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02 Ace-r-0083の収容記録

前作:『01 K-r-0083の収容記録』

 この施設へ来て五日目。シャッキリと目が覚める。制服に袖を通し食堂へ向かう。円衣さんと鐘戸さん、それに駿未さんが同じテーブルを囲んでいたので近付く。
「おはようございます」
「おはよう星川ちゃーん!」
「おはよう」
「おはようー」
「ご一緒してもいいですか?」
「もちろーん」
「加奈河さんは?」
「まだなんだよねえ。書類で忙しいんじゃない?」
「なんか、いつも書類抱えてますよね加奈河さんって……」
「この時期人事異動激しくなるからねえ、そのせいかも」
「なるほど」
私はサラダをつつく。レタスが美味しい。
「あ、加奈河くんいたよ」
「どこ?」
「あそこー」
カウンターで食事を選んでいる加奈河さんの後ろ姿が見える。彼が食事をとって振り返ると、円衣さんが思いっきり手を振る。
「加奈河くーん!」
加奈河さんは手を軽く上げてこっちに来る。
「星川もいたのか」
「はい。おはようございます」
「おはよう……ふあ」
「おや、加奈河くんがあくびなんて珍しい。まさか徹夜?」
「まあな……」
「何か手伝えるものがあったらやりますけど……」
「ああ、いや。気持ちだけ受け取っておくよ」
「そうですか」
監査の方の書類かな。
「今日は星川ちゃんは勤務かな?」
「ああ、どうする? もう一日休むか?」
「え、普通に仕事行くつもりでした」
「平気そうだな」
「元気になったんだねー。よかったよかった」
「皆さんに優しくしていただいたので……ありがとうございます」
周りに頭を下げる。円衣さんがよしよしと頭を撫でてくれる。他の人がその光景を微笑んで見ている。
「ああ、そうだ。仕事の連絡していいか? 星川」
「あ、はい」
加奈河さんは卵焼きをつついている。
「0083だが恐らく危険度が引き上げられる。あと一人当たりの作業時間を減らしてリスクを分散する方針で決まった。で、作業員を増やしたから後で顔合わせをする」
「あ、はい。わかりました」
やっぱり、引き上げられちゃうんだ……。
「Kingの上だと、Aceですよね」
「そうだ」
Ace級。つまり、この施設で一番危険度が高いアーティファクトの一つということになる。
「魔術部にも恐らく連絡が行くが、0083の収容部屋に結界を施す必要が出て来そうだから忙しくなるぞ」
「あら、どの結界がいい?」
「とびきり頑丈なのにしてくれ」
「そうなると、設置に時間かかりそうねえ」
「結界ですか」
「アーティファクトに魔術は効くからねえ」
 食事を終え解散する。ひとまず、いつも通り私が暗闇さんの作業に入る。ブザーが鳴る。
「おはようございます」
「ごきげんよう星川さん」
「ごきげんよう。八時十分。作業を開始します」
「今日は仕事するんだね」
「はい。さすがにサボってられないので」
「サボってもいいのに」
「ダメですよ」
「真面目だねえ」
加奈河さんが昨日終えた作業の報告書に目を通す。いくつか情報を引き出せたのでさらに詳しく聞いてほしいと書いてある。
「うーんと」
「何から聞きたい?」
顔を上げる。暗闇さんは肘をついて私を見ている。なんとも楽しそうだ。
「色々とお聞きしたいのですが、そうだなあ……。神様だったと報告書にあるのですが、本当ですか?」
「本当だよ」
「いつ頃、どの国で信仰されていたとかは?」
「それ興味ある?」
「会社的には聞いておきたいですね」
「個人的には?」
「んー、ほどほどに気になる感じです」
「素直でよろしい。そうだねえ、私はあちこちにいたしその都度名称もバラバラでね。正直そこまで詳しく覚えていないんだよ」
「あら、そうなんですね」
「名前をつけるなんて人間が勝手にすることだからねえ」
「あまりそのあたりに興味はないと?」
「そう」
「なるほど」
報告書に質疑応答を書いていく。次の質問どれがいいかな……。じっと暗闇さんの顔を見つめる。彼も私を見つめる。
「質問が決まらない?」
「はい。聞きたいことはいっぱいあるんですけども」
「焦らなくていいよ。今後も時間はあるじゃない」
「そうなんですけども」
残念ながら作業時間には制限がある。
「私を星くずと命名しましたよね、前に」
「ん? ああ」
「実は昨日、別の何かに接触されまして。それが私を星の子、と呼んだんですが。これは偶然ですか?」
問いかけると暗闇さんは姿勢を変える。驚いたらしい。
「何かに接触されたって、何に?」
「わかりません。録音の音声を通しての接触だったので直接対峙したわけではないんです」
「…………」
暗闇さんは何か考え込んでいる。
「星川さん、武器の類は携帯してる?」
「え? はい。いくつか持っていますが」
「数日、その武器は身につけたままにしておきなさい。念の為」
「念の為、ですか?」
「うん……まあ、大丈夫だとは思うんだけど」
「私に接触した何かは、危険なものなんですか?」
「まだわからない。そいつ、なんて言ってた? 出来たら詳しく知りたいんだけど」
私は報告書と一緒に挟まっているメモ用紙に昨日耳にした言葉を書き出す。ほしのこ。ほしのこほしたべた。ほしきえたみんなまってる。おかえり。それを暗闇さんに渡す。受け取ったメモを彼は黙読する。
「いや、まさか。んー……でもなあ。……ううん」
困っているようだ。珍しい。
「何か思い当たることが?」
「うーん、あるよ。でも推測だから確信じゃない。確信じゃないことは言えない」
「えーと、じゃあその暗闇さんの推測が確定だったとして、危険度を十段階……一を低い方として、どのぐらい危険ですか?」
「十」
即答だった。
「……そんなに危ない状況ですか? 私」
「もし、そいつの本体が接触してきたらね」
思わず唾を飲み込む。思い出して時計を確認する。しまった、作業時間越えてしまった。
「あっ、八時二十八分。作業を終了します」
「もう行くの?」
「ああ、はい。他の職員と打ち合わせがあるのでこれで失礼します」
私は慌てて片付ける。すると暗闇さんに腕を掴まれた。
「星川さん」
至極真剣な態度だった。
「……気をつけてね」
「……はい」
 部屋を出て慌ててオフィスに向かう。するとすでに加奈河さんが他の作業員相手に説明を始めていた。
「すすすみません、遅れました」
「ああ、大丈夫。今始めたところだ。星川はここへ」
加奈河さんの隣に立つよう促される。他の職員たちが私を見る。うう、緊張する。
「お集まりいただいてありがとうございます。では、Ace-r-0083の作業について説明いたします。手元の資料をご確認ください。このアーティファクトは人間の脳波、およびインターネットのデジタルデータに影響を及ぼします。作業中は必ずこのインカムを着用し、頭部を守ってください。基本的に作業時間は十分。0083とは用意された質問以外の会話はしないようにしてください。説明は以上ですが何か質問は?」
一番前に立っていた若い男性が手を挙げる。
「どうぞ」
「その人」
彼は私をペンで指す。え、なに?
「十分以上作業してたみたいですが、いいんですか?」
加奈河さんが私を見る。私も彼を見る。なんと説明すべきだろうか?
「あー、彼女は……0083の作業で初めて生存した作業員です。あなた方とは条件が違うので作業時間は都度変えています」
同じ男性がまた手を挙げる。
「どうぞ」
「インカムも付けずに?」
「彼女のおかげで対処法がわかったので、彼女はインカムは所持していません。このあと配布します」
「ふうん……」
男性は冷ややかな目で私を見る。なに、その目。
「他に質問は?」
誰も手を挙げなかったのでその場で解散になる。加奈河さんは作業員を暗闇さんのいる部屋に案内するための準備を始める。目が合ったので会話に持ち込む。
「作業時間超過したのか。どうした?」
「あ、はい。昨日あった色々なことで暗闇さんに聞けることがあったのでちょっと聞いていました」
「奴はなんて?」
「例の声の主は暗闇さんの推測ではかなり危険らしくて。しばらく武器類を所持して過ごすように言われました。もしもがあったらいけないと」
「……そうか。そしたら、あまり一人で行動しないように。他の職員や知り合いと一緒にいなさい」
「わかりました」
 二人で作業員たちを収容部屋に案内する。彼らをよく見るのを忘れたのでここで確認する。いくつか知った顔があり、食堂で見かけた新卒のEマイナスランクの職員たちだとわかった。そういえばEマイナスランクは作業をたらい回しにされるんだっけ。ふと、視線を感じるのでそちらを向く。さっきの男性職員だ。明るい色の茶髪を整髪剤でまとめている。茶髪とは言っても染めている感じではない。地毛だろう。また私を妙にジロジロ見ている。何がそんなに気になるんだろうか?
