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不登校当事者と教師の両方を経験したので学校に行かなくてもいいかどうかについて語る

不登校については当事者と教育者の両方の立場を経験した私の視点からいろいろ語っていきたいことがある。
今回は「学校に行かなくても大丈夫なのか?」について書いていきたい。

私はいつか教育に関わって当時お世話になった先生方のように、あるいは自分が模索してきた悩みの解決、そうしたものを生かしていきたいと思い、大学では教職課程で中学、高校の美術の免許を取得した。通信制高校の嘱託講師として実際に不登校経験の多い生徒を受け持った経験もある。

私は中学生の頃から、「学校は死ぬ気で行くべきだ」と「学校なんか行かなくてもいい」の意見の板挟みの中で生きてきた。
途中まで読んでいただいて誤解されると困るので先に書いておくが、私の意見は「体調が回復するまではとにかく休む」「いずれなにかやりたい、やらなきゃという気持ちが湧いてきて心身ともに回復したときに全力で頑張る」「その時が来るまではとにかく忘れて休む」だ。だから学校は必要だけど体を壊してまで行く必要はないという意見だ。さて。

まず最初に、義務教育だから、という意見。これは「通わせる義務」なので本人が拒否した場合の強制力はない、ということでそれ以上の議論は無用。本人が行きたくないなら行かなくてもよいと思う。しかし、当事者としても、教育関係者としても、根強く聞こえてきた意見には異を唱えたい。
それは、
「学校がおかしいのだから行く必要なし」
「勉強ができなくても生きていける」
という2つの意見だ。

確かに、学校の対応は不十分なケースもあるだろう。特にいじめが絡んだ場合の不登校は問題が深刻だ。これについては直ちに対応すべき問題なので今回のテーマには含まない。ここで言いたいのは、「学校教育は間違っている」という思想からくる学校否定を持つ大人たちの誘導が問題であるということだ。信じられないかもしれないが、いるのだ。支援者界隈にも。

学校に行かなくてもいいけど、学校教育がおかしいというのはちょっと飛躍し過ぎではないか。正直言って、従来の学校教育というのは、一斉授業である意味最もコスパの良い方法で平均点を上げていく戦略で行われていて、子供の多い時代では特に詰め込み教育で競争を煽った結果落ちこぼれが問題になったりしてきたのは事実だ。いわゆる発達障害の生徒に対する個別の配慮も十分行き届かないことだってあるだろう。それでも今の所の義務教育の教育方針は量産型日本人の育成とも言えるような平均値を上げていく方針で進んでいる。
私などは、もう少し地域と関わったり、答えのない課題や議論する力を試す機会、つまりアクティブラーニングを設けて、一斉授業で退屈する学生の活躍の場を設けてもよいのではないかと思うが、教師のアドリブ力、構成力が試され、クオリティに大きなばらつきが出そうだ、などとぐるぐる考えている。それでも中学校の職業体験など、一定の成果を上げている部分も少なくない。総合的に見て、私も、少子化で国の形が変わりつつある今、学校教育のあり方を再考する時期に来ているが依然として的はずれな改革が進んでいると考える一人だ。

それでも、公教育を否定する思想から子どもたちを学校から遠ざけようとする大人はずるいし、本人のためにならないと思う。

学校に行きたくない、行きたいけど行けない、そういう悩みは大人の都合に利用してはいけない。あくまでも本人が行かないことを決断する、行かない状況を受け入れて過ごしていくということは、緊急避難であり、また、どうやったって行かなかったことによる不利益を自分でどうにかするしかないことをどこかで覚悟しなければいけないことをいつかは本人が考えなければどうしようもない。

そこで、「勉強できなくても生きていける」という意見についての反論も述べたい。

そもそも、今まさに不登校で悩んでいる若者のほとんどは10代である。親世代は概ね40代だろう。10年前にはこれだけスマホで普通の女子高生が動画を生配信したりフリーマーケットアプリで匿名のままモノを売り買いする時代が来ると思っただろうか。世の中はどんどん変化していく。そこで、その変化に耐えられるだけの準備は必要だ。したがって、人間は大なり小なり死ぬまで生きるための知恵を学ぶ必要にかられる。勉強なんかしなくていいというのは非常に無責任な意見だ。真に受けるほうが悪いと切り捨てていい問題だろうか。

