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ピアノが上手な人は、なぜ上手なのか。物理的に考えると?<前編>ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」㉗

「子供に習わせたい習い事」としていつも上位に挙げられるのがピアノです。そのためか、世間には数多のピアノ教室があり、ただ楽しく弾くことを目的とした教室から、最初からプロを目指してスパルタ教育をする教室まで様々です。誰しも最初は練習によってピアノが上手になると信じてレッスンに通い始めるわけですが、そもそもピアノが上手いというのはどういうことを意味するのでしょうか?

「ピアノが上手い」と言われる人たちはたくさんいますが、「どのように上手いか」は千差万別です。例として、20世紀を代表する巨匠2人が同じ曲を弾いた映像を見比べてみましょう。

Rubinstein氏 シューベルト即興曲集 第4番 D 899 Op.90-4 変イ長調

Horowitz氏 シューベルト即興曲集 第4番 D 899 Op.90-4 変イ長調

2人とも「ピアノが上手い」のは間違いないですが、弾いているときの手の形や姿勢、さらには音の出し方もまるっきり異なることが分かると思います。

Rubinstein氏はポーランド出身のピアニストで、ショパン弾きとして有名です。演奏するときは背筋がまっすぐ伸びており、指はほぼ鍵盤に垂直に接するように曲げられています。
古い時代の日本のピアノ教室でピアノを習うと、背筋を伸ばして指を丸めて弾くように指導されましたが、まさにそれを忠実に守ったような弾き方です。音も非常に端正でバランスが良い印象を受けます。

一方のHorowitz氏はウクライナ出身のピアニストで、親交も深かったラフマニノフの演奏で良く知られています。彼は鍵盤に覆いかぶさるような前傾姿勢で、指はピンとまっすぐ伸ばして弾いています。ピアノの先生には絶対に教わることのない弾き方です。音も旋律を際立たせる弾き方で、まるでテノール歌手が歌っているかのようです。

このように、色々な弾き方や表現方法がある中で、どのような要素を「上手さ」というのでしょうか。
ここでは私の独断で、次の3項目にまとめてみました:

・空間的な正確性
まずは正しい音を出せることが大前提です。そのためには、鍵盤上で狙った位置に百発百中で指を置けなければいけません。特に両手で素早く移動しなければならないような曲では、手元を見ずに正確に移動できなければなりません。

・時間的な正確性
テンポやリズムを正確に演奏するためには、正しい動きを正しいタイミングで出来なければいけません。古典落語が(誰でも知っている話なのにもかかわらず)「間」の取り方で何割増しにも面白くなるのと同じく、楽節ごとの微妙なテンポの揺らぎや楽節と楽節を結ぶときの一瞬の「間」で音楽の魅力は大きく左右されます。またモーツァルトの速いパッセージ(メロディーとメロディーをつなぐ経過的なフレーズ)※1では一音一音の粒がどれくらい揃っているかが直接演奏の質に直結します。それも、0.1秒レベルでの時間的正確性が必要です。

※1 モーツァルトの特徴の一つとして、速い楽章で16分音符の音階や分散和音を伴うパッセージがあります。このパッセージがモーツァルトの音楽を活き活きとさせ推進力を与えています。

・強度的な正確性
ピアノという楽器の特性は、音の強弱を広範囲に調節できるというものです。これは旋律の抑揚を決めることにもつながります。「牡蠣」と「柿」がイントネーションの違いで区別されるように、旋律の抑揚が違えばその旋律の持つ意味合いは全く変わってしまいます。正しい音を正しいタイミングで出しながら、一つ一つの音を正しい強度で出さなければ、「棒読み」のような演奏になってしまいます。

これらのテクニックをどのように習得し実践していくかについては、ピアノ教育の長い歴史で培われてきた知見があり、例えば次の書籍によくまとまっています。
・ジョセフ・レヴィーン著(中村菊子訳)『ピアノ奏法の基礎』(全音楽譜出版社・1981年)
・ジョージ・ジコチェヴィッキー著(黒川武訳)『ピアノ演奏技法』(サミーミュージック・1985年)
・トーマス・マーク、ロバータ・ゲイリー、トム・マイルズ著(小野ひとみ、古谷晋一訳)『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』(春秋社・2006年)