 部屋の前に到着したので改めて加奈河さんが作業手順を説明している。
「星川」
他の職員に待機するよう言い、加奈河さんが小声で呼ぶ。
「はい」
「先に部屋に入って、0083に他の作業員が当てられることを説明してきて。また気まぐれで人を殺さないように釘を刺してきてくれるとありがたい」
「承知しました」
カードを読み込ませて部屋に入る。暗闇さんはおや、という顔をする。
「なあに? 面会?」
「いえ、暗闇さんに説明をしにきました」
「ふうん、なんの?」
「貴方を調査するにあたって、別の作業員も割り当てられることになりました。今後は私の他に五人。それから加奈河さんが作業に当たることもあります」
レジュメの内容を読んでいく。暗闇さんを見ると、明らかに興味を失っていった。
「なのでこれからは最大七人で作業を……あの、暗闇さん?」
「なに」
「明らかに興味がなさそうなのですけど」
「ないよ。君以外の人間なんてどうでもいいもの」
「そ、そう言わずに」
「やだよ。君以外の作業員なんていらない。君とのお喋りは好きだけど、他はどうでもいい」
「すみません。でも、規則なので……」
「人の都合なんてどうでもいいよ」
今までにないぐらい不機嫌だ。仕方ない。私は暗闇さんに近寄って視線を合わせる。
「もし他の作業員が怪我したり、死んだりすれば部署の評価にも響くし、私も困ります」
暗闇さんは私を見ている。まだ機嫌は直っていないが悪い雰囲気ではない。
「なので、お願いします。協力してください」
「……私を口説くとはいい度胸だね」
「え、あの」
やばい、まずった? 暗闇さんは私を引き寄せる。ものすごく近い距離で囁く。視界いっぱいに暗闇が広がり、冷気が顔に当たる。
「私の機嫌を直したいなら、私の要求を加奈河に通すことだね。芋相手に喋る気は無いよ」
「い、芋……」
他の新卒は芋ですか。暗闇さんは私を解放する。どうしよう……。部屋を出て加奈河さんにすぐ耳打ちする。
「他の作業員に話をする気はないそうです。あと、今ひどく機嫌が悪いので私以外の人を作業に入れるのはちょっと……」
「……困ったな」
「困りました……」
「なんですか。さっきからこそこそと」
作業員が割って入る。私を睨んでいた茶髪の人だ。なんだろう、さっきからやたらに突っかかられている気がする。加奈河さんが咳払いをして居直る。
「Ace-r-0083はひどい気まぐれでね。今機嫌が悪い状態だから予定を変更して作業は後にしようと思う。すまないが皆さん、さっきのオフィスに戻っていてほしい」
なんだぁと作業員たちはひそひそお喋りをしながらオフィスへ戻っていく。あの茶髪の人は何度か私を振り返りながら、明らかに聞こえるように舌打ちをして去っていった。なんなんだろう、本当に。
「星川、一緒にいいか?」
「あ、はい」
加奈河さんと再び部屋に入る。
「0083」
「やあ、加奈河」
暗闇さんはまだ機嫌が悪い。
「他の作業員に話をする気はないと言ったそうだな」
「ないとも」
「お前のわがままを通せるほどこちらも甘くはないぞ」
「そう。じゃあまた暇つぶしに一人二人犠牲になってもらう」
「お前人間の命をなんだと……」
「おおお二人ともやめてください!」
睨み合いが続いている。これはやばい。
「暗闇さん!」
「えっ」
「加奈河さん!?」
「え」
大きく息を吸う。
「めっっっ!!」
思いっきり叫んだ。
「んもおおおどっちもわがまま! どっちもです! もう!」
「ほ、星川……?」
「あーっ、もう!」
私は暗闇さんの部屋にあるベッドに思いっきりダイブする。そしてうつ伏せになったまま叫ぶ。
「まず! 人は! 芋じゃない!!」
「ンッフ」
暗闇さんが吹き出す。
「そこ笑わない!!」
「あ、はい。ごめんなさい」
二人は私の剣幕に気圧される。
「ゴミでもない! ポイしない! 動! 物! 人間は動物!! 動物を勝手に殺さない! それから! アーティファクトに、も! 意思がある! 無視を! しない!!」
「す、すまん」
言いたいことを言い、私は円衣さんにもらった香水を自分に振りかける。深く新緑の匂いを吸い込んで、気を落ち着かせる。ベッドの脇に腰掛け、毅然と二人を見る。
「互いが歩み寄らなければダメです」
私がそう告げると、二人は顔を見合わせ肩をすくめる。
「……星川が一枚上手だったな」
「これは敵わないや。駆け引きで負けるなんて久しぶり」
「お互いの妥協点を探しましょう。まずそれからです」
「妥協ね……」
私は作業で使っている椅子を暗闇さんの近くへ置き、もう一つ化粧台のところにある椅子も持ってくる。これは三人で話し合う形にしないとダメだ。
「はい、加奈河さん座って」
「わかった」
私も座る。レジュメとメモ用紙も準備する。加奈河さんにどうぞ、と話を促す。
「まず、会社の要望としては特定の社員にのみ作業を任せる形は回避したい」
「はい、それが前提です。理由もどうぞ」
「理由は、シフトの問題。それからリスクの分散。特定の社員が過度に疲れないようするため」
「はい、そうです。それに対する暗闇さんの要望は?」
「……星川さん以外の人間に作業されるのは嫌だ」
「理由は?」
「…………」
「暗闇さん、言ってくれないとわかりません」
「……星川さんと会える時間を減らされるのは困る」
私と加奈河さんは顔を見合わせる。え、それが理由? 直後、私はピンとくる。手を上げて発言したいと示す。二人はどうぞ、と無言で示す。
「つまり、他の作業員が介入することによって私の作業時間が相対的に減るのが嫌なんですよね?」
「まあ、そう」
「それなら、ええと一日に必ず私が入る時間を入れて、なおかつ他の作業員を最低二人、最高三人入れる……で、どうですか?」
二人が顔を見合わせる。
「私はそれで構わないよ。星川さんが来ないのに他の作業員が入ってくるのが嫌なだけだし」
「星川の負担が減っていない気がするが、いいのか?」
「もし私が休みだったり調子悪かったらその旨は都度伝えます。あと出来たら面会にも行きます。暗闇さんは別に私を困らせたいわけではないですし……でしょ?」
「うん、まあね」
「ではそれで決まりで、いいですか?」
「うん」
「わかった。ではそうしよう」
「もう一つ、要望」
立ち上がろうとした私たちを暗闇さんが制する。
「他の作業員が初めてここに入るときは必ず星川さんが同行して。機嫌悪いとうっかり殺しちゃいそうだから」
「わかりました。新顔の作業員があたる際は必ず同行します」
「……うん」
加奈河さんと一緒に部屋を出る。その際、暗闇さんに手を振るのを忘れない。
「ハァー、レジュメ作り直しだなこれ」
「私も手伝いますよ」
「そうしてくれると助かる……。ああ、星川」
「なんです?」
「ありがとうな。うっかり神相手に喧嘩売るところだったよ」
「お役に立てて良かったです」

 せっかく集まってもらったEマイナス職員たちを他の部署へ動かす羽目になった上、レジュメは作り直し。加奈河さんと私は午前中の全てを書類仕事に回し、休憩時間を半分犠牲にしてようやく終える。
「休憩時間削ってしまったから、今日は早く上がっていいぞ星川」
「わかりました。でもそれは加奈河さんも同じですので今日はデザート三つ食べましょう!」
「いや、俺はそんなに甘いもの好きじゃないんだが」
「あら、何がお好きなんですか?」
「……うーん、ところてんとか」
「ゼリー状のものが好きなんですかね?」
話しながら食事をトレーに乗せて席を探す、前に円衣さんの姿が目に入る。
「星川ちゃーん、加奈河くーん! こっちー!」
「円衣さーん!」
円衣さんと鐘戸さんが一緒に座っている。
「駿未さんは?」
「ハヤミンはねー、忙しいから休憩切り上げて戻ってっちゃった」
「あらぁ」
「なんだ、入れ違いになったか」
「星川ちゃんの顔見れなくてサミシー! って言ってたよー」
「あらあら。仕方ないですね、駿未さんにはあとで顔を見せてあげましょう」
「おお、なんと心の広い星川ちゃんさま!」
「ふふん」
私は胸を張る。
「星川も円衣病に感染したか」
「円衣病ってなんだー!」
「いててててて」
加奈河さんは円衣さんの袖の餌食になっている。私はそれを見て笑う。一方、鐘戸さんは静かに読書をしていた。よくこの状態で本が読めるなあ。背表紙を見るものの、ラテン語のようでタイトルはわからない。本越しに鐘戸さんがちらっと私を見る。
「貴方にご執心の職員がいるのね」
「え?」
「貴方をずっと見ている職員がいるの。貴方の右斜め後ろ。四時の方向」
私は言われた方向を見る。またあの茶髪の職員だった。あからさまに睨まれている。
「またか……」
「また?」
「あの人、今日ずっと私を見てるんですよね」
「……ああ、あいつか」
「あの年齢だと新卒ですよね?」
「そうね」
「なんだろう。人の顔見たってなんにもならないのに」
加奈河さんは持ち歩いている書類を広げる。私の位置から書類の一部にちらっと監査の文字が見えてしまい、咳払いをする。加奈河さんは私の視線に気付いて書類を開いている角度を狭める。
「……ああ、あいつキャリア志望か」
「え、この職場エリート街道とかあるんですか?」
「なくはないって感じだ。労働者にも相変わらず上下が存在するが、あの新卒は大企業の御曹司ってやつだな」
「へえ……って、それここで漏らして大丈夫な情報ですか?」
「今のは独り言だ」
「聞かなかったことにしまーす」
「円衣さんも何も聞いてないよ!」
「そうね」
「ちなみに独り言なんですけど、キャリア志望かどうかってすぐわかるんですか?」
「キャリア志望の場合ー、EマイナスじゃなくてEノーマルからのスタートになるらしいー。っていう円衣さんの独り言ー」
「へえー」
食事を終え円衣さんがデザートを勧めてきたが、今日はそんなに甘いものが欲しい感じもせず紅茶だけにする。代わりにミルクをたっぷり入れる。美味しい。
「星川さん。手、貸して?」
「あ、どうぞ」
鐘戸さんが最初に会った時のように私の手相を見る。本来は手相だけでなく、顔も見るらしい。彼女は視線を上下に動かす。
「うーん……」
「どうしました?」
「星川さん、災いの相が出ているのよね……」
「え」
「それも、巻き込まれるほう。気をつけてね。貸した魔除け、身につけてる?」
「はい、今も首から下げています」
「そう、それならいいわ」
「そういえば手相を見ていますけど、鐘戸さんって占いが出来るんですか?」
「ああ、言い忘れていたわね。私、元々は占い師で中途採用されたの」
「へえ!?」
「だから占いが本業なのよ。生まれが魔術師の家系でね……才能を見抜かれて引き抜かれた、って感じかしら。だから加奈河くんや円衣たちとは同期ではないの」
「え、すごいですね。格好いい」
鐘戸さんはその言葉にきょとんとする。
「私、格好いい?」
「かっこいいです!」
「……そう、ありがとう」
彼女は頬を染めた。
「か、鐘戸が照れてる……」
「あの……かねこゃんが……!」
「かねこゃん……」
円衣さんのあだ名の付け方って独特。鐘戸さんはすっといつもの調子に戻る。
「ともかく星川さんは数日気をつけてね。巻き込まれるほうだから、周りによく注意して行動すること」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
鐘戸さんが心配してくれたのが嬉しくて私は笑みをこぼす。笑ってる場合じゃないのよ、と彼女は釘を刺した。

 午後。仕事を再開し私は書類の続き……ではなく、他の部署に報告書を届けるべく廊下を歩いていた。たとえ施設内限定でもネットワーク回線を構築すると未だに暗闇さんの音声データの影響を受けてしまうそうで、こういった作業も全部アナログになっていた。施設内の郵便配達業務とか作ればいいのになぁ。コスト面で渋られたのだろうか? などと考えている。
「なんで配達なんてしないといけないんですかねー?」
「本当にねえ?」
朝、うちの部署に来てくれた新卒の職員の一人。佐井登さんという女性が話す。もしやと思い聞いてみると、彼女はQ-r-0033に襲われた佐井登さんと双子だった。
「あいつ昔から人の話聞いてなくてさー。ほんとバカな弟がごめんね!」
「いえ。生きててよかったですよ」
「貴方のおかげね」
「そうでもないです」
「謙遜しなくていいのに」
「謙遜じゃあないんですけど……」
「そう?」
廊下を右に曲がる。すると壁に備え付けられた内線電話がちりりりりん、と鳴る。周りを見渡すが誰もいない。
「え? あれ? 佐井登さん?」
はぐれてしまったのだろうか? こんなちょっとの時間で? ちりりりりん、ちりりりりん。電話はなおも鳴る。これ、取るべきだろうか? 電話は何度か鳴りやがて沈黙する。沈黙したならいいか、と思い私は電話の前を通り過ぎようとする。ちりりりりん! また電話が鳴る。どうしよう? 私は悩んだが、結局受話器を取ることにした。もしもし。そう言おうとして口を開きかける。
「星川さんその電話取っちゃダメ──」
暗闇さんがとっさに私の頭に介入してくる。
(と、取っちゃった!)
