補遺:“set-aside cells”と名付けられた細胞に関して

<日本語表記について>

Set-asideを直訳すると”保留”になるが、B.K.Hallの「進化発生学」では“備蓄”であり、前世紀に出版された学研の進化論特集では“温存された”と表現されている。今回の補遺では英語表記のまま使用するが、どの表現が最も適合しているかについては、読者に任せたい。


<その進化的な位置づけについて>

私がこのset-aside cellsの概念に初めて出会ったのは、1995年11月のScience誌であった。E.H.Davidsonらが後生動物への個体発生の進化のステップとして、この細胞集団の存在を提案した。彼らによると、胚発生を終えて完成した幼生は、親である成体とは姿形が全く似ていない形態にある。成体になるためには、この幼生の段階から更に発生を進めて成体になる必要がある、としている。現在では変態と呼ばれている過程である。彼らは、アメリカウニStrongylocentrotus purpuratusの個体発生を例にあげ、中胚葉のset-aside cellsにより、原口よりcoelomic pouchを完成させるが、この部位の細胞数は約150,000にのぼり、胚発生の終盤と比べて約100倍の数である。更に、ゴカイの一種Polygordis neapolitanisをあげ、第5-6卵割でD割球の一つよりset-aside cellsの集団が生じ、これが後方に伸長して成体の組織を作り上げていく、と述べている。

要するに、set-aside cellsとは、幼生と成体の姿形が異なる後生動物において、胚発生の時期では未分化な状態を保っているが、変態の時期に細胞分裂・分化を進行させ、成体を作り上げることのできる、いわば、後生動物の形態の多様化に重要な存在と考えた。


更に、1997年のBioEssays誌では、K.J.Petersonらが、set-aside cellsの考えは後生動物に広く適用できることを、発生過程の模式図を駆使して主張した。彼らは、紐形動物・環形動物・外肛動物・棘皮動物・軟体動物において、成体専門の組織を作る細胞集団を色分けして示した。更に、棘皮動物・半索動物・ユムシ動物・環形動物のディプリュールラ幼生およびトロコフォア幼生の形態を比較し、いずれお変態においてset-aside cellsを利用していること、また、これらの動物の祖先は既にset-aside cellsの発生様式をもったトロコフォア様の幼生形態であり、後口動物のボディプランはこれ以降に多様化したのではないか、と述べている。言い換えれば、後生動物の形態の多様化はset-aside cellsが担っている、ということである。

ただし、線形動物のように幼生と成体の明確な形態上の区別がつかない動物や、胴甲動物など変態が観察されない動物については、発生様式が基本的に異なることから、set-aside cellsの有無については明確に論じられることはなかった。また、ウイリアムソン博士がトロコフォア幼生の起源に求めた輪形動物のワムシについては、トロコフォアが成体レベルにまで成熟したものではないか、としている。生殖細胞がなければ完全なトロコフォア幼生であり、ワムシはset aside cellsを祖先の頃に喪失したのではないか、あるいは、この細胞集団の前段階が派生したものを持っているのか、とも推測しているが、結論は出していない。


<特定の細胞を仮定しない考え方について>

これまで記載したset aside-cellsの考えは、後生動物は初めは幼生の形態であったが、進化の過程で成体の形態を新たに作るようになった、という考えを前提としている(この考えはおそらくヘッケルの個体発生と系統発生に関する反復の考え方があると思われるが、今回の補遺では背景の詳細は省略する)。これとは反対に、後生動物は初め成体の形態のみであり、幼生の形態が後から挿入されるように加わった、とする考えもある。B.J.Slyらは、2003年のInternational Journal of Developmental Biology誌で、過去の文献を引用してse-aside cellsの役割に疑問を投げかけた上で、成体の形を作る遺伝子のうち幾つかを使い回して幼生の形を作り遺伝子とし、その後、使われる成体の形を作る遺伝子の組み合わせも変わっていく、と考えた方が、特定の細胞集団のみが責任を負う考えより妥当ではないのか、という自説を展開した。そして、仮にset-aside cellsが実在したとしても、変態の速度を速めるか効率化することに貢献したであろう、と考えた。


<幼生転移仮説ならびに分子生物学的な見解について>

ウイリアムソン博士らは、2007年のAmerican Scientist誌で、自らの幼生転移仮説の総説において、set-aside cellsについての見解を述べている。このような細胞集団については、ウニの発生過程で実在したとしても、ウニなど棘皮動物の祖先が半索動物であるギボシムシの祖先との雑種形成によって得られた、トルナリア様幼生の名残にすぎないのではないか、と考えている。


分子生物学的な見解については、C.Arena-Menasが、2010年のPhilosophical Transactions of the Royal Society B誌にて、後生動物の発生様式の進化について自ら展開した持論で、set-aside cellsについて述べている。彼は、自らが研究したゴカイの一種にあるヒストンタンパク質H2A.Zのサイレンシング・再活性化の知見を踏まえ、変態にはset-aside cellsが絶対的に関与するのではなく、既に幼生の形作りで分化を終えた細胞も再び細胞分化を起こして成体の形作りに関与していくのだ、と考えた。


これより2020年7月現在に至るまで、この後生動物の多様化に貢献したとされる細胞集団の有用な論文やエッセーを、残念ながら見つけることができなかった。今回の補遺では、発生様式についての背景となる知見については諸事情により省いたが、この考えが初めて提案された前世紀末は、形態形成遺伝子の発見や発生過程へ関与する分子メカニズムの解明が急速に進み、特定の未分化な細胞を共通のボディプランとして動物門を超えて持っており、それがカンブリア大爆発のごとく多様化に貢献したといった物語ができるのは、同時代性を感じることができ、個人的には共感できる。ただ、表現型や再生能力は可塑性があるようで、発生経路の変更の柔軟性は、今世紀になり様々な報告で指摘されてきているので、実際にはset-aside cellsの世界観より複雑な個体発生が、まだ見ぬ新種の動物達においても、進行しているのだろう。


使用文献

Origin of Bilaterian Body Plans : Evolution of Developmental Regulatory Mechanisms E.H.Davidsonら著 SCIENCE VOL.270 24 NOVEMBER 1995

Set-aside cells in maximal indirect development : evolutionary and developmental significance K.J.Petersonら著 BioEssays Vol.19 no.7 pp.623-631 1997

Who came first – larvae or adults? Origins of bilaterian metazoan larvae B.J.Slyら著 International Journal of Developmental Biology 47 : 623-632 (2003)

The Origins of Larvae D.I.Williamsonら著 American Scientist November-December 2007

Indirect development, transdifferentiation and the meacroregulatory evolution of metazoans C.Arenas-Mena著 Philosophical Transactions of the Royal Society B (2010) 365, 653-669

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