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昔を懐かしむほどの余裕もないくらい/生き急いているのかな【ミヒャエル・エンデ『モモ』 第二部 7章】

こんばんは、匤成です。

友だちの訪問と敵の訪問

時間どろぼうが来る前は、モモは、大人も子供もなく、多くの友だちに囲まれて幸せだった。それが、1人また1人とモモのそばを離れていき、今も変わらずモモに会いに来てくれるのは、道路掃除夫ベッポと観光ガイドのジジだけとなった。

時代が変わっても

時代の速度はだんだん速くなっている。1970年代、フォークソングが流行っていた高度成長時代は、時の流れはもっと緩やかだったと思う。

確か、世のお父さんたちは夜中の1時2時まで働いて忙しくしていたが、世界のすべてのものが、まるで使い捨て品のように“コンテンツ化”されるという事はなかった。

イルカの「なごり雪」やふきのとうの「初恋」など、現代に聴いても良い曲だなぁと感じる。

コンパクト化・大量生産

現在は、ミニマリストと言う言葉があるように「小さくコンパクトに生きる」ことをモットーにする人が増えている。これは、無駄は省くという考えもあるし、必要以上のものは自分の手に余ると感じている証拠じゃないだろうか?

うろ覚えだけど、60年代に人々が生活に「必要なもの」と考えていたものが90個余りであったのに対し、ここ2・30年で200個と倍以上になった。しかも、それらのモノは本当に必要なのかどうか判らないらしい。

情報化社会、デジタル・デトックスという言葉もある。携帯電話はすぐに連絡が取れるという便利さはあったけど、会社の上司から時間外の仕事を電話やメールで求められる、というトラブルもよく起きていた。便利さが仇になった形だ。

家々も様々なデザインがあったように思う。日本家屋とモダンハウスが混在していて、開発されてゆく街並みがキレイだったのを覚えている。

現在では、同じメーカーが作るから、その一帯全体を似たデザインの家がひしめきあっていて東京の入り口、新幹線の車内から見えるビル群は凄い高さまである。

日本の几帳面さと過干渉

モモを読んで、ふと日本文化の分刻みの几帳面さを思い出した。海外の方に驚かれる事もあるけど、反対に、日本は過干渉な部分もある。そう、灰色の男たちのように。

モモは灰色の男たちの存在を知り、みんなが遊びに来てくれない理由を探し始める。

時代が変わっても、大切なものは変わらない

時代が変わっても大切なものは変わらない。エンデはきっとそうしたことを伝えたかったのだろう。エンデ語録のツイッターにも節々で、生き急ぐ人たちへの、人間の業に対する糾弾も見られていたからだ。

さて、時間どろぼうとモモたちはどうなるかな? 匤成でした。

なごり雪/イルカ

初恋/ふきのとう

正解/RADWIMPS(18祭 Fesバ-ジョン)



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