「ああ! 遅かったか!」
(ど、どうしたらいいですか!?)
「切って! すぐ切って!」
受話器を置こうとしたが私の肌はぞわりと粟立つ。受話器から何かが聞こえてきたのだ。
「ほ、し、の、こ」
昨日の! 心臓が跳ねる。体が固まってしまう。怖い。今度は録音ではなく、肉声のようだ。男性でも女性でもない、有機的で無機質なノイズの混ざった声だった。
「ほ、し、の、こ」
「星川さん、それの声に答えてはいけない! 位置を特定される! 聞こえてる!?」
(こ、怖い……動けないです……どうしたら……)
「ほし、の、こ。どこ? むかえに、いきたい」
(迎え……?)
「星川さん聞いちゃダメ!」
「ほしの、こ。どこ? さがしてる。かなしい。あいたい。はやく、かえってきて」
声の主は泣いているような声を出す。私はなんだかいたたまれなくなる。
「ほしのこ、どこ……? みつからない、どうして……? みんなかなしい。みんなつらい……ほしのこ……」
どうして貴方は泣いているの? 私は声を出しかける。しかし、それは未然に防がれた。受話器を横から奪う人がいる。顔を見ると、ああ、あの茶髪の男性だった。キャリア志望の。
「こんなところでこそこそ媚び売ってるのか? なあ?」
「人間は本当にバカだねえ!」
暗闇さんが緊迫した声を出す。私は彼から受話器を奪い、慌てて置く。その直前、耳に届いた音があった。
「みい、つけ、た」
ガチャン! 受話器から後ずさる。次の瞬間、地鳴りが聞こえる。
「どどどどどどうしよう!」
「星川さんそこから動かないで! すぐ行くから!」
「すぐ行くって、また脱走ですか暗闇さん!」
私は頭の上に向かって叫ぶ。隣にいる茶髪くんは状況が飲み込めずキョロキョロしている。
「好きな子の命に関わるんだから脱走ぐらいするよねえ!?」
「ああもう! それは嬉しいんですけど! 今日危険度引き上げられたばっかりなのにー!」
地鳴りが大きくなる。私が行こうとした廊下の先がぐにゃりとねじれる。来る!
 ブツリ。ボイスレコーダーの途切れるような音と共にそれは現れた。それは、煌々とした燃え盛る炎の、人の形をしたものだった。綺麗。私はそう思った。
「ほしのこ」
それは私に手を伸ばす。
「おいで」
「本体じゃなくて子供の方か!」
暗闇さんがすかさず私とそれの間に割って登場する。
「暗闇さん!」
「こいつら苦手なんだよなぁ私! おいそこのバカな人間! 君だよ君! 茶髪!」
「えっ、なん」
「死にたくなかったら私から離れないように! いいね!?」
暗闇さんは目の前に手をかざす。杖が手の中に現れ、それを握る。サイレンが鳴る。脱走、一体。および、侵入、一体。暗闇さんは握った杖をくるりと回転させ、杖の先を相手に向ける。
「私の目の前で人を攫おうなんていい度胸──」
「ど、け」
炎の精霊は体を大きく膨らませる。何かの予備動作だ。
「あ」
「え」
「うわ」
一瞬全員固まる。
「はい走ってーーー!!」
暗闇さんがこっちに走ってくる。私はすかさず彼に抱きかかえられ、茶髪くんも弾けたように走り出す。暗闇さんの後ろから轟音と共に大きな火の玉が飛んでくる。
「ひいいいいい」
「なに!? 何が起きてる!? なんとか言え!」
「今止まったら死ぬってことだけは確定かなぁ!?」
「火の玉が飛んできてる!」
「ええ!?」
「こら! 走るほうに集中して!」
来た道を戻るように左に曲がる。火の玉は轟々といいながら廊下を真っ直ぐ進んでいった。
「あああぶね」
「バカ! 止まるんじゃない! 次が来るよ!」
「ぎゃー!」
茶髪くんは慌てて暗闇さんに追いすがる。廊下の突き当たりから、武装した職員たちがやってくる。
「なんでこのタイミングで来るのさ!?」
「みなさん走ってーーー!」
「後ろ! 後ろから火の玉が!」
私たちは各々叫ぶ。後ろから熱気が迫ってくる。職員たちは大きな盾を構える。鐘戸さんの姿を確認する。
「第一陣、用意──」
魔法が発動する光が見え、その向こう。廊下の突き当たりの扉が開き、加奈河さんたちを含む別の武装職員たちが見える。加奈河さんの姿を確認した途端、暗闇さんは茶髪くんの足を蹴っ飛ばし、体勢を崩したところですかさず首根っこを掴む。
「どぅわ!?」
暗闇さんはそのままボウリングの要領で茶髪くんを武装職員の方へ投げ、両手が空いたところで私を加奈河さんの頭上へ放り投げる。
「ひゃっ……」
私は加奈河さんと近くにいた職員にキャッチされる。暗闇さんの方を振り返る。彼は杖を体の前にかざし、盾持ちの職員と火の玉の間で結界を張って踏ん張っていた。
「うんぬおおおお……」
「暗闇さん……!」
「おい加奈河!」
「なんだ!」
「そこにいる職員全員で星川さんを囲んで塊になって! あいつは星川さんを生きたまま捕らえるのが目的なんだ! でも人間の区別はつかない! 人間で人間を隠して! 早く!」
「わかった! 総員! 円陣を組め!」
「ついでに魔法でシールドも作っといて〜〜〜」
暗闇さんはギリギリ耐えているが、袖や裾が燃え始めている。このままじゃいつまで持つか──。
「じゃま」
炎の人が火の玉の向こうからさらに攻撃を加える。職員たちが一箇所に集まる。とうとう暗闇さんの体が浮く。派手な音を立て、彼は大ホールの壁に叩きつけられる。壁や床や天井を溶かしながら、炎の人はホールに現れた。床に崩れ落ちた暗闇さんは動かない。
「暗闇さん!」
彼を呼ぶ。意識がないみたい。心臓が跳ねる。やだ、起きて──!
