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160 光がそこにあるなら

ある雨降りの夜。うっかりベランダのあかりをつけたままにしていた。
その日は昼から薄暗かったので、ベランダに出る時にあかりをつけ、その後すっかり忘れていたのだ。就寝時に部屋の電気を消した時、ぼわっと外が明るくて、ライトをつけっぱなしにしていることに気がついた。

消さなくちゃと思い、ベランダの近くに行くと薄オレンジのあかりが雨の雫を輝かせていていた。その美しさに目を奪われ、スイッチに手をかけたまましばらくガラス越しに外を眺めていた。夜と水と光。そろそろ蛍が出てくる頃だろうか。

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初めて本物の蛍を見たのは大学生の頃だった。
友人の実家の近くで蛍を見ることができると聞いて、泊まりに行った時のことだ。

私の中で蛍は百科事典の中のもの、あるいは漫画の中のものというイメージで、虫が光るということはなかなか想像できなかった。そのため、実際に見にいく当日でさえ、蛍は見られないかもしれないと思っていた。

友人の実家は山あいにあって、空気と水がきれいな場所だった。トンネルを抜けて車の窓を開けたとき、入ってきた風の冷たさと雑味のないおいしさに驚いた。家と家の間がとても離れていて、コンビニやスーパーはもちろんのこと、街頭もほとんどない場所だった。

車から降りると、木が生い茂っているのに空が広くて心地よかった。
うーんと背伸びをしたら、車を運転してくれた友人のお母さんが微笑んだ。

「ここに来たらね、みんな背伸びをして深呼吸をするの。きらびやかなものはないけれど、肌に触れるものや目に見えるものに心地よさがあるでしょう?」

私は
「本当に気持ちのいいところですね」
と言った。お母さんはおっとりと
「ここにはなんにもないように見えるけれど、なんでもあるのよ。」
と言って、また微笑んだ。

荷物を運んで家の周りを歩いていると、愛らしい花を見つけた。
たおやかな茎に薄紫色の花が咲いている。見渡すと、あちこちに咲いていた。

友人が
「ホタルブクロよ」
と教えてくれ、
「これも初めて見たの?」
と言った。

私は頷いて、
「へぇ。この花もホタルって名前がついているのね」
と言った。


六月の花といえばアジサイだが、ホタルブクロも梅雨時期の花で、「雨降花(あめふりばな)」とも呼ばれるそうだ。

友人の祖母が小林一茶の俳句を教えてくれた。

旅人に 雨降り花の 咲きにけり

「長野県の正見寺で雨の中詠んだんよ。雨に打たれながら揺れるホタルブクロが目に浮かぶじゃろ」

私はホタルブクロに雨が降り注ぐ姿を想像した。優しい薄紫色の花は灰色の曇り空や透明な雨によく似合う。

おしとやかな雰囲気の花で繊細な佇まいだが、地下茎で増えていく花らしい。目に見えない地面の下で、横へ横へ手を繋ぐような姿を想像すると微笑ましい。

ホタルブクロという名前の由来は諸説あるそうだ。
花の形が提灯に似ているためという説。(提灯の古名を「火垂(ほたる)」という)そのため、ホタルブクロの別名は提灯花という。

また、蛍が出る頃に咲くからという説もある。

最も有名なのは、昔、子どもが袋のような形のこの花に蛍を入れて遊んだことから名付けられたという説。

「おばあちゃんもそういう風に遊んだの?」
と友人の祖母に訊くと首をふった。

「私はようつかまえんかった。いつも見るだけよ。だから想像して遊んどった。蛍が入った花は紫色に光るんかなぁて。それだけで楽しかったんよ」

テレビも携帯電話もなかった頃、頭の中で映像を作って遊んだ少女を思い浮かべる。私が「ふふふ」と笑うと、おばあちゃんも「ふふふ」と笑った。想像力豊かなおばあちゃんには、私の頭の中が見えるのかもしれない。

そして、野澤節子の俳句も教えてもらった。

おさなくて 蛍袋の中に栖(す)む

どういう意味?と訊くと、
「言葉のまんまの意味よ。あんたが言葉から感じたことが正解。」
と言った。


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その日の夜。

友人と私は外へ出た。
街頭がほとんどない道。月も雲がかかってほとんど見えない。
山や友人の影がぼんやりと見えるだけだ。友人は、私の前をすたすたと歩く。

少しこわいかも…と思いながらついて行くと、友人が
「おばあちゃんとたくさん話してくれてありがとう。おばあちゃんうれしそうだったよ」
と言った。

私がホタルブクロのことを教えてもらっていたと伝えると、
「素朴だけどかわいい花よね。でも、私はホタルブクロより「釣鐘草(つりがねそう)」っていう呼び方の方が好き」
と言った。私はほう、と応えた。
道はどんどん暗くなる。だんだん方向がわからなくなってくる。

