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ふむもくエッセイ

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ふむふむと思ったことと、もくもくと感じたうれしいことを集めました。
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記事一覧

199 まるみとあたたかさ

「まるみ」を感じると、やわらかなあたたかさが胸に広がる。 たとえば、しっかりと酸味のあるトマトをコトコトと煮て、味見をすると酸味がやわらいでコクのある味になっていたとき。 酸っぱさがまるくなった、と思う。 たとえば、誰かの言葉にショックを受けてさみしさがにじむ怒りを感じても、その思いを外に吐き出すことなく自分だけで上手に気持ちを切り替えられたとき。 まるみのある強さが少しは身についたかも、と思う。 または、冬の厳しい寒さの中に午後の陽がさしたとき。 冷たい空気がまぁ

192 知らない道を歩けば

ラジオで歴史の先生がこんなことを言っていた。 「いろいろな時代の記録や人の日記を読んできたが、どの時代の人も『今は変化の時である』と書いている」 そう、世界は常に変化している。 実際、ここ数年だけを見ても、予想外のことが立て続けに起こった。 目にするとつらくなるようなニュースが多いように感じるが、そんな中でも世界をよくしようと技術の進歩や新しいものの開発に注力する人もいれば、活動をする人もいる。 たとえ大きなニュースにはならなくても、良い変化だってどこかでたくさん起こ

189 「大丈夫」の強さとやさしさ

「大丈夫」という言葉には、強さとやさしさがあるなとしみじみ思う。子どもが転んで泣いているそばで、母親が「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とおまじないのように言っている姿を見ると、やわらかい気持ちになりつつ、自分に言われているわけでなくても「そうか、転んでも大丈夫だ」と心強く思うものである。 また、いつもと様子が違う人に対して「大丈夫?」と聞くことがある。これは、相手を慮る質問。この言葉によって、相手が「実は体調がすぐれなくて」や「落ち込むことがあって…」といった、心の中で抱え

188 見えない相手の笑顔が見たくて

「リモートワーク」という働き方を始めて、10カ月ほど経った。 私の仕事は、主にコラムを執筆したり、専門用語や法制度の解説文を書いたり、文章の校正を行うことである。知人には「フリーライター」と言われるが、そんな大層なものではなく、頼まれた文章に取り組む「書きもの専門の内職屋」の方が正確だ。数社と契約しているが、どの会社も私の住んでいる地域外にあるため、仕事のやり取りはメールかビジネスチャットで行う。 リモートワークを始めて感じたことは、だれかと直接会わずに仕事をする気楽さで

186 言葉にならない吐息

冬が舞い戻ってきたような寒さの夜。 街の灯は、てんてんと続いている。 明日の食パンを買うことを口実に家から出た。 夜の空気のつめたさが胸に入り込んでくる。 食パンを手に入れるミッションはあっという間に完遂してしまったので、食パン入りのエコバッグを気持ち振りながら遠回りして帰ることにした。 意外と車は走っているが、歩いている人や猫はいない。 濃紺の空には、チャコールグレーの雲が浮かんでいる。 ふぅ、と思わずため息が出る。 なぜ私はミスばかりしてしまうのだろう。 定期的に訪

185 心のぬくもりを抱きしめる

「少ない」というと、不安に感じることもあるかもしれない。 例えばストックが少ないと心配、お金は少しでもたくさんほしいなど。 もちろん、「もっとほしい」という気持ちは原動力になり、進歩や成長につながることもある。 しかし貪欲になり過ぎると、足りない気持ちが増幅して恐怖感にとらわれることがあるのではないかと思う。 そして恐怖から生まれる行為は、時として取り返しのつかない事態を起こし、恐怖の連鎖が始まる。 なんだかカタい始まりになってしまったが、「ほのぼの」という言葉を改めて

183 まだ冬がそこにいるうちに

立春を過ぎたからといって、すぐに温暖な気候になるはずもなく、痛むような冷たい空気にさらされながら、そこかしこに漂う春の粒を見つける日々である。 春の粒とは、視覚的なものというよりも感覚的なもののことだ。数日前より日が長くなっているとか、蝋梅が馥郁たる香りを放っているとか、水道水が若干やわらかいとか。 冬色の日に春がにじんだ瞬間を見つけると、心にあかりが灯る。 2021年は仕事に追われてしまい、その忙しさに文字通り目が回った。 私は添削や書き物といった活字まみれの仕事をし

