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掌編小説(22)『雨が止まないなら』

 傘をひらけばいつも雨。
 それも土砂降り。
 傘をさそうがささまいが、どのみちびしょ濡れ。
 だから僕は傘を使わない。
 雨が降るなら降ればいい。たとえそれが止まない雨だとしても。

「あんたまたずぶ濡れじゃないの! 傘を使いなさいって言ってるじゃない!」
 お母さんが喚く。
「仕方ないよ。傘の中も雨なんだから」
「そんなわけないでしょ! いい加減うそはやめなさい!」
 僕はぐしょぐしょになったシャツや制服を洗濯カゴに乱暴に投げ入れて、しばらく止みそうにない母の諫言から逃げるようにして階段を駆け上がった。

 いつからだろう、世界中で雨が止まなくなったのは。少なくとも、僕がもの心ついたときにはもう、降り続く雨は世界を隙間なく水浸しにしていた。
 昔は【天気予報】と呼ばれるものがあったらしい。今じゃ予報なんて必要ない。ずっと雨なんだから。
 そんな異常気象に対して、人類の出した結論はとてもシンプルで合理的だ。
 雨が止まないなら傘をさせばいい。
 青空が見たいなら、傘の中に空を投影すればいい。
 僕から言わせれば、技術の進歩はそこで終わるべきだった。単に傘をパッとひらけば、そこに澄んだ青空やら、お日様に照らされてご機嫌に空を漂う雲が映っていればそれで十分だったろうに。
 現代に普及している傘の全てのハンドルには、用途に似つかわしくないほど高度なセンサー機能が備わっている。
 握るだけで心拍数や血圧を測定したり、持ち手の心理状態に合わせて投影する空模様を変えるためのものだ。それだけではない。その気になれば、雪さえ降らせることができる。
 もちろん、雨だって。
 そんなもの、とんだ有難迷惑だと、そう思っている。近所のおばさんが僕の進路に口を挟むくらいに無神経なことだ。
 おかげで僕は、屋内にいる時間を除けば年中、雨にうたれることになった。

 いつもずぶ濡れな僕を、クラスメイトたちは放っておいてはくれない。
「お前さあ、なんでいつもそんなびしょびしょなわけ?」
「水も滴るってやつじゃね? きも」
 カラッと乾いたシャツや制服に身を包んだやつらは、僕なんかに負けないくらいにジメジメと湿った言葉を投げつけてくる。
 不快で不快で仕方がなかった。いっそ消えてしまいたいと願うほどに。

 帰り道。
 突然、胸につかえた感情の一切合切が僕の足を止めた。
 畳んだままの傘をアスファルトに投げつける。傘は〈べしっ〉と情けない音を立てて弾む。死んだお父さんが使っていた、六十センチの紺色の傘。
 そしてそのままその場にしゃがみ込んだ。背中を打つ雨。飛沫しぶきをあげて走り去る車。笑って通り過ぎるクラスメイトたち。
「風邪ひくよ」
 彼女の声だとすぐに気が付いた。ひと月でやめた部活の——。
 見上げると同時に雨が止んだ。青空と、逆光の中の彼女。彼女は前屈みになって、雨から僕を守るように傘を傾けた。
 温かさを感じた。優しく頬を撫でるような、柔らかな温もり。
 僕は思わず傘を持つ彼女の手を払い退けた。理由はわからない。
 同情なんかいらないと思ったのかもしれないし、ふいに優しくされたことで驚いたのかもしれない。可能性は低いけど、乾いた涙のあとを見られたくなかったのかもしれない。
 僕はその場を走り去った。振り返りもせずに。
 彼女がどんな顔をしたのか気にはなっても、確かめる勇気なんて僕にはなかった。
 その日はずっと、この世の終わりみたいな最悪な気分だった。

 次の日も、雨に濡れながら学校に行った。
 嘲笑や、消しゴムのカスや、丸めたノートの切れ端を浴びせられている最中も、彼女のことを考えていた。次に会ったとき、なんと声をかければいいか。答えは出ないまま下校時間をむかえた。

 導き出した答えに自信がないときほど、回答を迫られてしまうことだってある。
 校舎の出入り口で、彼女は僕を待ち構えていた。
「別にさあ。わざわざ自分から濡れなくたっていいんじゃない? 自力でどうにもできないんじゃあ、しょうがないじゃん」
 彼女に「ほら」と手を引かれて、僕は傘の中に招かれる。澄んだ青空。お日様に照らされてご機嫌に空を漂う雲。
「じゃあ、帰ろっか」
 とぼとぼと歩く僕の歩調にあわせて、彼女がついてくる。
 背中に感じる陽のぬくもり。髪や制服が徐々に乾いていく。答えなんて、初めから決まっていたことにようやく気づく。
 涙をすべて出し切ったら、顔をあげよう。ありがとうもまだ言ってない。
「ほら! 虹つくれるようになったんだよ、私!」
 辛気臭い僕とは裏腹に、彼女はどこまでも暢気のんきだ。
「あれ? 今笑った? 見せて見せて!」
 彼女が顔を覗き込もうと、僕の肩に手をかけた。
「やめろよ」
 僕は彼女の手を払い退けた。今度は間違えないように、できるだけそっと。
 彼女に負けない優しさで。


***


このお話は『独りではどうにもできない悲しみや寂しさを紛らわせてくれる誰か』をテーマにして書きました。

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