り入れて行くことができます。

このように、仏法を尊ぶ人々は、自覚がなくても、反省を行いながらその道を歩んでおり、そこには実際の成長が見られます。

これまでは「三諦」が主題でしたが、これは悟りの結果です。一方、三観はその悟りを得るための努力であり、能動的なエネルギーそのものです。

さらに、一念三千を理解するためには、空観、仮観、中観が円融する過程を知ることが重要です。そして、最初は次第的に三観を行う形で始まり、それが反省を通じて一度に施す方法へと発展していきます。

これは天台学派の立場であり、この観法は難易度が高いため、我々が行うべきではないかもしれません。しかし、その理論的な筋道を知ることは重要です。

双遮の立場と双照の立場では違いが見られますが、天台学派は常に照らしている立場から話しています。そして、竜樹は双遮を用いて法を説き、天台は双照の立場から止観を述べています。

しかし、二人の主張が異なって見えるのは表面的なもので、その内容は実際には同じです。そのため、教相の優劣を議論することは意義があまりありません。『般若』と『法華』という二つの教義の違いは、それぞれの時代背景によるものです。

(4)主語・述語と五蘊説

五蘊とは、「色」「受」「想」「行」「識」の五つの要素で、存在のあり方を表す概念です。釈尊の原初の教えによれば、これらは主語と述語、物と心、内と外を区別しない全体的な有り方を示しています。現代的に言えば、「物が存在する」というのは、「物が我々の認識によって存在する」という意味であり、それは我々が反省的に物を認識するという要素があるからです。

しかし、アビダルマ(仏教教理の体系化を試みた文献群)では、色を外的・客体的な存在、受想行識を内的・主観的な認識として分けるという考え方が支配的になりました。これは特に現代の合理主義的な視点からは理解しやすいかもしれませんが、それは五蘊説を特殊な局面に限定し、矮小化してしまったとも言えます。

釈尊の本来の教えでは、内外、主観・客体の区別を作ることは便宜的なもので、それを永続的に固定化すべきではありません。五蘊は存在と認識、客体と主観を一体化する概念であり、その全体性が現実の事象を理解するキーです。

五蘊はすべての存在を形成し、迷いや悟り、苦楽などあらゆる経験を生み出します。しかし、物質(色)と心的な要素(受想行識)の相違は無視できません。このため、それらを客体的な存在と主観的な認識として二分する解釈が生まれ、アビダルマにおいて支配的になってきました。

しかし、そのような分け方自体は間違いではないが、釈尊の五蘊説は「分けたら元に戻す」が基本で、主語と述語、物と心は一体であり、それを全体として把握することが重要です。この原則を無視し、五蘊説を特殊な局面に限定して解釈すると、五蘊説の本来の意味から離れてしまいます。

五蘊説は自然界の存在法をも表していますが、それだけに留まらず、分けたら元の一体性に戻すべきです。このような視点からすれば、アビダルマが提唱する五蘊説の理解は釈尊の真意から離れてしまっています。この解釈は特定の局面に五蘊説を矮小化してしまうという意味で、アビダルマ的な解釈は仏教の教えから逸脱するものであると言えます。

最後に、「受」は、色(見られたもの)が認識(識)に包まれて現れるという現象を示しています。これを反省的に分析すると、色が主語として、認識が述語として出てくると解釈できます。しかし、これは時間的な前後関係を示すものではなく、色と認識という二つの要素が一体となって存在を形成していることを示すものであると理解すべきです。

五蘊は、我々の現前の一瞬一瞬の行動や認識を示す仮名で、それらが時間的な前後関係ではなく、論理的な前後関係を持つことを示します。しかし、完全に論理的な説明に頼ると循環論理に陥る可能性があり、理論だけではなく実践的な世界に移る必要があります。

五蘊説の根本は無我の教えであり、それは誰が経験や認識を持つのかという疑問を超え、「何の因果関係により経験や認識が生まれるのか」に焦点を当てるべきとするものです。つまり、個人の主観的な視点よりも、普遍的な視点から事象を理解するべきとするものです。