これらの本やピアノ演奏家の間で知られる通説や実体験をもとに、3つの正確性を確保するための身体の使い方について考えてみましょう。


【空間的な正確性】

”muscle memory”
 ピアノ練習について英語で調べると、”muscle memory” という表現によく出会います。「筋肉の記憶」という意味ですが、当然筋肉そのものは記憶を持ちません。何度も同じフレーズを練習する中で、音楽そのものとは関係なく体をどう動かすかが(文字通り)身についてきて、意識しなくても自動的に正しい鍵盤を指が押さえられるようになるということです。
 ピアノをある程度弾ける人のほとんどが、この感覚にピンとくるでしょう。緊張すると歩き方がぎこちなくなるのも、弾きなれたフレーズを途中から弾こうと思っても弾けないのも、この”muscle memory”に頼っているせいです。
“Muscle memory” に頼りすぎると、体のすべての動作がルーチンワーク化してしまい、「いつどの音を出すか」を頭で理解しないまま演奏できるようになってしまうため、何か想定外のことがあると途端に演奏はボロボロになってしまいます。一方で、純粋にすべての動作を意識しているようでは、複雑な曲を演奏する前に頭がパンクしてしまいます。他の正確性にも関連しますが、ある程度の動作はひとまとめの動作として無意識に実行できるようにしておかないと、実用上はスムーズな演奏が困難です。

どの範囲を意識的動作にして、どの範囲を無意識的動作にするか
そこで、「空間的な正確性」を得るために考えるべきことは、まず「どの範囲を意識的動作にして、どの範囲を無意識的動作にするか」の線引きをすることです。分類のポイントとしては、その動作の普遍性の度合いを考えます。
例えば、次のようなパッセージを左手で弾くことを考えます。


すぐにわかる通り、1音目と3音目は鍵盤の低音域、2音目と4音目は中音域と、場所が離れているため、手を瞬時に移動させる必要があります。しかも、後者は複数の音を同時に押さえる必要があるため、移動の最中に音の構成や手の配置を考えている暇はありません。
そこで、1音目と2音目を「1グループ目」、3音目と4音目を「2グループ目」と分類して、1音目を弾く時点で2音目の和音を押さえられるように手の形を準備しておけば、あとは移動に集中するだけでよくなります。2グループ目に関しても同様です。そして、各グループの2音目は、へ短調における属七和音の第一転回や、主和音になっており、おそらく曲中で何度も出てくるであろう一般的な和音です。そこで、各和音が鍵盤上でどのような配列になっているかをあらかじめ記憶しておけば、手の形は瞬時に判断できます※2

※2 スケール(音階)やアルペジオ(音が順に上行する、または下行する音形)は、このような場面で調性と和音から手の形を瞬時に判断するために重要な訓練です。無調の音楽が増えた現代ではこの知識が持つ重要性は薄れてきているかもしれませんが、「無意識的な動作」を実現するために重要な考え方であることは間違いありません。

上の譜例で1音目から2音目、3音目から4音目への跳躍のような動作は、多くの人が苦労します。この動作は、「けんけんぱ」の遊びのように理解できます。ある場所からある場所へジャンプして移動する動作は、「跳び上がる」動作と「着地する」動作の2つによって構成されており、着地点の正確な位置を決めているのはほとんど「跳び上がる」動作です。
つまり、「跳び上がる」動作に相当する、1音目や3音目から指を離す動作の時点でどれほど次の和音の位置に正確に目標を定められているかが、跳躍を成功させるための決め手です※3

※3 ピアノ演奏が指だけの問題であると考えていると、この感覚がピンとこないかもしれません。次回の<後編>【強度的な正確性】で詳細を議論しますが、肩から指先までの全体の動きによって演奏する考え方に基づくと、足における膝の役割を、手首や肘が担うことになり、「ジャンプする前に膝を縮めている段階」を意識することができるようになります。

ここまでは、典型的な跳躍の技術を例に挙げて「空間的な正確性」を議論してきましたが、この考え方はあらゆるパッセージに応用できます。例えばモーツァルトのピアノソナタの1節を見てみます。



派手な跳躍はありませんが、細かく手の位置を移動しなければいけないパッセージで、まるで早口言葉のようです。このパッセージでも、「(手の位置を移動しない、一連の)無意識的な動作」と、「(手の位置の移動を伴う)意識的な動作」に分類することで、一気に見通しが良くなります。


「(手の位置を移動しない、一連の)無意識的な動作」と、「(手の位置の移動を伴う)意識的な動作」に分類。赤枠の中は「無意識的な動作」

数字は右手の指番号で、赤枠は手の位置を動かさずに一連の動きにまとめられる部分です。手の位置の移動という「意識的な動作」に集中するために、赤枠の中は「無意識的な動作」として”muscle memory”に委ねます※4

※4 ピアノ練習において指遣いが重要であるのは、このような理由からです。手や指のサイズや、筋肉のつき方は人それぞれなので、ただ一つの正しい指遣いというのは存在しませんが、自分に合わない指遣いを採用すると、本来は「無意識的な動作」にまとめられるところも、意識しないと弾けない難しいパッセージになってしまい、正確に弾くために余計な労力を必要とします。

以上のように、「空間的な正確性」は、無意識な動きと意識的な動きをバランスよく配分することがまず第一歩です。


<後編>につづく

プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。

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