「ひ、どい」
炎の人をキッと睨む。
「ひどい、ひどいひどいひどい! なんてことするの!」
私は喚く。加奈河さんが止めようとするが構ってられない。炎の人はなおも私に手を伸ばそうとする。
「貴方なんか大っ嫌い!」
その言葉に、炎の人はたじろいだ。悲しそうな顔をする。
「そうだそうだ! なんてことするんだ!」
横で茶髪くんが叫ぶ。加奈河さん、そして鐘戸さんが彼の意図をすぐ読み取って一緒に叫ぶ。
「そうよ! ひどいことしないで!」
「あいつはな! 結構いい奴なんだぞ! 星川限定で!」
「え? え?」
私は置いてけぼりをくらう。他の職員も叫ぶ。
「人んちに勝手に入ってくるな!」
「廊下溶かすんじゃねえ! 片付け大変だろうが!」
「クソヤロー! 残業増やしやがって!」
「バーカバーカ!」
全員がわあわあと叫ぶ。人間同士の区別がつかない炎の人は、どれが目当てだったかわからずおどおどし始める。やがて全員の叫びが怒号に変わっていく。加奈河さんの肩越しに暗闇さんが立ち上がるのが見えた。
「Ia , Ia .」
ずるり。暗闇さんは折れた左足を気にせず立ち上がる。重力を無視するように彼の体は持ち上がる。いや、重力など関係ない。彼はゆっくり空中に浮かび上がる。折れた左足がゴキリと音を立てて元の位置に収まる。
「我、暗き淵より来たりし者。我、泡立つ宇宙(そら)の渦より出でし者」
暗闇さんが何かブツブツと唱えている。
「呪文……!?」
鐘戸さんが慌てる。呪文? なんの? 暗闇さんの顔のあたりの空間が歪む。周りの空気が彼の顔に向かって吸い込まれていく。全員が慌てて壁に寄る。風が強くなっていく。暗闇さんはいつの間にか、杖ではなく先が丸くなった十字架のようなものを手にしている。十字架は淡い光を放っている。彼のフードの中に闇が広がる。闇の中に星が見える。施設全体が揺れる。
「我は乞う、我は乞う。招かれざる来訪者、忌むべき異邦者を在るべき場所へ還したもう。我は願う、我は願う。彼方へ彼の者を還したもう」
ズズズと音を立てながら炎の人の真上の空間が歪む。
「時の門よ、我が願いに応えたまえ。空間の扉よ、我が願いを叶えたまえ。我は深淵より来たりし者、我は混沌の名を冠する者」
暗闇さんは輪の付いた十字架を掲げる。地鳴りが収まり、静寂が訪れる。十字架の淡い光が輪となり、大きくなり、炎の人の真上に移動する。そこにいる全員がそれを見ている。炎の人は──動けないらしい。光の輪はゆっくり炎の人に向かって降りていく。
「いやだ、かえらない! ほしのこ! ほしのこ!」
炎の人は抵抗しているようだが、体は微動だにしない。彼、もしくは彼女は、光の輪が降りる直前私の方向を見る。
「いもうと、どうして──!」
泣き出しそうな、声だった。光の輪はすっかり炎の人を飲み込むと、地面に着く前に小さくなり、ふっと消えた。静寂が満ちる。暗闇さんが空中からゆっくり降りてくる。
「……つ」
暗闇さんが前のめりになる。
「疲れた」
彼は受け身も取らず地面に突っ伏した。

 炎の体を持った人型のアーティファクトを追い出してから数時間後。私はAce-r-0083の部屋でベッドの上の男性の顔を見ていた。男性、と称したのは見る限りでは人間に見えるから。彼は、気絶した暗闇さん。顔に独特の模様がある整った顔をした成人男性で、手も足も首も視認出来ていた。彼は目を瞑ったまま動かない。寝息は立てているので生きているとわかっているけど、一向に目を覚まさないので私は不安だった。突如あのアーティファクトに侵入されたにも関わらず、彼が活躍してくれたおかげで死傷者はゼロ。お姉さんのほうの佐井登さんも施設内の別の場所で無事発見された。二度目の脱走を経てr-0083の危険度はさらに是正されるらしく、今は上層部が緊急で会議を開いているらしい。でも私はこの時周りの情報なんてどうでもよくて、ただ暗闇さんの瞼が持ち上がるのを待っていた。早く目を覚まして、またあの優しい声を聞かせて。
暗闇さんがもぞりと動く。瞼が開く。ぱちぱちと何度か瞬きをして私を見た。泣ききって疲れた私の顔を見て、彼は私の頬に触れようとする。自分の手が視界に入って、反射的に半身を起こした。
「あー……しまった、魔力使い切っちゃった……」
彼はため息をつく。私は彼の両腕の間に自分の体を収める。背中に手を回して体を密着させる。人の姿の彼の体は温かかった。
「星川さん……」
彼は私の背中をさすった。あやすようにトントンと叩いてくれる。
「もう、目が覚めないのかと思いました」
涙がにじむ。
「ちょっと疲れただけだよ。私結構頑丈なんだから」
「そんなこと知りません。暗闇さん自分のこと何も話さないんだもの」
「あー、いや、うん。そこは反論出来ないな、ごめん」
私たちはしばらくそうしたまま過ごす。どのくらい経っただろうか、加奈河さんが部屋を訪ねてきた。
「星川、ちょっと……ああ、目ぇ覚ましたのか」
「やあ、加奈河」
私たちは体を離す。
「……お前さ」
「なんだい? アーティファクトがヒーローごっこするんじゃないって? 私だってね、安楽椅子に腰掛けて人間が狂うのを笑って見てる方がよっぽど性に合ってると思うよ」
「…………」
「ちょっと好きな子がピンチだからって体張っちゃってさ。真剣すぎてバカみたい。いや実際バカだわ。すごいバカ。恥ずかしいったらないね」
彼は立てた膝に肘をついてまくし立てる。顔は笑っているが、泣いているように思えて私は彼の頭を抱きすくめる。
「なんだろうね、もう。やってることがめちゃくちゃだよね。実際施設めちゃくちゃになったんじゃない? 廊下溶けたし」
「もういいですよ暗闇さん。もういいから」
彼の頭を撫でる。暗闇さんは私の肩に顔を押し付けてため息をつく。
「なあ加奈河」
「……なんだ」
「気が乗ったから作業してもいいぞ。今なら素性吐いてやるよ」
暗闇さんは嗤った。

 加奈河さんと一緒に作業に入る。暗闇さんはもう体を透明にする気はないらしく、白いスーツのスラックスに上は黒いシャツだけの状態で私たちと対面した。三人で向かい合って座っている。沈黙が続き、最初に声を発したのは私だった。ボイスレコーダーのスイッチを入れる。暗闇さんが今度こそ音声で録るべきだと希望したのだ。
「十九時二十分、r-0083の作業を開始します」
「どうぞ」
顔は笑っているが、声はぶっきらぼうだ。
「お名前を教えていただけますか?」
「名前ね、色々あるよ。でも今はナイルでいいかな」
「ナイルさん、ですね?」
「そう、かつてエジプトにあった川の名前」
加奈河さんはビニール袋に入った、暗闇さんが使った輪の付いた十字架を持ち上げる。
「先ほど侵入したアーティファクトと戦った際、この物品を使いましたね。これは古代エジプトのヒエログリフ、アンクに酷似しています」
「酷似もなにも、そのものだよ。現世と来世の境界を越えるための通行証。私が本来使っている魔法を行使する道具」
「……このアンクを使って使用した先ほどの魔法の詳細を教えてください」
「ああ、あれね。あれは星の外、宇宙から飛来した生物……君らは神と言うけど。そういう奴らを強制的にもといた棲処へ転送する魔法。一度使えばそいつはしばらくこの星には戻ってこれない。今回かなり遠くへ飛ばしたから、数万年は帰ってこないんじゃないかな。安心していいよ」
加奈河さんと交代で質問を投げかける。
「先ほど施設に侵入してきたアーティファクトについて知っていることを教えてください」
「……あれは炎の精霊、と言うのが一番伝わりやすいかな。生ける炎。君たち人間が認識しない範囲に昔から存在した生物。今回侵入してきたのはそれの子供のほうでね。親はもっと大きい。親の方が接触してきたらこの施設全部溶けてたと思うよ。危なかったね」
「貴方はその生物を昔から知っているのですね?」
「そうだよ。あれらが存在するよりさらに前から私は生きている。この宇宙が誕生したその瞬間からね」
「……そうおっしゃいますが、姿は人間のように見えます」
「そりゃあ、化身の一つだからねこれは。そうだ、丁度いい。今私の顔を見ている二人に私の容姿を聞こうか。どういう姿に見える?」
加奈河さんと顔を見合わせる。先に加奈河さんが発言する。
「どうって、長めの黒い髪に中性的な顔立ちの若者……ですよね? 肌が浅黒い……」
「えっ?」
私は加奈河さんと暗闇さん、もといナイルさんの顔を見比べる。
「……私には薄い茶髪に切れ長の目をした壮年の男性に見えます。肌の色は白で、顔にちょっと変わった模様の刺青が入ってて……」
加奈河さんは驚いて私と暗闇さんを見比べる。二人で見えているものが違うらしい。
「……どうなってる?」
「人としての私の容姿は観測する側が望む姿になるのさ。この施設に入ってきた時から今まで姿を隠していたのは、職員の話が食い違うのが予想出来たしその整合性を取るのが面倒でね。あと透明な方がミステリアスだろ?」
「貴方を見る人間によって容姿が変わると?」
「そう」
「どの姿が正解なんですか?」
「もちろん全て正解だし、全て不正解だよ。私にとって顔はあってないようなものだから。そもそも人間じゃないしね」
「……無貌の男」
「その呼び方は久しぶりだ」
「無貌の男?」
「以前、この会社の所持する……別の地域の施設にもアーティファクトが侵入した。そのアーティファクトは人の姿をしていたが顔にあたる部分が“なかった”という。……それも貴方だと?」
「いや、私じゃあないよ。そいつはね」
「どういうことでしょう……?」
「私の化身はそこらじゅうにいてね。その施設に侵入したのは“別の私”だ。言い方を変えようか、ここでナイルと名乗った者とその無貌は別の個体だ」
「いくつも体が存在していると?」
「まあ、そういうこと。だから全部本物だし、全部偽物。私はここにいるし、ここにはいない」
「……難しいですね」
「人間には理解が及ばないだろうね。私はそういう存在だ」
こちらが聞きたい情報がある程度出たため加奈河さんは話を締めようとするが、私がそれを無言で制する。一つ、記録に残しておかなければならないものがある。
「……これまで貴方は、作業員を気まぐれで殺したとおっしゃっています」
暗闇さんは私の顔を見る。
「そうだけど?」
「今回、侵入したアーティファクトに対し貴方は抵抗しました。そのおかげでこの施設の職員は全員怪我すら負わずに済んでいます」
「……何が言いたい?」
「人を助けたのも、気まぐれですか?」
これは記録に残しておかなければならない。そうしなければ、彼はただの殺人者として記録される。彼の人間性は無視される。私は目で訴える。お願いだから、本当のことを言って。加奈河さんが見守る中、私と暗闇さんは見つめ合う。彼に表情はない、何も言わない。お願い、と私はまた訴える。彼はふ、と微笑う。悲しそうだった。
「いや? 気に入った職員がいたから、その職員の生存を最優先した」
「……質問は以上です。十九時五十六分、作業を終了します」
録音を止める。加奈河さんはボイスレコーダーと書類を持ってすぐ立ち上がる。
「……ごゆっくり」
加奈河さんは部屋から立ち去る。私は俯いたまま、暗闇さんは肘をついて壁を見つめたままでいる。お互いに触れもしない。ようやく暗闇さんが口を開く。
「君がそんなに残酷だとは思わなかったよ」
「……あのやりとりがなかったら、おそらく上層部は貴方を厳重に封印してしまうと思ったので」
「当たり前だろ。それに、それが正しい対応だよ」
「そんなことになったら私が後悔する」
「いいや」
暗闇さんは怒りを含んだ声を出す。顔を上げると、彼は悲しそうな顔で静かに怒っていた。
「最後に余計な質問を入れたと、君は後悔するはずだよ」

 後日、炎の精霊のせいで溶けた廊下と大ホールを通りかかる。復旧が困難なほど溶けてしまったようで、封鎖をして別の道を増設するらしい。それに伴って何体かのアーティファクトも収容部屋を移動になるそうだ。大工事が始まる準備で職員たちは忙しく動いている。
「あーあ、チーズみたい。ダリを思い出すね」
そう茶化すのは、暗闇さん。彼は相変わらず白いスーツに黒いシャツを身につけていた。違いといえばもう透明ではないことと、黒いストールをフード状ではなく肩からやや垂らす形にしたことだろうか?