無我の教えは、自我や物事の実体を否定するだけでなく、全ての事象が互いに関連しあって生じる「縁起」の視点を提唱しています。そして、それは「私が物事を見る」という主観的な視点から「何の因果関係により物事が見えるのか」という客観的な視点へと視野を広げることを求めています。

無我の教えが誤解される可能性がありますが、それは実体としての我を否定するものであって、私たちが日常生活で経験する「私」という存在自体を否定するものではありません。「私」というのは、一貫性のある実体ではなく、瞬間的で断片的な存在であり、特定の状況に応じて生じるものです。

そして、それらの瞬間的な「私」をつなげて一貫性のある「私」を想定することは、無根拠なドグマになる可能性があります。それに代わり、「何の因縁により物事が見えるのか」という客観的な視点から物事を理解するべきというのが無我の教えの本質です。

(5)主述分離への終局的な問い

五蘊説は、単なる現実の知識ではなく、私たち自身の内なる世界を理解する枠組みです。私たちが経験する事象は全て五蘊(形、感覚、認識、行為、識)によって生み出されます。

私たちが外界の事象を理解するのは容易ですが、自己の思考や感情を五蘊を通じて理解するのは困難です。しかし、この困難性が自己省察の重要性を強調します。

五蘊に基づいて私たちが理解する現実は、単なる客観的事実ではありません。例えば、"美しい桜の花が咲いている"と認識した時、それは私たちの感情、感性、価値観などが組み込まれた主観的な認識です。これは、五蘊説が単なる乾燥した理論ではなく、物事の存在や認識の方法を包括的に表すことを示しています。

私たちが事象を理解するとき、それは一人称(私)、二人称(あなた)、三人称(それ)の視点からなされます。これは私たちの自覚、価値観、認識を構築する過程であり、五蘊説はこれらすべてを包含します。

五蘊説によって私たちが把握する現実は、すべてが無常であるという仏法の教えと一致します。しかし、この無常さ自体には一定のパターンが存在し、それが常に存在しています。

アリストテレスの「実体と本質」の議論を考えると、私たちは事物の実体(主語側)を容易に理解できますが、本質を理解するには述語側(心の側)の要素が必要です。これは五蘊説の「受・想・行」による知覚のプロセスを示しています。

結局のところ、五蘊説は単に事物の存在や知識を分析するための理論ではなく、私たち自身と世界との関係性を理解するための包括的な枠組みを提供します。

私たちは時として、物事を判断する際に、主語と述語を分ける基本的なルールに頼ります。これは、ある一面から事物を見ているかのような状況を生み出し、矛盾を引き起こします。これらの矛盾は必ずしも事物の本質が存在しないから起こるものではありません。それはむしろ、私たちが主語と述語を分ける、この基本的な判断の方法自体が問われているのです。

しかし、それらの分け方が、果たしてどこまで妥当なのか、また不妥当なのかという問いには、ある一定の理由が存在します。そして、この問いが繰り返し問われる過程が、実は私たち自身が成長し、自己を超える道筋になるのです。この過程を天台は「絶言」と表現し、これが自己の成長や悟りへの道となると説いています。

さて、次に悟りを人に説くとき、私たちは論理の不完全さを承知の上で、論理規則に従って法を説きます。これにより、私たちは分別を徹底し、その矛盾を踏み台として無分別へと踏み込みます。そして、その無分別な境地から主語と述語の分別という行為を照らし出す立場が出てきます。この過程を通じて、私たちは新たな知識や理解を得ることができます。

また、私たちがどこで、どのように迷ったかも、歴史を通じて明らかになります。しかしながら、時代が変わっても、同じ道筋で迷うことがあるという事実は、非常に興味深いものです。

このような状況は、過去の六師外道や後期アビダルマ、そして私たち現代人といった異なる時代の人々でも見られます。それぞれが独自の道を歩む中で、主語主義に引き込まれてしまうという共通の誤りがあります。

ここで考えるべきは、私たちが物事を考える際に、一見すると大きく異なるように見える私たちと過去の人々の間に、意外にも共通の問題が存在することです。これは、私たちは主語主義に固執し、それが私たちの視野を狭めてしまうという、私たちの思考に根深く存在する傾向を示しています。

この主語主義の問題は、「無我」という視点から理解するのが難しい一因となります。我々は自分自身を主語とし、それが中心となって世界を解釈し、生活しています。しかし、これにより私たちは自分自身を見失うことがあります。

