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ふむもくエッセイ

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ふむふむと思ったことと、もくもくと感じたうれしいことを集めました。
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#エッセイ

199 まるみとあたたかさ

「まるみ」を感じると、やわらかなあたたかさが胸に広がる。 たとえば、しっかりと酸味のあるトマトをコトコトと煮て、味見をすると酸味がやわらいでコクのある味になっていたとき。 酸っぱさがまるくなった、と思う。 たとえば、誰かの言葉にショックを受けてさみしさがにじむ怒りを感じても、その思いを外に吐き出すことなく自分だけで上手に気持ちを切り替えられたとき。 まるみのある強さが少しは身についたかも、と思う。 または、冬の厳しい寒さの中に午後の陽がさしたとき。 冷たい空気がまぁ

192 知らない道を歩けば

ラジオで歴史の先生がこんなことを言っていた。 「いろいろな時代の記録や人の日記を読んできたが、どの時代の人も『今は変化の時である』と書いている」 そう、世界は常に変化している。 実際、ここ数年だけを見ても、予想外のことが立て続けに起こった。 目にするとつらくなるようなニュースが多いように感じるが、そんな中でも世界をよくしようと技術の進歩や新しいものの開発に注力する人もいれば、活動をする人もいる。 たとえ大きなニュースにはならなくても、良い変化だってどこかでたくさん起こ

183 まだ冬がそこにいるうちに

立春を過ぎたからといって、すぐに温暖な気候になるはずもなく、痛むような冷たい空気にさらされながら、そこかしこに漂う春の粒を見つける日々である。 春の粒とは、視覚的なものというよりも感覚的なもののことだ。数日前より日が長くなっているとか、蝋梅が馥郁たる香りを放っているとか、水道水が若干やわらかいとか。 冬色の日に春がにじんだ瞬間を見つけると、心にあかりが灯る。 2021年は仕事に追われてしまい、その忙しさに文字通り目が回った。 私は添削や書き物といった活字まみれの仕事をし

182 目に見えない宝物

中学生の頃、英語の教科書で『星の王子さま』を知った。 当時、英語は苦手だったのだけれど、シンプルでありながら考えさせられるストーリーとかわいらしい挿絵に魅了されて、何度も読み返した。文章をきちんと訳したくて、一所懸命辞書をひいていくうちに、他の国の人が使う言葉を知るのはおもしろいと気づいた。 あとで『星の王子さま』はフランスの作家の作品と知り、いつかフランス語も勉強してみたいと思った。 物語は、ときどきこういう力を発揮する。 『星の王子さま』の中で印象的だったのは、「大

177 素敵なカラフル

ほんわか優しい雰囲気。 いつも笑顔で穏やかな性格。 そんなふうになりたいと高校生のころ思った。 そう思ったきっかけは、家庭科の授業。 将来、どんな暮らしがしたいかA3の紙にまとめるという授業があった。 みんなおしゃれな雑誌や不動産屋さんの広告を持ってきて、「こんな洋服が着たいな」「こんな家に住みたいな」「花屋さんに就職したいな」なんて楽しくおしゃべりをしながら、お気に入りを切り取っては紙に貼り付けていった。 できあがったA3の紙は、教室や廊下にしばらく貼り出されていて、

174 記憶を花束にして

風がすっと冷たくなった。 それは本当に突然のことで、ある日の雨上がり、窓を開けるとすでに冬に近い秋がいた。 「久しぶり」 冷たい空気に、そう言われた気がした。 秋生まれの私は、空気が冷たくなってくると元気になる。 晴れているのに肌寒い。雲はぞろぞろと流れていく。夕陽が作る影は夏より濃く感じる。 べたべたしていない優しさというか、凛とした甘さというか。 そういうさっぱりした感じが好きで、うきうきしながら秋冬の支度をする。 部屋で履く靴下を出したり、湯たんぽを探したり。

173 モンブランでひと休み

日差しの強さに夏のなごりを感じつつ、落ちてきた葉に季節の移ろいを見る日々。 気がつけば10月。朝と夜の空気はすーっと冷たく、そこに夏はもういない。 少しずつ、でもためらうことなく季節は進んでいる。 明るい時間が短くなっていくことや、ツバメたちが南へ旅立つのは寂しいものだが、楽しみもたくさんある。そう。私は10月になったら近所のケーキ屋さんに行くのだ。 そこのケーキ屋さんは、昔ながらの小さなお店。ご夫婦で切り盛りされている。パティシエさんは何人いるのかしらというくらい、ケー