182 目に見えない宝物

中学生の頃、英語の教科書で『星の王子さま』を知った。 当時、英語は苦手だったのだけれど、シンプルでありながら考えさせられるストーリーとかわいらしい挿絵に魅了されて、何度も読み返した。文章をきちんと訳したくて、一所懸命辞書をひいていくうちに、他の国の人が使う言葉を知るのはおもしろいと気づいた。 あとで『星の王子さま』はフランスの作家の作品と知り、いつかフランス語も勉強してみたいと思った。 物語は、ときどきこういう力を発揮する。 『星の王子さま』の中で印象的だったのは、「大

179 明るいキッチン

空気は冷たいけれど、穏やかな夜。 お風呂に入って、歯磨きもして、暖房を切って、その日の気分の本を連れてベッドに入る。 明日はお休み。どう過ごそうかなと思いながら本のページをめくる。 その日の気分は雑誌。色とりどりの写真と短い文章が心地よい。 自然豊かな場所に行きたいな。 本屋さんに行って、新しい本をチェックするのもいいな。 それとも、アップルパイを食べに行こうかしら。 休日の前のわくわくは静かに、でも確かに心躍らせる。 雑誌の中を進んでいくと、「煮込み料理特集」にたどり着

177 素敵なカラフル

ほんわか優しい雰囲気。 いつも笑顔で穏やかな性格。 そんなふうになりたいと高校生のころ思った。 そう思ったきっかけは、家庭科の授業。 将来、どんな暮らしがしたいかA3の紙にまとめるという授業があった。 みんなおしゃれな雑誌や不動産屋さんの広告を持ってきて、「こんな洋服が着たいな」「こんな家に住みたいな」「花屋さんに就職したいな」なんて楽しくおしゃべりをしながら、お気に入りを切り取っては紙に貼り付けていった。 できあがったA3の紙は、教室や廊下にしばらく貼り出されていて、

174 記憶を花束にして

風がすっと冷たくなった。 それは本当に突然のことで、ある日の雨上がり、窓を開けるとすでに冬に近い秋がいた。 「久しぶり」 冷たい空気に、そう言われた気がした。 秋生まれの私は、空気が冷たくなってくると元気になる。 晴れているのに肌寒い。雲はぞろぞろと流れていく。夕陽が作る影は夏より濃く感じる。 べたべたしていない優しさというか、凛とした甘さというか。 そういうさっぱりした感じが好きで、うきうきしながら秋冬の支度をする。 部屋で履く靴下を出したり、湯たんぽを探したり。

173 モンブランでひと休み

日差しの強さに夏のなごりを感じつつ、落ちてきた葉に季節の移ろいを見る日々。 気がつけば10月。朝と夜の空気はすーっと冷たく、そこに夏はもういない。 少しずつ、でもためらうことなく季節は進んでいる。 明るい時間が短くなっていくことや、ツバメたちが南へ旅立つのは寂しいものだが、楽しみもたくさんある。そう。私は10月になったら近所のケーキ屋さんに行くのだ。 そこのケーキ屋さんは、昔ながらの小さなお店。ご夫婦で切り盛りされている。パティシエさんは何人いるのかしらというくらい、ケー

172 金木犀と深呼吸

気がついたら、夕方になる時間が早くなっていた。 お昼の気温が高くても夏と明らかに違うと感じるのは、きっと夜の存在が少しずつ濃くなってきたからだろう。 夜に向かう時間を味わいたくて、仕事を早めに切り上げた日のことだ。 別に何をするでもなく、ただ夕暮れに染まる街や川や木を見に外へ出た。 歩いていると、ばったり父に出会った。 わりと近くに住んでいるのに、顔を見るのは久しぶりだった。 「ちょっと背が伸びたんじゃないか」 父にそう言われて、心がくしゃっと寂しくなった。 私は中学2

171 虫の声とお茶漬け

虫の声が聞こえる。今晩も愛の言葉を月明かりに乗せて発しているようだ。 そろそろ寝なくちゃと思いながらも、窓から見える紺色の空とやや欠けた月をぼんやりと眺めていた。何を考えるでもなく、何をするでもなく、ただ吸い込めば体ごと夜色になるような濃い空気を味わっていた。 小腹が空いたので台所に行ったが何もない。その日はちょうど食材をきれいに使い切っていたのだ。仕方なく冷凍のごはんをあたためてお茶漬けを作ることにした。 私の中でお茶漬けは2種類ある。 1つは永谷園のお茶漬けのもとで作