私たちは、物事の本質や存在について問い、その答えを主観的なものとして得ます。そして、この主観的な答えは、私たち自身の存在と密接に結びついています。しかし、問いが普遍的なものになるにつれ、答えも普遍的なものになります。そして、その普遍的な答えから私たちは遠ざかり、自我の存在は必要とされなくなります。

このような考察から、私たちは仏教が単なる述語主義の宗教だとは言えないことを理解することができます。なぜなら、仏教は主語と述語を包含した全体を自己の心の法として扱っているからです。仏教は述語主義の宗教でもなく、主語主義の宗教でもなく、反省自覚主義の宗教と言えるのかもしれません。それは、私たち自身の視点と理解を反省し、自覚することを重視しているからです。

そして、このような反省自覚が重要であるという理解は、私たちが仏教の教えを理解し、成長するための鍵となるでしょう。私たちは、自己反省と自覚の困難さを乗り越えることで、自身の内側と外側の世界を照らし出し、理解を深めていくのです。

人間の思考は複雑で、しばしば私たちは自己と世界を理解するために基本的な法則や前提条件を設定します。しかし、これらの前提条件は、実際の世界を理解するのに十分なものではないことが多く、その結果として矛盾が生じます。この矛盾は、何か特定の事物や性質に依存するのではなく、普遍的に発生します。これは、あたかも私たちが色眼鏡を通して世界を見ているかのようです。

この矛盾の起源は、我々が主語と述語を分離するという基本的なルールを立てたことにあります。そして、この前提が常に問われることこそが、矛盾を生み出す要因なのです。

主語と述語を分けることに執着することが、果たしてどこまで妥当なのか、不妥当なのかという問いは、私たちの思考の基盤を深く掘り下げることにつながります。そして、ここで、私たちは自分自身を否定し、矛盾を露呈させることになります。

古代の哲学者たちは、この概念を"絶言"と呼び、これが覚醒への道筋であると説明しました。その上で、覚醒を他人に説明するためには、論理の不完全さを理解し、それに基づいて法を説く必要があると述べています。

結局のところ、我々の思考は常に、存在や本質を中心に回転し、それに対する解釈競争の中で生存しています。しかし、この主語主義は、実体や本質が実際に存在するという錯覚を生み出し、我々の認識を偏らせます。結果として、自分自身を見失うことになります。

私たちが使用する言語自体が、この偏見を補強しています。言葉は、事物を実体としてモデル化し、それが実在世界のように見えるようにします。一旦私たちはこの錯覚に染まると、それは私たちの心に深く刻まれます。

その結果、我々は前提条件を常に疑うことになりますが、結局はそれに依存せざるを得なくなります。そして、このことが、我々が学問における基本的な問題に直面する原因となります。

また、仏教では、"無我"という概念の理解が特に困難であるとされています。私たちが自分自身をどのように見るか、なぜそう見るのかという大きな違いがありますが、"有我"の視点からは、このような視点はなかなか出てこないということです。

こうした問いに対して、我々が求める答えも、私たち自身の視点によるものとなります。そして、この問いと答えのダイナミックスは、仏教が主語主義を否定し、述語

主義に近い立場をとっていることを示しています。しかし、実際には、仏教は、主語と述語を統合し、その両方を取り入れる立場をとっています。

そして、この一見すると矛盾しているように見える立場こそが、仏教が提供する解答の核心部分を形成しています。この核心部分を理解し、自己反省と自覚を深めることで、我々は仏教の教えを理解し、自己を超えて進化することができるのです。

しかし、こうした深い理解に到達するためには、必然的に困難を伴います。これは、複雑で矛盾した世界を理解し、自己という存在を越えて考えることが、人間の本性とは異なるからです。私たちは、自己の限界を超えて考えることが難しく、それが仏教の理解を難しくする一因となります。

それにもかかわらず、この困難を乗り越えて真理を追求することが、我々の精神的な成長と覚醒を促します。そして、これは仏教の教義の中で特に強調される点であり、私たちが仏教の教えを理解し、実践する上での最大の挑戦であり、同時に最大の報酬でもあります。

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