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「見守る保育」の勘違い

誤った「見守る保育」の誕生

「見守る保育」という意味を、正しく捉えられていない若い保育者が多いようである。

そもそも見守る保育という言葉が頻繁に使われるようになったのは、「主体性保育」が大事だと言われ始めてからのことだ。
保育所保育指針の改訂をきっかけとして、「子どもの主体性」や「主体的な学び」という考え方が瞬く間に広まっていった。

保育というのは能動的な働きかけである、と教えられ実践してきた保育者は大いに戸惑った。
「子どもが主体的に動くということは、自分からは何もするべきではない」という勘違いが生じることとなった。
その結果、「見守る」という言葉をそのまま受け取って、「子どものすることをただ見ているだけ」という、きわめて受動的な保育に繋がっていくのである。

「見守る保育」の本当の意味

「見守る保育」は受動的な保育ではない。
子どもの主体的な活動を保証するための、保育者の能動的な行為である。

まず、見守る保育の前提として、事前にやっておくべきことがある。
この事前準備がなければ、見守る保育は成り立たないと私は思っている。

1.子どもの情報を頭に入れておく

調査票の内容を頭に入れておくことはもちろんのこと、保護者とのやり取りの中で獲得した情報は、しっかりと頭に入れておく。
一人ひとりの子どもの特性を理解しておくことが、見守ることに繋がる。

2.子どものことをよく観察する

特性を理解した上で、その子がどういった行動をするのかをよく観察することが大切である。
観察する際に重要となるのが、単なる行動観察にならないことである。
その行動の裏側にある心の動きを観察する必要がある。
また、事前の情報が全てではない。実際に自分の目で見ることで子どもの特性は情報として確実なものとなっていく。

3.環境を構成する

子どもが主体的に活動するには、その意欲を掻き立てるような環境が求められる。
情報と観察から子どもの興味・関心を探り、子どもの心を刺激するような環境を構成することで、子どもは自ら動くようになる。

見守ることは答え合わせである

三つのポイントを抑えて初めて、見守る保育の実践となる。
ただ漫然と見ているだけでは、何の意味もなさない。

「準備したものに興味を示しているか」
「予想した通り心を刺激できているか」
見守るとは、ある種の答え合わせのようなものである。

そして、その答えは必ずしも正解である必要はない。
子どもは保育者の予想を時に大胆に超えてくることがある。
だからこそ、保育は面白い。

その予想外の子どもの動きを見て楽しむこと。
喜ぶべき不正解を、次の準備に生かすこと。
子どもの様子を見守りながら、常に保育者の頭は反省と考察で満たされる。
見守るというのは決して受け身な行為ではないというのは明らかである。

何も考えず子どもを見ているだけなら、専門的な知識など不要である。
保育のプロとして、能動的に見守りたい。

一人ひとりに特性を把握し、事前準備を徹底に行い、最終的には見守る。
この行為は保育の仕事だけにとどまらない。
例えばスポーツチームの監督なども同じようなところがあるかと思う。

元サッカー日本代表監督、イビチャ・オシムは難解な練習を行うことで有名である。
選手一人ひとりの特性を理解し、どうすればその特性を生かしてチームとして強くなるかを徹底的に考えた方だった。
結果的に選手は自ら考えてプレーするようになり、チームも強化された。
試合当日は静かに黙って見守ることの多い監督であった。

おそらく、保育者としても素晴らしい「見守る保育」をしたに違いない。


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