172 金木犀と深呼吸

気がついたら、夕方になる時間が早くなっていた。 お昼の気温が高くても夏と明らかに違うと感じるのは、きっと夜の存在が少しずつ濃くなってきたからだろう。 夜に向かう時間を味わいたくて、仕事を早めに切り上げた日のことだ。 別に何をするでもなく、ただ夕暮れに染まる街や川や木を見に外へ出た。 歩いていると、ばったり父に出会った。 わりと近くに住んでいるのに、顔を見るのは久しぶりだった。 「ちょっと背が伸びたんじゃないか」 父にそう言われて、心がくしゃっと寂しくなった。 私は中学2

171 虫の声とお茶漬け

虫の声が聞こえる。今晩も愛の言葉を月明かりに乗せて発しているようだ。 そろそろ寝なくちゃと思いながらも、窓から見える紺色の空とやや欠けた月をぼんやりと眺めていた。何を考えるでもなく、何をするでもなく、ただ吸い込めば体ごと夜色になるような濃い空気を味わっていた。 小腹が空いたので台所に行ったが何もない。その日はちょうど食材をきれいに使い切っていたのだ。仕方なく冷凍のごはんをあたためてお茶漬けを作ることにした。 私の中でお茶漬けは2種類ある。 1つは永谷園のお茶漬けのもとで作

170 秋の気配とチーズケーキ

この夏はずっと雨が降っていて薄暗い毎日だったので、目覚めたときに部屋が明るいとうれしい。 午前中、窓を開けて仕事をしていたら、青空が近く感じられて心強かった。 遠くで聞こえる、のんびりした工事の音(天気が不安定だったので、工事もなかなか進まなかったようだ)、車の音。ときどき誰かの話し声も聞こえるような。 私が知っている人も大切な人も、今ごろ誰かと話しているかな。 車に乗っているかも。もしかしたら、工事現場の近くを歩いているかも。 自然の音も心落ち着くやさしい音楽だ。

169 心を耕す

雨が去ったと思ったら雲が残って、ぐずぐずした空が続く日々。 叔母の家の近くにある山には、もうリンドウが咲いているらしい。 濃い青色の花は涼しげで、秋の訪れを思わせる。 季節がゆるやかに、でも確実に移り変わる中で、私はコーヒーを飲みながら仕事をして仕事をして仕事をしていた。 私はわりと細かくこだわる方で、例えば人の文章の校正をする時に、気になる言葉があったらとことん調べてしまう。特に専門外のことだと、その言葉の説明に使っている言葉の意味がわからないことがあり、迷路に入ってしま

166 緑色の午後

あまりにも強い日差し。 外はすっかり夏模様で、少し歩くだけで汗がにじむ。 家で仕事をしていても、外に出なければならないこともある。 買い物や郵便や銀行。生きていくためには、あちこちに出かけなければならない。外にいるときは、日傘とハンカチを握りしめる手もうっすら汗ばんでいる。 家で仕事をするという生活になってから数ヶ月が経つ。 数日に一度メールやリモートで話をする以外、それから家族以外とはほとんど人と会っていない。一日中誰とも話さない日もざらにある。私は人と話す時間が大好きだ

164 夏の記憶はやさしい赤、あるいは黄色

スーパーマーケットの野菜売り場にスイカがあった。 どれも半分か4分の1にカットされていて、ラップを巻かれている。 ひと玉まるまるは置いてなくて-あっても買えないのにーすこしさみしくなった。 一切れだけパックに詰められているものがあったので、それを買った。 スーパーから出ると、むわむわとどこもかしこも暑い。時刻はほとんど夕方。みんな日傘をさしたり、つばが広い帽子をかぶっていたりして、太陽を避けている。 信号を待っている間、空を見た。 太陽が大好きだったころもあったな。

160 光がそこにあるなら

ある雨降りの夜。うっかりベランダのあかりをつけたままにしていた。 その日は昼から薄暗かったので、ベランダに出る時にあかりをつけ、その後すっかり忘れていたのだ。就寝時に部屋の電気を消した時、ぼわっと外が明るくて、ライトをつけっぱなしにしていることに気がついた。 消さなくちゃと思い、ベランダの近くに行くと薄オレンジのあかりが雨の雫を輝かせていていた。その美しさに目を奪われ、スイッチに手をかけたまましばらくガラス越しに外を眺めていた。夜と水と光。そろそろ蛍が出てくる頃だろうか。