「読み書き算盤」と昔から言われているが、現代では「読み書きIT」かもしれない。そして一人ひとりが情報や状況を判断するだけのリテラシーが求められている。そんな中で、PCでメールのやり取りすらできないオヤジがいっぱいいる。エクセルを方眼紙と間違えている大人たち。彼らはいつも、「いやーパソコン疎いからわかんないんだー」と言う。勉強すればいいのに。勉強しなくて困るのは本人だ。わからなかったら自分で調べればいいのに。自分の子供くらいの年齢の人にそう思われる大人になりたかったら、勉強しなくてもいいよ、と思いますが、厳しいでしょうか。
親の抑圧や狭い社会の競争、先生との相性問題などで勉強に嫌気が差している子供に勉強なんかしなくても生きていけると吹き込むことはめちゃくちゃ危険だ。今までのやり方とか環境が悪かったのであって本人のせいでも学問のせいでもない。なのに誰も本人の人生に責任なんかとってくれない。

でも、勉強が嫌いになっている子供には無理強いしてはいけない。ここが超大事。やがて、エネルギーが回復してきたら、ネットでなにか調べたり、ゲームを攻略したり、あるいは外に出て珍しい植物を見つけたり、何かしら知的活動を始めるものだ。その時まで見守り、その時が来たらそっと背中を押してやるのが我々の務めではないだろうか。彼らのやりたいこと、知りたいこと探しを応援してあげたい。

本来、学ぶことは楽しいこと。じゃないと、人類はここまで繁栄しなかった。学ぶことに消化不良を起こしているこというのは基本的に優秀で好奇心の強い子が多い。彼らはそのエネルギーをどうも上手く使えなかったか、一時的に枯れてしまったのだ。だから、休息が必要なのであって、未来的に学校に通う選択肢まで否定する必要はない。

まずはしっかり休息して、自分が本当にやりたかったことをやって、いろんな景色を見て、自分らしい生き方を見つけてほしい。すると、何かを学びたくなったり、学ぶ必要を感じる時が来るものだ。あくまでも、やらなきゃいけない、じゃなくて、やると楽しくなる、がポイントだと思う。

不登校生は学校や親から何をやっても否定されて生きてきた子たちも少なくない。私がかつて担当していた美術科は基本的に答えのない学科なので、彼らのアイデアや取り組みは自由だし、肯定できるのが強みだと感じている。私は不登校について学校教育からできるアプローチはまだまだ価値があると信じている。だから学歴のためではなく、学びのために学校を選んでほしい。

ITによって今までになく自由な時代が来ている。そして不登校とかそんなこと関係なく色んな人が活躍している。私は今の10代の自由なエネルギッシュさが好きだ。極端に言えば学校に行かなくても自分で学ぶこともできる時代だ。ただし、行かないことのデメリットを受け入れた上で選択する、位の気構えがないと、しんどいかもしれない。学校には色んな人が集まる。ということは知識や経験が集まる。そこにアクセスできるかどうかは現代でも結構大きいはず。でないなら、通信制の学校だけのほうがコスパいいじゃん、という話になってしまう。
私自身、中学校に行かなかったことによって未だに抜け落ちている学問が多々ある。大学受験に際して必要な科目だけ総復習したが、数学は選択しなかったので本当に恥ずかしいくらいわかっていない。しかし、その他の分野でいろいろ学んでいった結果友人もたくさんできて、数学の先生の友人がいるので何でも気兼ねなく質問できるし、意見交換もできる。まだまだ未熟ではあるが、勉強していてよかったと思うことはあっても勉強しててしまったと思ったことはない。

学校に行けないなら行かなくてもいいけど、学ぶことは楽しいよ。

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