先日の報告書と録音を受け取った上層部により、暗闇さん、もといr-0083『ナイル』には褒美と罰が同時に与えられた。褒美は、施設内を職員付きで自由に歩けること。罰は、職員に危害を加えた瞬間炸裂する魔術仕込みの拘束具を首と腕と腰に装着すること。そして危険度はさらに是正され、Unknownとなった。彼が本気で暴走すればAce級を上回ると判断され、最高位の危険度が新設されたのだ。
私は暗闇さんの顔を見上げる。笑顔で、嬉しそうだ。チーズになってしまった廊下に視線を戻す。
「暗闇さんだったらあの溶けた廊下も戻せそうですよね」
「まあね。でも労働はしないよ、そういうのは暇な奴がやるのさ」
「皆さん暇で仕事しているわけじゃないんですけど……」
再び彼の顔を見上げる。今度は口の端を持ち上げて嗤っている。あと目の色が変。それ何色? 玉虫色? 青色?
「……何考えてるんですか?」
「封鎖された後の廊下に職員を放り込んだらさぞ怖がるだろうと思ってね」
暗闇さんは地の底から響くような嗤い声を出す。どうもこっちが本来の笑い方らしい。
「実行しないでくださいね。おイタされますよ」
「今の状態に色々工夫すれば罰を受けずに行えそうだけど、そこまでしてやる旨味はないね」
「発想が物騒すぎます」
「何を今更」
 今回の暗闇さんの行動により色んなことが動いた。まずはこの会社のクラウド、およびネットワーク回線の復活。暗闇さんを一番最初に記録したあの音声データ。あれはネットワークで悪さをするウイルスになっていたのだけど、それに対しこの前録音した音声データが薬の役割を果たすらしく、すぐにクラウドにアップされた。“薬”は壊滅したように見えたデータを全て復活させ、今もネットワークの中を治療して回っている。次に、暗闇さんの処遇。褒美と罰が同時に与えられた以外に、彼にはアーティファクトの処置に対する指南役としての仕事が与えられた。暗闇さんが持っている情報量は多く、口を塞ぐより喋らせる方が有用だと上層部は判断したらしい。暗闇さんはアーティファクト同士による監視と管理のシステムを構築した。もちろん以前にその案がなかったわけではない。しかし人の手によるアーティファクトの調査が完璧ではなかったことから、アーティファクト同士を組み合わせても意味がなかったり、かえって悪化させてしまった経緯があり会社はこのシステムの完全な構築には手を出せないでいた。彼の介入により人手をかけるべきところにはかけ、かけなくて済むところはかけなくていいようになり、あらゆる職員の負担が激減。これはこの施設だけではなく他の区域の施設にも恩恵をもたらした。
「こんにちはーナイルさーん」
「やあ、円衣さん」
廊下を歩いていた円衣さんが暗闇さんに声をかける。暗闇さんは笑顔で彼女に手を振り返している。アーティファクトが施設内を自由に行動する状況は前歴がなかったが、彼はすぐに周囲と打ち解けた。人間に興味がないと言っていたのは、果たしてなんだったのだろう?

「嬉しそうですね」
 さらに数日後、私はオフィスで書類をこなしていた。暗闇さんは今朝私のデスクの隣に自分のデスクを要求して、そこに座っている。
「四六時中星川さんを見ていられる環境っていうのは、いいよねえ」
暗闇さんはそんなことを言いながら、いらなくなった書類で紙飛行機を作っては私の方へ投げている。紙の裏や余白には様々な言語で愛の言葉を書いているらしい。もちろん私は読めない。ある程度紙飛行機が机の上に溜まると、下にあるゴミ箱に落とす。ということをさっきから繰り返していた。
「はー、デレデレしちゃって」
「鼻の下伸ばしてないで仕事をしろナイル」
暗闇さんにツッコミを入れているのは加奈河さん、そして女性の方の佐井登さん。新人が採用されてから二週間が経ち、全員がそれぞれの部署に腰を落ち着けていた。K-r-0083の部署には私が来るまで加奈河さんと臨時の職員しかいなかったが、今のU-r-0083の部署にはアーティファクト本人に加え私、加奈河さん、佐井登さん、そしてもう一人。
「仕事しないと……呪いますよ……王」
そう発言するのが新しいこの部署のメンバー、雨江嶋(うえしま)さん。目元が隠れるほど長い前髪、重量感のある長いストレートの栗色の髪。小柄でぎょろりとした目の女性。彼女は元々魔術部署の職員だったところを、暗闇さんの自由行動に伴い監視の意味を含めて異動させられた。職員ランクはBプラス。加奈河さん曰くベテランらしいのだが、昇級を望まずBの枠に収まったままになっているそうだ。彼女は暗闇さんを王と呼び、敬いの姿勢を見せている。
「かける呪いは……そうですね……王が靴を履く時に必ず小石が入り込む。というのは、どうでしょう……」
「君の呪いはなんでそんなにちまちまねちねちしてるのさ!?」
「いいな、それ。毎日継続してやってくれ雨江嶋」
「君も乗るなよ! 助けて星川さ〜ん!」
「知りませーん」
「えーん!」
「はいはい仕事してくださいナイルさん」
仕方なさそうに暗闇さんはタブレットを開く。彼が主にやっているのは組み合わせたアーティファクト同士に問題が生じていないかのチェックと、ネットワークを回復して回っている“薬”の監視だ。神だからなのか、地頭がいいからなのか、最近は科学部署の仕事も一部手伝っているそうだ。
「んー……」
ちらっと暗闇さんの顔を見る。ペンを顎に押し付けてタブレットの画面を睨んでいる。書類に集中しつつ聞いてみる。
「どうかしました?」
「うーん、T-t-0079とQ-o-0019が若干……なんて言ったらいいかなこれ。不仲? に、なってるんだよね」
「不仲? そもそもあの二体って仲良しでしたっけ?」
「いやぁ、別に仲良しじゃあないんだけどね。もう少し関係が良好だったはずなんだけど、どうしたんだろう……」
「気になるなら見てきます?」
「移動するなら俺が一緒に行くぞナイル。別部署に届ける書類がある」
「やだ、行くなら星川さんと行く。表情筋の死んだ男と行きたくない」
「おい雨江嶋、さっきの呪いってどうやるんだ? 教えてくれ」
「加奈河さん……とうとう魔術に手を染めるんですね……? いいでしょう……私がノウハウを叩き込んで差し上げます……」
「えーん! 顔面鉄男がいじめるー!」
「ふっかけたのナイルさんの方じゃないですかー」
「自業自得ですね暗闇さん」
「加奈河と行くとせっかくの自由行動に旨味がないんだよ。視界に華がない」
「おう、やんのか」
「あん? やんのか?」
「加奈河さんと仕事したら星川ちゃんポイントを三十ポイントあげてもいいかなー」
「そのポイント今日使えます?」
「三十ポイントだと星川ちゃんと一緒に食べるプリンに交換出来まーす」
「おい、さっさと行くぞ加奈河」
「お前本当にちょろいよな星川限定で!」
暗闇さんと加奈河さんがなおも軽口を叩きながらオフィスを後にする。部屋の中に静寂が訪れる。
「……加奈河さんとナイルさんってなんだかんだ仲がいいなと思うんですけど」
「仲良いですよ。本人たちは認めないけど」
「やっぱり」
「加奈河くんは……コツコツ仕事をするタイプだから魔術の研鑽には非常に向いているんだけど……残念ながら魔術的な彼のステータスは並以下なので……習得は難しいと思います……悲しい……」
「加奈河さんって魔術耐性低いんですか?」
「耐性だけじゃなく魔力保有量とかもね……全体的に低いの……。本当に素質ないの……可哀想に……」
「あれ、じゃあ加奈河さんって魔法かけられたらすぐ効いちゃう……?」
雨江嶋さんはゆっくり頷く。
「だからもし……王に本気で魔法をかけられたら……一発でころりといってしまうでしょうね……」
「相性最悪じゃないですか」
「暗闇さんの手の平で転がされているのね加奈河さん……」
「可哀想な加奈河くん……」

 書類を届けに行ったきり二人が帰ってこないので、私はT-t-0079とQ-o-0019が収容されている部署へ報告書を持って移動する。そろそろ暗闇さん自身の作業時間なので、戻ってきてくれないと困る。目的の収容部屋の近くへたどり着くと暗闇さん、加奈河さん、そして科学部署の数人が窓越しに中の様子を見ながら何か話している。
「暗闇さーん、加奈河さーん」
「ああ、星川さん」
「そろそろ作業なので戻ってきてもらいたいんですけど、こっち大丈夫ですか?」
「あれ、もうそんなに経った?」
「経ちましたよー」
「おす」
「どうも」
一緒にいた科学部署の職員の中にいつぞや私を睨みつけていた茶髪くんこと、立勝田(たかだ)さんがいた。彼はやはりキャリア志望で入社したらしく、自分より先にランクが上がった私を敵視していたらしい。炎の精霊の騒動の後、彼は態度が落ち着きあからさまなケチはつけて来なくなったが、依然として私をライバル視している。立勝田さんは頭のいい人で手先も器用だったため科学部署に所属を決めた。