「英語だと「bellflower」。かわいいでしょう?風に吹かれていたらね、本当に鈴がゆれているみたいなの。半日陰でゆれている姿はね、見ていてもう夏が来るなと思うの。」

ほとんど真っ暗になりかけ、不安になって友人の服の裾を掴んだとき、ひゅっとなにかが横切った。

え?と思ったとき友人が
「ようこそ。蛍のすみかへ」
と言った。目が慣れてくるとちかちかとあちこちで光っている。
黄色よりも少し黄緑がかった光。ついたかと思うと消える小さな光、光、光。

だんだん木の影が見えてきて、私と友人は小川の近くに立っていることがわかった。
夜にすっかり包まれた世界、水のにおい、木々のささやき、そして音もなく光る無数の光。
人工的な光とは明らかに違う、冷たくて優しい光-。

私が言葉を失っていると、友人が手を繋いでくれていた。

「小さい頃ね、蛍を見に行くときは真っ暗だからいつも怖くて、弟やお父さんと手を繋いで歩いたわ。今は一人で歩けると思っていたけど、やっぱり暗いと不安ね」

友人の手はあたたかくて、少し湿っていて、やさしかった。
ホタルブクロも地面の下でこんな風に手を繋いでいるのかしら。
最初は親、兄弟、親戚…だんだん広がって、繋がって、いつか友人と。

蛍の光に包まれて、座るのもしゃべるのも忘れて、ただそこにいた。
甘い闇と穏やかな沈黙が心地よかった。

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家に帰ると、友人のお母さんは居間で昆布茶を飲んでいた。

「帰ったよ」
と友人が伝えると、
「おかえり」
とお母さんは言った。昆布茶をすすって、テーブルに置く。
ことりと音がする。

お母さんは独り言のように言った。
「蛍はだいぶ減っちゃったから寂しいね」

友人は「そうね」と短く答えた。
お母さんは
「蛍は蛍同士で光を使ってコミュニケーションをとるんだけど、最近、私達にも何か伝えようとしているような気がするのよね。僕たちを忘れないで、って。もう水を汚してまぶしい光を増やさないでって」
と言った。ぽつりぽつりと湯飲みを見ながら。

私と友人が黙っていると、お母さんはくるっと振り返り、私を見て
「あなたは、蛍を初めて見たんでしょう?どうだった?」
と訊いた。

私は今見てきた景色と感じたことをまだ整理できていなかった。それで
「尊いなって思いました。小さな命の光を感じました」
と言った。数え切れないほどいると思った蛍。でも、数が減っている蛍。

お母さんは、穏やかに微笑んでこう話してくれた。
「そうね。尊い。命は尊い。生きているものはみんな光を持っていると思うわ。蛍じゃなくてもね。蛍は夜に命の輝きを見せ、花や鳥、他の虫は昼に輝く。見えないようだけど、目をこらしたらちゃんと光っているのよ。光がそこにあるなら、それがすべて消えてしまわないよう見つめていきたいね」


明るい時間に見たホタルブクロ。ひっそりと緑色の中で紫色に灯っていた。
暗闇の中で見た蛍。夏に向かう水辺で星のようにまたたいていた。
どちらも音はなく、煌びやかな光ではないかもしれないが、いくつもの小さな光は自然の中で命を燃やしていた。


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私が暮らしている場所はホタルブクロも蛍もいない。
代わりに多くのマンションが立ち、夜も真っ暗になることはない。
華やかな世界。まぶしくて見えなくなっているものがあるかもしれない。

真っ暗な中で光で静かにコミュニケーションをとる虫たち。
地面の下で繋がる花たち。

見ようとしなければ見えないもの。
見えているようで見えていないもの。
そういうものが存在するということをあの家で学んだ。

雨が激しく降っている。
今年もあの家の近くにはホタルブクロが咲いているのだろうか。
夜、蛍はまたたいているのだろうか。

見えなくなっていくもの。
でも、今確かに存在するもの。

まずはそういったものを見ようとすること。
優しさは そこから始まるのだ。

みずみずしい夜色に灯るライトのスイッチを切った。


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