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自分の言葉で「愛」について語りたい

今日も家族の話を書きたい。
「大切な」という形容詞ではあまりにもありふれている。なくてはならない存在。あまりにも近い存在で、相手の心さえ読めるような気もする。でも時折、自分が知らない一面を見つけてどきっとする。

家族、特に自分のパートナーの幸せを強く願う。夫が願っていることが叶えられて欲しいと思う。夫がより輝く人生を送って欲しいと思う。

夫のことを少し書きたい。夫はキリスト教徒だ。大学生の頃にイエス・キリストを知り、それ以来夫にとってイエスは最大の目標になり、心から敬愛する存在となった。
イエスとの出会いは彼の人生を180度変え、彼は牧師になった。
大学では「宇宙の成り立ち」を知りたいと思い、有名大学で物理学を専攻していた。
夫は物理学で宇宙の成り立ちを解き明かすことはできなかったけれど、本当に知りたかったことを知ることができた。

今、夫は、自分が知ったイエスについて、人々とシェアする生き方をしている。夫の願いはいつも変わらない。「ひとりでも多くの人々と大好きなイエスのことをシェアすること」。

夫を見ていると、時にその生き方があまりにも眩しい。私には見えていない未来を見つめているようで、時々取り残されたような気持ちになる。

こんなことを書き連ねながら、私は一体何が言いたいのだろう。目標に向かって生き生きとした夫と、取り残された自分を比べて自己嫌悪になっている?

そうではないのだ。
私は今、秋の柔らかな日差しが差し込むダイニングで、この誰に向けるでもない文章を、小さなノートブックに書き込みながら、とてもしあわせなのだ。
私たちのちいさな娘は、隣の部屋で寝息を立てている。そして夫は、また誰かとイエスの話をするために出かけていった。

時折上空を通り抜ける飛行機のほかに、この部屋を満たしている静寂を破るものはない。

先日、私はまた気分が滅入ってしまった。
子どもと遊びながら、そして昼食には何を作ろうかと考えながら、仕事の連絡をスマホで受けながら。同時にひとつのことしかできないとわかっていながら、それ以上のことを忙しなく脳内で処理しようとして、結局心が悲鳴をあげてしまった。最近、こんなことばかりが続いている。
「もう何もしたくない」と、隣の部屋でオンラインの連絡を受けている夫に娘を預けて、外に飛び出した。コンビニに入り、ふたり分のお弁当を選び家に帰ると、夫が心配そうな顔をして待っていた。
「疲れた」と言うと、「休んで」と夫。
全体的に茶色で、高カロリーのお弁当を「たまにはお弁当もいいね」と言いながら食べた。

「今日は、予定を全部キャンセルしたから一緒にいられるよ」と夫。
そんなことしなくていいのに。自分がもっと惨めになるじゃない。その言葉を飲み込んで、「ありがとう」と言った。

「何がしたい?」と聞かれても自分でもわからない。
お弁当を食べたら、マットレスの上で家族3人川の字になった。
本当であれば、たくさんやるべきことがあっただろうに…。それなのに隣で横になっている夫は、さっぱりした表情で天井を見上げている。

しばらくの間、何をするわけでもなく過ごしてから「散歩に行こうか」と外に出た。家の近くに、ちょっと立ち寄れるような場所が少ない。結局私が先ほどお弁当を買ったコンビニに、ベビーカーを押して入った。
店の片隅に、申し訳程度に置かれた机と二脚の椅子からなるイートインコーナーがある。誰もいないその場所で、ひとつのソフトクリームを夫と分け合って食べた。
そのミルクの味は、甘くて、優しくて、思わず涙が出そうだった。
何か励ますわけでもなく、時折冗談を言いながら、ただ一緒にいてくれる夫の存在が嬉しかった。

昼下がりのコンビニで、子どもを連れた夫婦がひとつのソフトクリームをつつき合っている。そんなあまりにもささやかな瞬間に、私は自分が、とても大切にされているのだ、ということを心底感じていた。

夫にとって、何よりも願っている未来がある。そのために日々予定を詰め込んでいるのに、ただ家族の不調ということのために、その予定を全てキャンセルして、妻と一緒にソフトクリームを食べている。

申し訳ないと思う。でも、同時に、とても嬉しかった。

夫はキリスト教徒だ。ついでのように言うと、私もそうなのだ。
でも、一般的なキリスト教徒のイメージは(もしかしたら違うイメージを持ってらっしゃる方も大勢いるかもしれないが)、清廉潔白で、いつも優しく、落ち度のないような存在で、自分がそうだと言うにはあまりも気が引けてしまう。

すぐに人と比べてしまい、落ち込みやすく、すぐに怠惰に流されてしまう。それが私だ。

でも、キリスト教徒とは、つまりイエス・キリストを信じる者は、このように鏡に自分を映して難癖つけたり、反対に自己愛に浸ったりするする者ではなく、イエス・キリストをただ一心に見つめて、それで満足する者なのだという。

神はご自身を「愛」であると語られた。
愛は目に見えない。
でもあのコンビニの片隅で、私は心底自分が愛されていることを感じていた。
直接的には夫からの愛情なのかもしれないけれど、夫にそうさせてくれたのは、夫が信じているイエスの愛なのかもしれない。

何かここで気の利いたことを書ければとも思うけれど、そんなつもりもなければそんなこともできない。
ただ私は、あのような愛にいつも留まっていたいと思う。
そしてもし、できるのであれば、自分が生きて、何かをする時に、それが自分と家族の生活の資の為だけではなく、誰かにあのソフトクリームような優しさを届けることができたら、と思う。

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