くつ屋のペンキぬり-10(小説)

 図書館の入り口には上等な敷き物が用意されていました。貴重な史料にうっかりと砂が混ざらないよう、訪れる人はそこで、足の裏をようく拭き取っておくようです。後から来たいかにも学者風な老人の様子に倣って、男も同じようにしました。
 不慣れな素足での行動、じりじりと焼け付く地面に足の裏はひりついており、しわの寄った具合がまるでしかめっ面に見えて男はぷふっと噴き出してしまいました。なんだか、まったくはた迷惑な主人の足に生まれついてしまった、とでも言われた気がしたのです。
 ひんやりとした床の感触が心地よく、男は館内を素足でぺたりぺたり歩きます。
 分厚い辞書、百科事典、最近書かれたばかりの論文、砂漠の植物図鑑、星の見方、政治、経済、いくつかの宗教、古典文学、戯曲、巷で流行りの読み物、ぴかぴかの新しいものから、頁をめくるだけで崩れ落ちそうな古いものまで。円筒状の建物の上から下までを、螺旋階段で繋ぎながら、各フロア整然と並べられた書物の間を男は恍惚とした気分で眺めて回りました。男は元来勉強家で、氷と雪に閉ざされる故郷では長い冬を、書物をこれでもかと家の中へ山のようにしてひたすら読み耽って過ごしましたから、これほどの蔵書を前にしては興奮を抑えられようはずもなく。しばし夢中で本を眺めて回りました。
 時折、気にかかる背表紙を見つけますと手に取って、ぺらりぺらりとめくり、しかし古いものほど言葉の壁があって断念します。男はこの国までたいへんな距離を南下するのにあたって、事前に学べる限りのことはなるべく学びましたから、往来で会話をする分にはどうにか支障なくできましたが、母語ではない言葉の古典となると一段階さらに別の言葉なのでした。なんだったら、母国の書物だってこれだけ古ければ読めるかどうかわかりません。しかし容易には読めずとも、"そこにある"ということがたいそうな浪漫に感じられましたし、男はまた、この書物を読み解く学者がいるということにも浪漫を感じました。
 はるかに遠いところの様子を、いま、ここへ伝えてくれるのだと思うと、それだけでもう、図書館全体が大きな円筒のかたちの宝箱のようだと男はほれぼれしました。
 そうして過ごしているうち、ある一区画で男はとてもとても大きな、右の手の平でなんとか掴めるくらいの厚さの図録を見つけました。決して最近のものではなさそうですが、かといって読めないほど古くもありません。なめし皮の表紙の滑らかなところを見るに、とても大切に扱われているようです。男はその図録をそっと、棚の一番下の段から抜き取ると、想像以上の重さに足取りをよったよったとさせられつつも、窓辺の閲覧席へ運んで、そっと中を開いてみました。
「ああ、これは」
 思わず、慣れた母国の言葉で感嘆が漏れました。すぐ、ぱっと口元を手で押さえます。あたりを見回すと少し離れた場所で、ひょろりと背の高い館員が返却本の整理をしていましたが、高く神経質そうな彼の目からは「館内ではお静かに」という無言のメッセージを受け取るだけで済みました。
 男は苦笑いで返答して、それから改めて図録に向き直ります。それは世界中の建物、とくに各国に特有の建造物の特徴について記し、他国へ紹介する趣旨の本でした。ぺらぺらとめくった中には男の住んでいた雪国の寒さを防ぐ堅牢な建物もあり、そしてまた、もちろん、ぎらぎらといつも光と熱の交じり合うこの国に立ち並んだ、白く美しい丸屋根についても記されておりました。多少の色あせはありながらも、見開きの頁をめいっぱい使った家々の光景は、おそらく当時もっとも性能の良い写真機で撮影したのでしょう。鮮やかな空のブルーと屋根のまばゆいホワイト、行き交う砂交じりの風すらも匂い立ってくる紙面でした。
 もちろん、いま男が現に足を着けている場所は、その白い屋根の下ですから、窓から外をのぞけばすぐにでももっと色彩のくっきりとした現実の景色を見ることができます。肉眼で見るのに比べてしまえば、図録の写真もいくらか印象薄く男にも感じられました。
 しかし、雪と氷の一年中ほとんど溶けない冷たい土地で、かじかむ手を擦り合わせながら冬を越える折、しがない一人の男に、蒸せる熱気と濃い空の下で太陽に愛された白い街の息遣いを想起させるのには、十分がすぎるほど美しかったのです。
 まぎれもなく、男を旅へ駆り立てた一冊でありました。
 男は頁を開いたまま、まるで手足がしもやけになった時のようにじりじりとしびれてしばらく動けませんでした。ようやっと震える指で写真の上をそっとなでると、故郷で読んだときとおんなじように、紙のざらついた質感が指の腹をくすぐったくさせるのです。腹の底から男は深く息を吐きました。
 ああ、ああ、なんということでしょう、書物は遠く遠く砂漠を越え岩を越え山を越えて、氷の池のほとりの図書館にも所蔵されて男と出会ったのです。それとおんなじ本の一冊が、いままたこうして目の前に現れ、自分に在りし日を思わせるなんてまるで夢にも思いません。男がぎゅうと目を閉じると、瞼の裏側にしばし窓枠と紙面の残像が残りまして、それからそれからあとから、いくつも旅の道中のことが思い起こされました。干からびた動物、おそろしき伝染病、そんなのをなんのために抜けて、この町、この国までやってきたのでしょう。
「よし」
 男は本当に小さく、口の中でつぶやきました。今度は館員に見とがめられることもありませんでした。窓の外を見れば、求めて止まなかった白い丸屋根の景色が一望できます。背筋をぴんと伸ばして、男は少しの間だけ閲覧席からの景色に見入りました。

(続く)

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