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新しい挑戦よりも、泥臭く努力したいと願う新年

神奈川県茅ヶ崎に引っ越してきて、早数年。一番茅ヶ崎らしさを感じる季節はいつだと問われ、冬と答えると意外に思われるかもしれない。それでも、長く過ごしていた関西の底冷えする冬を経験した者にとっては、真冬の季節であるにも関わらず、外を歩けばまるで春を感じさせる暖かな日差しを見ると、これが湘南なのだと一人納得している。

それでも、1月に入ると朝晩は冷えて、思わずエアコンに手が伸びるようになった。
新年に入って三ヶ日も過ぎないある日、夫婦それぞれ毛布に包まりながら、遅い朝食の席に着いていた。話題は自然と新年の抱負になり、それぞれどんな目標を立てるかということになった。
例年であれば「あれがしたい、これがしたい」と意気込んでいるところだけれど、今年は目標を立てるということにどこか消極的だった。今、強い思いで目標を立てたとしても、数日経てばきっと何かしらの心変わりをしているはずだ。数週間経ち、数ヶ月経てば、年初めに立てた目標なんてとうに忘れてしまい、全く違う目標を掲げているかもしれない。そう考えると、今目標を立てるということがなんだか虚しく感じられる、そんなことをわたしは言った。
そしてこう言いながら、それとは別の、臆病な理由もあることに気付いていた。

黙ってわたしが言うことを聞いていた夫は、わたしが話し終えると「僕の意見を言ってもいい?」と切り出した。
「ふさこちゃんもそうだし、大抵目標を立てる時には「こうなりたい」「これを達成したい」という結果とか成果を考えていると思う。でも、僕は、結果じゃなくて、結果を出すために何をやるかということが大切だと思う」
僕にとって一番難しいことは継続することだよ、と言いながら、やると決めたオンラインの配信が4年間続いていること、YouTubeの動画も100本あげると決めて今も継続していることなどを話した。

「例えば、YouTubeの動画を100本投稿する、という目標を立てたとしたら、求める結果はみんな視聴者数とかチャンネル登録者とかだと思うんだよね。
でも僕は、求める結果が得られたかどうかよりも、目標に対してやり切ったかどうかの方が大切だと思うんだ」

目標を立てることに二の足を踏んでいた理由の一つは、願った結果が得られなかったときに、それまで努力したことを無駄だったと考えることが怖いからだ。そんな思いを夫は見透かしていたようだ。

「僕は努力をする人が好きだ。それに…」
少し間を置いて、「『全てのことは益となる』からね」と、夫が大切にしている聖書の中に書かれている言葉を引用した。

「それにもし努力した結果、願っていた結果が出なかったとしても、やり方とか方向性が違ったんだなという貴重なデータが得られるわけだしね」

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1月は大学受験のシーズンでもある。この季節を過ごしていると、時々、受験生だった頃を思い出す。

どちらかと言えば器用な方で、普段は試験前に数日勉強するだけで、そこそこの点数を取っていた。好きだった絵画も、サラリと描いた絵が褒められて満足していた。あまり時間をかけて描いていないのに、これで完成だと自分で決めて、美術の先生に提出したら、「最後まで描きなさい」と叱られたことがあった。その時は、その先生の言葉の意味がわからなかった。でも、場所と人は違えど、同じような言葉を繰り返し言われ、次第にその意味がわかるようになった。

わたしは最後までやり切ることが苦手だった。最後までやり抜くために必要な苦労、単調さに耐えること、自分の未熟さに直面すること、などに比べたら、新しいキャンバスを取り出して筆を入れる方が良かった。

美術の予備校の中でも、作品が未完成なのは毎度のことで、講評の際にはいつも評価が低い末尾の方に絵が飾られた。塾長はため息をつきながら、「君は完成さえすれば受かるんだよ」とつぶやいた。
どうして絵を完成させることが出来なかったのだろう。いざ完成してしまったら、自分の実力がはっきりと現れてしまうから、わたしは絵を完成させられなかったのかもしれない。未熟な自分の作品を見るよりは、作品を未完成にすることで、自分にはまだまだできるのだと、自分を偽ろうとしていたのかもしれない。

今年はどんな一年にしたいのだろう。自分の可能性を見出すような新しい挑戦に踏み出したいのか。それとも…。

浪人生活は家と塾との往復で、どう見ても刺激に溢れる生活とは言えなかった。毎日自分の未熟さと、求められている技術とのギャップを見てはがっかりしていた。世の中にはこんなにも上手に絵を描く人がいるのに、どうしてわたしがこの世界に入ろうとしているのかとも思った。
でも、狭い教室の中、ただ学生達の鉛筆を走らせる音が聞こえるあの空間で、1分、1秒を惜しみながらようやく描き上げた一枚の絵を見たとき、どんなにこの絵が未熟だったとしてもたまらなく愛おしかった。自分自身の力を出し切ることが、こんなにも気持ちの良いものだということを初めて知った。

どこか、結果や成果を求め、人からどのように思われるかを気にしている自分自身があったようだ。
浪人していたあの頃の自分は、鈍臭いのにナルシストで、全くかっこいいとは思わないけれど、少しは見習うところもあるのかもしれない。少なくともあのときは、努力をやめなかった。

今年は、泥臭くてもいいから、自分と向き合い努力を積み重ねる一年でありたい。文章を書き続ける年でありたい。

そう言うと、きっと夫は「なんだか最近、僕に影響を受けてるね」とからかうだろう。
そうなのかもしれない。でも、夫の小さな一言のおかげで、いつの間にか手放してしまった、自分の中にある良いものを再び取り戻している、そんな風にも思うのだ。

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