「どうしたんですか? みんなして?」
「いやあそれがねえ、なぜかQ-o-0019の方の個体数が減っててね」
「いなくなっちゃったんですか?」
「部屋の中に入って全員で探したんだが、どうにも見つからなくてな」
「あら、変ですね」
全員でもう一度部屋の中を見つめる。Q-o-0019は蝶のような見た目をしている。蝶のように見えるだけで、実際は羽に付いてる目玉模様は本物の目玉だし胴体に見える部分は口になっていたりと、かなり恐ろしい様相をしている。Q-o-0019は目のある生き物が見ている限りは暴走しないので、T-t-0079が同じ部屋にいる限り決して暴れないはずなんだけど。
「……後でもう一度来よう。戻るぞ、ナイル」
「んー……そうだね、そうしよう。悪いね科学部署からわざわざ来てもらったのに」
「大丈夫ですよ。我々が引き続き観察しておきますから」
「じゃあ、また後で。戻ろうか、星川さん♡」
「俺の前で部下とイチャつくな」
「はいはい口喧嘩もしない」
 暗闇さんの作業を終え、昼になったのでみんな食堂へ移動する。私は食事と柔らかい方のプリンを二つ購入している。席はすでに暗闇さんが取っているので戻る。加奈河さんは書類を出しに行った。多分、監査の仕事。
「じゃあ原因よくわからなかったんだねー」
「そうなんだよ」
円衣さんと暗闇さんが話している。今日は鐘戸さんがおらず、駿未さんが座っている。
「急に減ったっていうのも変な話だよねえ。昨日までは全部いたって他の職員が報告してるし」
「ねえー?」
「どこに行っちゃったんですかね、0019」
私は座りながら会話に加わる。プリンを暗闇さんの前に置く。彼はすぐに口をつけない。
「君たちは消えた0019が行きそうな場所ってどこだと思う?」
「うーん、どこだろうねえ」
「円衣さんはー、f系の収容部屋だとおもうなー。0019は元々森にいたし、似た環境に行きたがると思うー」
「うーん、森でいうなら収容部屋そのものが擬似森林なんですよね……」
「そうなんだよー!」
「脱走したわけではないし、やはり収容部屋の中にいると考えるのが妥当だよね」
みんなは話しながら食事をし、暗闇さんはタブレットで0019のいる部屋をもう一度確認している。
「……あ」
暗闇さんが顔を上げる。
「何か思いついたのナイルさーん?」
「あー……可能性としてはあるなー、というのを思い出した……」
「また自信なさそうですね」
「実際に見たことないからね……」
「見るって、何を?」
「食事中に言う話じゃないと思うから後でね」
「ああ、なんとなくわかったよ僕は」
「えーっ!? 何ー!? 円衣さんも閃きたい!」
やりとりを聞きながらプリンを開封する。暗闇さんはようやくプリンに手をつける。
「星川さんってプリン好きだよね」
「そうですねー。ここに来る前はそんなでもなかったんですけど、加奈河さんのおかげですかね」
加奈河、という名前を聞いて暗闇さんは不機嫌になる。
「入社してすぐ食堂のプリン美味しいよって教えてくれたんですよ」
「おのれ加奈河……」
「ナイルさんは星川さんのことになると余裕がないねえ」
「だって私の星川さんなのに……」
顔に恨めしいって書いてある。ああ、プリンをスプーンでいじめないであげて……。
「はい、暗闇さん。あーん」
「あーん」
プリンを口に入れるとあっという間にご機嫌になった。ちょろい……あまりにもちょろい……。
「お返しに、あーん」
「ほ。……あーん」
「ひゃー、ラブラブー」
「わー僕仕事山積みだし早々に退散しようかなー」
「あーんされるほうがすごく恥ずかしいです……」
「星川ちゃん顔真っ赤だよ!」
「今後こういうのは二人きりの時にします……」
私は熱くなった顔を両手で扇ぐ。
「フフフ赤くなった星川さん可愛い」
「もう」
私たちはデザートを食べ終え、お茶を飲む。
「で、結局0019が減った理由なーに?」
「ああ……多分ね、交尾」
「だよねえ」
「え!? ななななんで交尾で数が減るんですか!?」
「ああ〜、円衣さんも納得」
「皆さん納得してるみたいですけど全然わかりません!?」
「カマキリと一緒だよー。交尾した後メスがオスを食べちゃうのー」
「食べる!?」
「捕食しちゃうんだよ」
「捕食!? だ、だって夫婦……つがいでしょ!?」
「子供の育て方が違うからつがいっていうシステムがないんだよ。この後確認に行くけど、減ったのがオスなら間違いないだろうね」
「ひえー」
なにそれ、怖い。0019たちの間には愛とかないのかしら……。
「ああ、そんなこと言ってたら科学部署から連絡が飛んできた」
「ややっ、円衣さんを差し置いてナイルさんに連絡とは!」
「君のところにも連絡行ってるんじゃない?」
円衣さんは社内用の端末を触っている。
「メール来てなーい」
「そのうち来るでしょ。じゃ、僕お先に失礼するね」
「あら、またお仕事山積みですか?」
「うーん、どっちかと言うと野暮用かな」
駿未さんはまたね、と言い去っていった。
「連絡はなんてー?」
「“0019の交尾とそののちに捕食を確認”だってさ。予想当たったみたい。0019って収容されてから何年ぐらい経ってる?」
「んーとねえ、六年ぐらいかなー?」
「じゃあ十年周期とかそれ以上の周期で交尾してるんでしょう、おそらく。今まで目撃情報なかったわけだから」
「なるほどねー」
 全員と解散して暗闇さんと共に廊下を歩く。
「0019が減った理由はわかったんですけど、0079との関係が悪くなったほうはどうなんですかね?」
「捕食を見て怯えたんだと思うよ。0079って性質的に穏やかじゃない?」
「ああ、なるほど」
暗闇さんが廊下の端に寄っていき、壁に寄りかかる。
「星川さん、ここおいで」
「え? なんですか?」
そばに寄ると同じように壁に寄りかかるよう示される。
「ここねえ、絶妙にカメラの死角になっててね」
「死角とかあるんですか、ここ」
あっちゃいけない気がするんだけど。
「ほんの二人分の幅だし、上半身程度だけどね。内緒話するにはいいでしょ?」
「内緒話ですか?」
「だって見られっぱなしって疲れるじゃない」
「まあ、確かに」
「プライベートがないなぁって思っててね」
「……つまり?」
話がいまいちわからない。
「星川さんとキスがしたくて」
「え」
暗闇さんは穏やかに笑っているが、目は真剣だった。
「してもいい?」
「い、今ですか……?」
「そう」
「キスってあの、どこに……?」
「どこがいい?」
「う、あの。そういうのほぼ経験ないので……」
「あれ、そうなの?」
「お、お好きなところにどうぞ……」
私は目を瞑る。暗闇さんの手が顔に触れる。心臓が激しく跳ねる。喉から出ていっちゃいそう。暗闇さんは私の前髪をかき分けて額に口付けた。終わったと思い、目を開ける。
「お返ししてくれてもいいんだよ?」
暗闇さんの顔が目の前にあった。心臓がぎゅっと締まり、顔が熱くなる。暗闇さんが目を瞑る。お、お返し? 唾を飲み込む。男の人に自分からキスしたことなんてない。顔が一層熱くなり鼓動が早くなる。私は悩んだ挙句、暗闇さんの頬に口付けた。頭から湯気が出ているんじゃないだろうかと思うほどに熱かった。
「戻ろうか」
「は、はい……」
午後、まともに仕事出来るだろうか……。そんな不安を抱えながら二人で部署へ戻った。 

 先ほどの出来事を思い出さないよう自分を誤魔化しながら仕事をこなす。ふと時間が気になって見上げる。あと十五分で五時になるところだった。視界に出勤確認用の電子掲示板が目に入る。私がここに来るまで0083の部署には加奈河さんしかいなかったと言ったけれど、実はそれは正しくない。加奈河さんはあくまでAクラス職員のいち職員であり──監査員という側面もあるけれど──署長ではない。顔すら知らないが、一応署長がいる。名前しか存在していない署長、それが刻浦 乃亜(ときうら のあ)という人だった。どんな人なのか、男性か女性かもわからない。以前気になったので加奈河さんに聞いてみたのだけれど、会えたら紹介するとの一点張りで何も教えてもらえなかった。今日こそ、と思い再び聞いてみる。
「今日も刻浦さん来ませんでしたね」
「ん? ああ、忙しいんじゃないかな」
佐井登さんも会話に加わる。私同様に気になっていたのだろう。
「刻浦さんって、どんな方なんですか?」
加奈河さんは書類に顔を向けたままちらり、と周りを見る。暗闇さん以外の三人がじっと加奈河さんの回答を待っていた。この感じだと、雨江嶋さんも刻浦さんを知らないみたい。
「うーん……説明が難しいんだよな」
「以前私がお聞きした時も、加奈河さん答えに困ってましたよね?」
「まあ、うん」
「暗闇さんは刻浦さんご存知ですか?」
「いや? 星川さんたちと同様、名前しか知らない」
「おや、ますます謎の人ですね……」
