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『アリスとテレスのまぼろし工場』考察その2 「蓬莱」

今作を鑑賞した人たちの中には、次のような疑問を持つ人が少なからずいます。
「そもそも佐上衛のあんな話を、はいそうですかと住民が納得してるのも変な話」
「真相に気づくまで大人はどういう風に絶望を忘れようとしていたのか」
今回はまず先にこれについて試みに述べて、その延長として世界観への私見を書いてみます。



・認識阻害?

幻影の住民たちが何らかの“認識阻害”を掛けられていて、ある種の“認知バイアス”に陥ってるのではないかと映画を観ていて感じました。
小説版だと、その辺の心理描写が正宗の語りとして書かれていて、より鮮明になるように読める気がします。

ごく一部の真相を知る大人(父・昭宗や叔父・時宗)は、映画で描かれているとおりであって、小説版でもそこは同じ。正宗の心理描写でもって映画本編より詳しく述べられているので、そこから類推可能だと思った。例えばこうです。

「自分の脳みそに、常に薄い膜が張っている感じがする」

正宗だけがそうである理由が全く無いし、もし彼だけがそうであるなら、その特殊性を描かないと観てる(読んでる)鑑賞者には全くわからないので、これは正宗ひとりの話ではないでしょう。

© 新見伏製鐵保存会

※佐上衛自身もその中にあって、意図的な嘘も含めて自覚の上で行動してる感じですが、彼自身もまた大きく幻惑されてるのか誤認してるのかと思われる部分もないわけじゃないです。

とはいえ“認識阻害”だの、それによる“認知バイアス”だの言うのは描写から来る印象に過ぎません。それに、その種の“認識阻害”を住民に掛けることが可能なのは見伏の神を置いて他にないのですが、そのようなことをする動機が見伏の神にあったとすると...?

それはともかく、宗司が語る「この世界が、罰(ばち)が当たってできたとは思わん。工場が爆発してこの土地が終わっていくことを知って、一番良かった頃を残して置きたかったのだろう」いうのは確か。
このことについては前の記事で述べました。

この記事で書いたように、それは“神の想い出”であり、その想い出が変わってしまうのは当初からずっと望んで来なかったからこそ永遠不変の幻想世界とした。つまり“常世”

・不老不死の永遠郷

正宗ら幻影の人間には体臭が発生しないとは、代謝機能が無いということだと先にも書きました。
代謝機能が無いから誰も歳は取らず、成長もせず老衰もせず病気にもならず、産まれず育たず病まず老いもせず死にもしない。
そこに仏教で言う「生老病死」の「四苦」は存在しない。

そう考えれば、見伏の神の想いは仏教的死生観を無視あるいは超越しているとも言えるかな。要するに“不老不死”です。佐上衛が演説していたのはこのことを指してますね。

古代倭人が幻想した海の彼方の永遠郷は、古代漢人が幻想した“蓬莱”とよく似ていたのだろう、かなり早い時期に習合して、文字の上では“蓬莱”と書きつつも“とこよ”と読ませる例もありました。

夢のような不老不死の神仙世界、それが常世であり蓬莱である... はずだった。
ただしここでひとつ気になることもあります。
“五実”こと沙希がこの常世=蓬莱に入って来てしまったのも出て行けたのも、お盆だったということです。この“お盆”との兼ね合いについては、いずれ彼女についての記事で語ろうかな…それはさておき。

恥辱によりこの世界から失せたいと強く願ってしまった少女は自我を保てず壊れて消滅する。自分たちは閉ざされた小世界における永遠不変の幻影であると知り「そんな永遠はいらない!」と叫んだ少年は未来の希望を奪われ絶望し消滅する。

幼な子を連れて道に佇む若い母親のうつろな眼差しは虚空を見つめていたように観えたが、その心の中に虚無が満ちていたであろうことは容易に察しがつく。彼女も幼い我が子をその場に残して消滅した。
釣り場の初老と見える男も含めて、絶望の中で消える者が増え続け、そのたびに結界は割れた。

正宗に恋を告白され激しく動揺した睦実は「馬鹿みたい」と正宗に返し「私たちは!現実とは違うのに!生きてないのに、意味ないのに…!」と叫び自分を叩く。
睦実がとっくに正宗に恋していたと痛感させられる場面でしたが…。
なのに心音だけあって「生きてるのとは違う」と呟く。

© 新見伏製鐵保存会


・ディストピア

「そういう意味で言えば“ユートピアを創ったと思ったけど、いつの間にかディストピアになってた”みたいな話の変化球だよな」
という意見をもらったことがあります。
そう言われてみれば、あぁなるほど確かにその系譜の変奏曲だとも言えるでしょうか。

見伏が終わると予感した神は、見伏が最も良かった頃の想い出として、自分が鎮守する地に結界を張り、その中の人々も不老不死の神仙世界“常世=蓬莱”の住人として写し取ったつもりだったのかもしれません。
しかし転写元の人間はただの俗世の人間であり、俗世を嫌い修行の果てに肉体を脱ぎ捨て、精神だけの存在となった神仙ではなかったのですね。

しかし不老不死は古代人の幻想の夢ではなく、現代人だって「死にたくない」「老いたくない」という願いが強いことも、そうした専門研究もあれば、市井の人々のアンチエイジングの涙ぐましい取り組みも知ってたろうな。
だけど、夢の蓬莱にはならずディストピアになってしまった。

始まりは神の想い出としてだった。
想い出だからそのまま大切に取って置きたかった。
でもそのための蓬莱=常世は長くは持たずに内部から壊れて行く。

消えそうになる幻の人は己が回収するしか出来ない(喰ったのではないと思える描画もあれば、ひと呑みにする描画もあり、そのことは映画内で描かれ語られていた)。

消え行くその心を回収して何を見伏の神は思ったろうか。
壊れ続ける結界の補修に追われ続けたが自分も力尽きた。
俗世(現実世界)から迷い込んだ、汚濁とともに生きる俗人の強い情動で結界がぼろぼろに崩れても、もはやなすすべもなかった。

それから不老不死の人々はそれぞれどうしたか、弱り果てた神の力は住民(製鐵マン)の手で復活したが、人の真心を知り得た見伏の神はどうしたのか。物語はそこからクライマックスへと向かうこととなります。

そこでこれから、この見伏神社の御祭神が何者なのか、いかなる神なのかを追って行こうと思います。
これ自体は物語の主旋律ではないこと、それは言うまでもありません。主旋律は恋物語であり、副旋律は親子物語
しかし見伏の神の物語は(つまり神話だということですが)、今作の通奏低音ではあるだろうから。
というわけで以下の記事に続きます。


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