『アリスとテレスのまぼろし工場』考察その3 「をろち」
まずは前記事末尾の繰り返しになりまして、これからしばらく映画の本題ではない話をしていきます。
本題ではないが世界観の話であると、少なくとも自分はそう考えているので。
あの幻影世界を創造したのも、力尽きて幻影世界の消滅を自力では防げなかったのも、見伏の神なのだから。
見伏神社の御祭神とは何なのか?
※それにあたっては、映画と小説をともに手掛かりとします。
・龍蛇の神
そこではまず、見伏の神は劇中で自分の姿を現していることが最大のヒントになります。
どう見ても、明らかに龍蛇の神ですね。
劇中で神語りをしている重要人物として神主の佐上衛がいます。彼は見るからに奇人変人であって、観客の目には「こいつの言うことを真に受けてはダメ」と思わせる演出もなされていましたが、そのことは今はさておき。
衛は見伏の神について、削り続けた「上坐利山(かんざりやま)」の神だと言う。このように、その山それ自体が神である時、それを神体山(しんたいさん)と言います。
この上坐利山については後の記事で述べます。
彼はそもそも、こう説いていました。
さらに彼は、白煙の龍を“神機狼(しんきろう”と名付けました。この造語“神機狼”とはもちろん“蜃気楼”との語呂合わせですね。この蜃気楼の語源を探れば、これ自体がひとつの示唆となります。
現代では蜃気楼という気象現象について科学的説明がついているけれど、古代華人の神話伝承の中ではそのように発想され、それはやがて日本にも伝わって広まり、永くそう考えられて来たらしい。
ここに衛の真意が秘められていそうです。もちろん大ハマグリではなく、海底の龍の方の「蜃」。
※「海底の」については後日の記事で取り扱いたいです。
※衛の台詞の中の「仏ではなく」についても前記事の中段で書いたように、見伏の神が結界の中に創ったのが仏教的死生観の世界ではないことと関係しているのかもしれません。
「生老病死の四苦」を超越した、いわば永遠不変の“常世”であり不老不死の“蓬莱”のごとき幻影世界であることと。
しかし見伏の神はどう観ても龍蛇の姿であって“狼”ではない。龍蛇の姿で現れる神は水神に決まってるのに(『千と千尋の神隠し』での“名のある河の主”や、ハクつまりニギハヤミコハクヌシを想い出してもいいでしょう)。
佐上衛はなぜそんな誤魔化し方をするのか?
おそらくは何か隠している…
(実は狼にも意味がありそうなのですが、それはメタ視点で岡田麿里監督の故郷の秩父における狼信仰から考えられるもので、今はそれに触れません)。
一般論としては龍蛇の神は水神なのですが、この映画の中で描かれていたのは多頭龍でした。
我が国で多頭龍と言えば...八岐大蛇/八俣遠呂知(やまたのをろち)か、九頭龍(くづりゅう)ではないか。
・遠呂知(をろち)
あぁ、そういうことか...九頭龍なら別に隠すことはない。九頭龍は正々堂々と祭れる(祀れる)神だからです。
見伏神社はおそらく、表向きの御祭神は別にあるのではないでしょうか。しかし神社には、時として秘伝の神“秘神”が密やかに祭祀されていることがあるという話を、何かの本で読んだ覚えがあります。
私はオカルト系や都市伝説系の図書を読まないので、神社・神道のものだった記憶があるのです定かではありません。そこで神社本庁に電話で尋ねたところ、簡潔かつ丁寧に答えてくれました。
※もっとも劇中の見伏神社が神社本庁に所属しているとは限らないのですが(所属していれば“包括神社”と言い、所属していなければ“単立神社”と言います)。
そもそも見伏市も見伏神社もフィクションの中の架空の存在だから、そこまで確かめなくてもと思う人もいるでしょう。
しかし独自設定の“神道っぽいが別もの”なら、劇中でそのオリジナル設定を説明する必要があると思います。
今作の神道関連は、現実の神社神道と何ら変わりがないように描かれているので、そこは確認しておきたかった次第。
架空の存在とはいえ、見伏神社でヤマタノヲロチを秘神として祭祀して来たことは現実的にもあり得ないことではなさそうです。
であれば、衛が人々にそう気付かれないようにミスリードする動機は理解できるかな。
さらに言えば、“狼”の語源も“大神”つまり「おほかみ」です。
・大神(おほかみ)
佐上衛の言動のひとつはこれで説明ができそうですが、しかしそうなると人々はなぜ衛の誘導にはまってしまうのだろう。そこで小説版に目を移します。
実は、佐上衛に言われて初めて“狼”だと住民が思ったわけではないことが読むとわかりました。
それは主人公・菊入正宗の心理描写として述べられていて、2箇所あるので抜き出してみます。
まずは冒頭、製鐵所の爆発炎上を目撃してすぐに何事もなく元の時間に戻り、異変を感じて自宅の外に出て目撃する場面。
この後も正宗が感じたとおりに、狼であるかのような文章が続くので、映画を観ずに小説だけ読んだら、群れなす狼のイメージで脳裏に描くことになりそうです。
(映画ではラジオからDJの語りに続いて、故・川村かおりの『神様が降りてくる夜』が曲名も含めて効果的に使われる場面です。
また、製鉄所の爆発直後に上坐利山の山腹から白い猛煙が上がるシーン、爆発炎上する煙の質が変わって白煙になることや、その白煙が龍蛇の姿になっていくことが絵として明白に描かれています)。
次いで、園部裕子の消失の場面です。
つまり、第一印象としては“龍”や“ヤマタノヲロチ”が念頭に浮かんでいるのです。これは正宗ひとりのものではなかったに違いない。
そうでないと見伏市民が佐上衛の説く“神機狼”をそっくり受け入れられないはずだから。
衛が誘導する以前から人々は正宗と同じく“狼”という認識をしていたはずなんですよ。
これは認識阻害が働いているのだろうか、だとするとこのようなことができるのは神を置いてほかにないわけで。
ではなぜそのようなことをがするのだろうか?
その龍蛇がヤマタノヲロチだとしたら、佐上衛の動機は理解できるのですが。彼自身もその認識阻害を受けているのではないかと考えたこともあるのですが、“蜃気楼”の語源を知っておればこそ“神機狼”なる造語を捻(ひね)り出したことを思えば、彼自身はわかっていたのではないだろうかと。
そうなると、これは認識阻害ではないのかもしれない。「われは“おほかみ”なり」
…と、そのように人々の心に神勅として発信したが、その“おほかみ”を“大神”ではなく“狼”だと誤って受信されてしまったのではないか。
それは、誰もヤマタノヲロチを神だとは思っていないからではなかったか。
しかし、そもそもヤマタノヲロチは神なのか、そして誤認された“狼”には特段の意味はないのか、それは後に書いていくつもりです。
※ちなみに龍神や狼については、秩父というモデルからメタ視点で考えるのも興味深いものがあります。それについては後日に丸ごと別記事にしたいと思っていますが、ひとまずヤマタノヲロチの線で次の記事にしました。