「私も気になるね。ねえ加奈河、署長がどんな人物か一つずつでいいから小出しに教えてくれない?」
「小出しに……ああ、うーん」
加奈河さんは腕を組んで天井を仰ぐ。
「そうだな、まず容姿とか」
暗闇さんがヒントを出す。
「容姿……年齢が俺より上だと思うんだが、ぱっと見は変わらないぐらいに見える」
「実年齢より……若いんですね……」
「うん。あと……灰色の髪をしている」
「灰色ですか?」
「銀髪ってことですかー?」
「いや、文字通り灰色なんだ。国籍がどこだか知らないが珍しい髪の色なんで、会ったらすぐわかる。はず」
「へえ、なるほど。続けて」
「えーと、容姿だったな……漢字の名前ではあるんだがさっきも言った通りどこの国出身なのかわからない程度には日本人からは遠い見た目だ。肌が白いし目は青い」
「あら、白人系なんですか。意外」
「仕事のために日本国籍を取ったのかもねえ」
「なるほど……」
「刻浦さんの性別教えてくださーい!」
「男性」
「あら、乃亜なんてお名前だからてっきり女性だと……」
「私も女の人かなって思いました!」
「俺も顔を見るまでは女性だろうと予想してた。当て字なんじゃないかな……英語圏にノアって男性名あるし……」
「ほほう」
「……あとなんて説明したらいいかな」
雨江嶋さんが挙手をする。どうぞ、と加奈河さんが言う。
「他に特徴的な……見た目は……?」
「ああ。うーん……いわゆるイケメンだと思う。あと俺以上に表情筋が動かない」
「え!? 顔面鉄男以上に動かないの!?」
暗闇さんが思わず前のめりになる。
「お前な!」
「はいはい、煽らない!」
椅子から腰を持ち上げて加奈河さんと暗闇さんに割って入る。
「ええ……信じらんない……感情あるの? そいつ」
「それは本人に聞いてくれ。本当に眉根の一つも動かさないタイプでな……俺も彼が何考えてるかちっともわからないんだ」
「聞くほどミステリアスが増しますね刻浦さんって……」
「ううん、私以上にミステリアスとかやるなそいつ……」
「暗闇さん、妙なところで張り合わないでください」
また雨江嶋さんがゆっくり手を上げる。
「刻浦さんの……お好きなものは……」
「もうその辺になってくると本当にわからないぞ。ただ喫煙者だし煙草は好きだろうと思う」
「え、煙草って紙で巻いてある、あの?」
「そう。珍しいよな、そんな古いもの好きなんて」
今やニコチンパッチか電子タバコが主流の時代だ。煙が実際に出る紙の煙草が好きなんて、よほどの愛好家だろう。
「煙草の似合う壮年のミステリアスイケメン……」
「しかも実年齢は不明!」
「知るほど……不思議な人……」
全員、ますます気になってきたので加奈河さんに視線を向ける。続きが聞きたい。
「はい質問。署長のくせに常にいないのはなぜ?」
暗闇さんが核心的な部分を尋ねる。加奈河さんは一度口を開けて、閉じる。
「……そこなんだよ、説明の難しいところ」
加奈河さんは肘をつき右手で顔を覆う。はあ、とため息をついた。
「仕事の話で彼を話題にあげるのが難しいんだよ……俺も未だによくわかってない」
「あれまあ」
「あと知ってることはほぼ憶測だしな……」
その言葉で、私はピンと来る。もしかして、監査員以外にも他の職員に紛れて仕事をしている部署や役職があるのかも。私はさっと手を上げる。加奈河さんがどうぞ、と手で示す。
「若干回りくどい質問なんですけど、あの、監査員って他の部署の職員に紛れているじゃないですか?」
加奈河さんはおっと言う顔をする。言葉を続ける。
「監査員以外にも、他の職員に紛れながら仕事をしている役職とか部署ってあるんですかね?」
「……多分ある」
「ははあ。私ちょっと予想つきました」
佐井登さんが驚いた顔で私に突っ込む。
「すみません! あの、まず監査って他の部署の職員に紛れてるんですか!?」
「佐井登さんは……知らなかったのね……監査の仕組み……」
「知りません! え、私だけ!? やだー!」
私は以前駿未さんから聞いた監査員の仕組みや理由を述べる。賄賂の防止、それから部署間の抗争を防いだりなど、潜むことで色々な抑制になっていると。
「──っていう。他の方の受け売りなんですけども」
「ひええ! じゃあそれって知らない間に監査員に遭遇してるってことですか!?」
「極端な話……全く遭遇していない……という場合も起こりうるの……。なにせ所属している職員の顔と名前は公表されない部署なものだから……」
「え、なんでしたっけこういうの。ニンジャ!? みたいですね!」
加奈河さんが口元を手で覆っている。笑ったみたい。その監査員さんが貴方の上司なのよ、とも言えないので私も苦笑いをする。暗闇さんがそれを聞いてニヤリとする。
「なるほど。上手く出来てるね」
「そう思います?」
「人間にしてはね。なあ加奈河、その監査っていうのはこの施設の上層部じゃない?」
加奈河さんが急に真顔になる。えっ、と三人で男性たちの顔を見比べる。
「だって、他の職員をどの部署に動かすか決めているんだろう? それ、本当なら人事の仕事だよね。でもこの施設、人事は別に存在する」
「あ、言われてみれば……」
総務も人事も普通にある、ということを私は忘れていた。
「実際に異動をさせるのが人事。その前の段階であちこち見て回っているのが監査。監査がヒエラルキーの上と考えれば納得出来る。どう?」
加奈河さんは眉間にしわを寄せ目を瞑る。
「……うーん、残念ながら監査は上層部とは言い難い。と思う」
あ、ちょっと言葉を濁した。
「あれ、違った? なんだ」
「あくまで噂だが、」
加奈河さんはなにやらペンと消しゴムを紙の上に置いていく。
「この消しゴムが、施設のトップ。所長」
みんなが加奈河さんの手元を覗き込む。
「その下に監査、総務、人事、本部……という感じではなく。総務も監査も他の部署と扱いは変わらない。アーティファクトを収容している部署と対等な立場にある」
加奈河さんは手元で一度ピラミッドのように並べたペンを崩して、縦向きにしてぴったり並べる。並んだペンたちは同じ高さで整列している。
「監査と人事が分かれているのは職員の数が多いせいだろう。全て一部署でやるのはちょっと無理がある、と」
「ええ、そんな理由? つまんない」
「ナイルが上層部と呼んだものは存在する。つまりここ、他の部署と所長の間」
加奈河さんは置かれた二つの隙間を指でトンと叩く。
「部署なのか、部署とは違うシステムなのか。人数やどういった人物が所属しているかなど一切一般職員には知らされていない。所長のみが人数と顔を把握している、所長の補佐……が、いるはずなんだよ」
「はず、ってことは加奈河さんも詳しくは知らないと?」
「知らん。俺だって一般職員だぞ」
「まあ、そうですよね」
「ねえ。この上層部、確実に存在してるの?」
「いないと説明がつかないところがあってな。だからなんというか、勤続年数の長い職員同士ではいるだろう、という噂になっている」
「本当に噂なんですねえ」
「誰も知らない上層部……なるほど……。刻浦さんはこの上層部の可能性があるのね……」
「うーん、数字はある程度誤魔化せるのに、実際に職員に混ざってる必要は……あるか。監査の見張りとして立ち回っていたりするんだね、こいつら」
「その辺もわからんな……。まあ、つまり俺は刻浦さんに関して詳細を知らない。詳細がわからなさすぎるゆえに上層部じゃないかと疑って──」
加奈河さんが机から顔を上げ、そのまま固まる。加奈河さんの目線を全員で追うと、部署の入り口にいつの間にか男性が立っていた。濃い灰色の短髪で色白で青い目。短い煙草を片手にした──。
「と、刻浦さん」
加奈河さんが彼の名前を口に出す。全員、口を開けたまま彼から目を離せない。
「面白そうな話をしている、と思って聞き入ってしまったよ」
加奈河さんとそう年の変わらなさそうな男性、刻浦さんは煙草の吸い殻を携帯灰皿に入れる。そして、制服の胸ポケットから次の煙草を取り出して火を付ける。扉に寄りかかり煙草をくゆらせる。
「どの辺りからお聞きに!?」
「扉越しも含めるなら、私に関するクイズを出し合っていたあたりからかな」
「最初からじゃないですかぁ!」
加奈河さんが珍しく焦る。私たちは顔を見合わせて何も言えない。暗闇さんは腕を組んでじっと彼を見つめている。刻浦さんも、暗闇さんを見ている。静けさと彼が煙草を吸う音だけが部屋に響く。
「……0083が本当に部署の中で職員と仲良くしているとはね」
「初めまして、刻浦署長?」
暗闇さんはニヤリと笑う。またそうやって挑発的な態度を……。
「初めまして。よくも私の部下を次々殺してくれたね」
「ああ、そんなこともあったね」
「おいナイル、黙っておけ」
刻浦さんは扉に寄りかかってたのをやめて部屋の中に入ってくる。そして彼は煙草を左手に持ち替え、私の頭上に手をかざした。え、な、なに?
「星川くん」
ふわりと甘い煙草の香りが漂う。私の名を呼び、彼は私の頭を撫でる。
「え、は、はい」
「佐井登くん」
「は、はい!?」
彼は佐井登さんの頭も撫でる。そして雨江嶋さんの頭も撫でる。
「雨江嶋くん」
「はい……そうです……」
「加奈河くん」
刻浦さんはさらに加奈河さんの頭も撫でた。なぜか彼だけ髪をくしゃくしゃにされる。
「おああ」
なんだ? と全員で彼を見る。
「改めて、よろしく。名前は知っているね。刻浦 乃亜という。生まれはアメリカの西部だ」
「アメリカの方!?」
「あ、どおりで色白……」
刻浦さんは色の薄い青い瞳でじっと暗闇さんを見つめる。暗闇さんも見つめ返す。刻浦さんは右手を差し出し握手を求める。暗闇さんは一瞬悩んだけど、握手を返した。
「敵対するのは簡単だ」
「まあね、確かに」
「だが君がしたことも忘れない」
「それはどうも、ご親切に」
「見た目の割に言動は青年のようだね、君は」
「どう見えてるか知らないけど、私結構長生きしてるんだよ。まあ人じゃないし? 見た目はどうでもいいよ」
「ほう、そうか」
「それを言うなら君こそ見た目の割に老人のように話すじゃないか。一体何歳なんだい?」
刻浦さんはぴくりとも表情を変えない。確かに、これは感情が読めない。刻浦さんが全員に視線を送る。ふ、と彼は目を伏せた。笑ったのだろうか?
「ご想像にお任せする。……ところで君たち」
「はいっ」
暗闇さん以外の全員背筋が伸びる。みんなで彼に聞こえるように噂話をしていたせいで気まずい。
「とっくに退勤時間だよ。早く支度なさい」
「は、はい! すみません!」
みんな慌てて片付けを始める。刻浦さんはと言うと、普段誰も触らない彼のデスクに腰掛ける。
「手を動かしながらでいいから、耳だけ貸しなさい。いくつか疑問に答えよう」
「え、はい」
「……なんですか?」
刻浦さんは煙草をふかす。甘い匂いがだんだんと部屋に充満する。
「君たちは私が普段部署にいない、と言っていたね。それは違う。勤務時間が違うだけだ」
みんなで顔を見合わせる。
「なるほど、それで遭遇しないのか」
「君たちが退勤した後から私の仕事は始まるのでね。加奈河くんとだけ遭遇しているのはそういうこと。加奈河くんは残業も多いからね、真夜中まで仕事していたり。健康に悪いし褒められた話ではないんだけれど」
「うぐ……」
加奈河さんが気まずそうにしている。でも上層部の人だとしたら監査の大変さは知っているだろうに。
「あの、でも私も加奈河さんと残業していますけど一度もお目にかかったことは……」
私はこれまで偶発的に起きた残業などを思い浮かべる。ああいう日に遭遇していてもおかしくないはずだ。
「それはもちろん、二人同時には遭遇しないように見計らっていたからだよ」
「えっ、そんなニンジャみたいな」
上層部は本物のニンジャなのでは? と一瞬考えてしまう。刻浦さん以外の全員が吹き出す。
「星川さんそれを本人に言っちゃ……」
笑いをこらえきれない佐井登さんは肩を震わせている。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「……なるほど。では私は明日から手裏剣を持って歩こう」
顔色も変えず冗談言うのこの人!? 加奈河さんはツボに入ってしまったのか肩を震わせたまま机に突っ伏している。佐井登さんも雨江嶋さんも支度をしながらふすふすと笑っている。
「手裏剣より、クナイのほうがいいだろうか? 星川くんの好きなほうに合わせよう」
「いえ、あの、例えです! 本気になさらず!」
「もちろんだとも。冗談には冗談で返すものだよ、星川くん」
「えっそういう流れですか!? ええと上手い返しが思いつきません!」
「純真で可愛いね、この子。加奈河くんもそう思うだろう?」
加奈河さんは笑いをなんとか抑えて頷いている。暗闇さんがむすっとしている。またヤキモチかしら?
「加奈河くんが顔面鉄男なら、私は岩盤といったところだろうね。そのせいでよく勘違いされるが、私は結構ポジティブだし冗談も好きだよ」
顔面岩盤男を自称したせいでまた全員吹き出す。暗闇さんは片眉を持ち上げる。
「それ自分で言う?」
「鉄面皮は昔からでね。妻以外に私の表情を読み取れる人物に出会ったことがない」
「ポーカーとか得意そうだね署長は」
「ギャンブルはよく勝つよ。だが得意なのはスロットだな」
「ギャンブルなさるんですか?」
「ベガスのカジノに縁があってね、身内話だが。君たち、手が止まっているよ」
「ああ、本当だ。みんな早く行かないと夕食に間に合わんぞ」
「そうね……署長とお話はしたいけれど……行かないとね……」
「そうですね。では刻浦さん、失礼します」
「ああ。皆さんごきげんよう」
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう……」
「お先に失礼します。行くぞナイル」
「私は残るよ」
「え? どうして?」
「署長に興味がわいてね。職員と行動を共にしているなら誰でもいいだろう?」
「えー、一緒にデザート食べようと思ったのに」
「星川さ〜ん! 嬉しいけど明日! ね!」
「仕方ないですねー」
 暗闇さん以外のメンバーがオフィスから出て行く。うっかり喧嘩とかにならなければいいんだけど……因縁のある間柄だし。
「夜勤なんですねー刻浦さん」
「夜勤の可能性を失念してたな……。言われてみればほぼ夜中に遭遇してたのを思い出した」
「そもそも夜勤が存在したのね……この会社……。あと……そんなに真夜中まで仕事をしていたの……? 加奈河くん……」
「新人の頃は特にな。書類を山積みにしがちで、何度か睡魔に負けて書類によだれ垂らしてたりしてた」
「加奈河さんにもそんな時代があったんですねえ」
「今はもう完徹は無理だな」
「徹夜しない方がいいですよー。刻浦さんも言っていましたけど寝不足は健康に悪いですしー」
「そうだな。終わらなければなるべく後日に回すよ」
「部下にも分けてくださいね!」
「あ、うん。そうだな」
わいわいと話しながらみんな自分の部屋に帰っていく。
 私は暗闇さんと刻浦さんが気になって、私服に着替え夕飯も早々にオフィスに再び顔を出した。
「こんばんは……」
「あれ、星川さん」
「おや……忘れ物かい?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
二人が喧嘩していないか気になった、なんて言えない。私が言葉に困っていると、刻浦さんがおいでと言う。
「上着も着ずに来たの? もー」
暗闇さんがスーツの上着を貸してくれる。私は自分の椅子を持ってきて二人の近くに座る。
「ありがとうございます。ちょっと顔出すだけのつもりだったので着てこなかったんですよ」
「妻にもよく言っているが、体の冷えも健康の大敵だ。気をつけなさい」
「あ、はい」
刻浦さんの左手を見る。結婚指輪は見当たらない。
「指輪はなさっていないんですね」
「首から下げているんだよ」
刻浦さんは制服の下に隠れていたネックレスの銀の鎖を持ち上げる。ああ、と私は納得する。じっと刻浦さんの顔を見る。薄い色の青い瞳が非常に綺麗な人だ。顔立ちが整っているのもあって、彫刻や人形のような美しさを感じる。
「この刻浦という職員、なかなか面白い履歴の持ち主だよ」
「あら、そうなんですか?」
「0083に色々聞かれてね、仕方なく」
「仕方なくですか……」
暗闇さんを見上げる。ダメじゃない、無理に聞いちゃ。暗闇さんはいいじゃない、と目で言う。
「生まれはアメリカ。裕福な家の三男坊で結婚を機に日本へ移住。奥さんは日本人。子供はいない。数カ国語が喋れる。英語……イギリスとアメリカ両方の発音が使えて、ドイツ語、フランス語、中国語、日本語って感じ?」
「イタリア語も話せる」
「ひええすごい」
「ラテン語は?」
「出来る」
「ひょおお」
私が驚いていると刻浦さんが時計を見上げる。
「そろそろ消灯の時間では? もう寝なさい、星川くん」
「はっ、本当だ」
「私もそろそろ部屋にこもろうかな。星川さん、送ってくれる?」
「もちろん」
私は腰を上げる。刻浦さんに聞きたいことがまだ色々あるのだけれど。私はふと思いつく。
「そうだ、刻浦さん。ここの掲示板やメモ用紙使って職員と文字でやり取りしません?」
刻浦さんは、うん? という顔をする。いや、表情は全く変わっていないんだけども。
「自分たちの上司なのに何も知らないというのが皆さんじれったいと思うので、筆談でやり取り出来たらどうかな? と」
「なるほど、いいかもしれないね」
「そしたら掲示板の端っこに……」
私はペンで電子掲示板の余白に<刻浦さんへの質問コーナー>を作った。
「こんな感じで、どうですかね?」
「いいね。暇があったら今度答えておくよ」
「ありがとうございます。じゃあ暗闇さん、帰りましょうか」
「うん。じゃあね署長」
「ああ」
手を振って刻浦さんと別れる。
「刻浦さんと他にはどんな話してたんですか?」
「うーん、特に。とりとめのない雑談かな」
「あら」
暗闇さんの収容部屋に着く。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ、星川さん」
私は背伸びして、暗闇さんの頬に口付ける。暗闇さんも私の頬に口付けを返してくれる。満足し、部屋へ歩み出す。この穏やかな日々が続けばいいな、と私は願った。


 次作へ続く

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