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今だからこそ、コトバのチカラを。

 衝撃的であり、非常に共感できる記事があった。

 今の子どもたちは、伝える「コトバ」を持ち合わせていない。このことに共感する学校関係者は多いだろう。「死ね。」「だるい。」これらの言葉を、その意味とは違うシチュエーションで使ってしまう。それを憂い、厳しく指導する教員も多いことだろう。

 しかし、この「コトバ」の問題は、子どもの問題ではない。その考えは、以前書いた下の記事をぜひ。

 この記事を通して、子どものコトバの「いま」を見つめ直し、どうしていくかを探っていきたい。


子どもの「言語環境」を想像してみる

 ふだん接している子どもたちは、学校以外ではどのような言語環境にあるだろうか。自分が接している子どもたちの中には、Youtubeが好きで、家に変えるとよく見ているという子が多い。

 Youtubeの人気チャンネルを流し見すると、「うざ!」「だるっ!!」「死ね!」「土下座!土下座!」などの「わるいコトバ」が散見される。
 これらのYoutubeを見ていたとしたら、それが「言語環境」となる。

 同じ価値観や趣味をもっている子達は、その話で会話が弾む。すると、「わるいコトバ」は、より交わされ、「言語環境」は強固なものになる。

 もしも、家にいて、保護者と居住を共にしているが、会話が少なかったとしたら…。
 そして、もし、保護者もそうしたコトバしか使っていなかったとしたら…。
 子どもが本当は知ってほしい感情を、「わるいコトバ」で断罪されたならば…?

 「わるいコトバ」を用いて、他者と関わり、感情や願いを叶えようとするのが、自然な行動になってしまうのではないだろうか。

耳に、「わるいコトバ」変換器を

 冒頭の記事では、高校生と教師の以下のやり取りが書かれている。

 高校生「うわー、死ねよ」
 教師「誰に向かって『死ね』なんて言ってるの?」
 高校生「誰に言ってるとかじゃないよ。くっそーと思って」

 この記事の高校生は、「悔しい」という気持ちを表現するための言語が、「死ね」というコトバだったのだ。
 周りの大人は、「死ね」というコトバを使ってほしくない。
 だから、「死ねなんて言ったらダメだよ。」という指導をするかもしれない。命の大切さを教えたいと強く願っている教師ならば、「死ねなんて言うな!」と強く指導するだろうか。
 
 本当は大切な命に関わるコトバの指導。
 それが、子どもに伝わらないと思うことも増えてきた。
 でも、この記事の高校生のように「悔しい」と感じて「死ね」と使っていた子どもに、「命の問題だから」と強く指導してしまったらどうなるだろうか。
 感情を押し殺したり、より強烈な「悪いコトバ」を用いて屈服させたりするようなことだってあるのではないだろうか。

 「わるいコトバ」変換器があれば、こうはならない。

 「死ね!」というコトバを、額面通りに受け取るのではなく、「悔しい」と読み取れる変換器があれば、コミュニケーションは、うまくいくだろう。
 コトバの知らない外国の人と、スマホを間に置いて、話し合うように。

変換器の正体は、「想像力」と「子どもの可能性への無条件の信頼」

 この「わるいコトバ」変換器は、悲しいことに、「自分の言うことが絶対」と思っている人は、使えない。そもそも、持つことすらできないだろう。

 なぜなら、この変換器の正体は、想像力だからだ。相手の立場に立つ。相手の暮らしなどの行動の背景に思いをはせる。そうした想像力を起動させるには、「どうしてそういうコトバを使う?」という疑問が不可欠だからだ。この疑問を、「自分の言うことが絶対」と思う人はもてないのだ。

 しかし、その想像力は、ある前提をもとに起動させなければ、「わるいコトバ」増幅器になってしまうかもしれない。

 それが、「子どもの可能性への無条件の信頼」だ。
 もし、これがなければ、「あいつはきっと悪いことをするんだ」と考えてしまうかもしれない。そうすると、正義で罰する心がムクムクと立ち上がる。
 そして、強い口調で言う。「そんなコトバを使っちゃダメでしょ!」と。

変換したコトバを、相手の心のたなに、そっと置くように。

 変換器は、「悪いコトバ」を、いろんなコトバに変えてくれる。

 「死ねや!」
→「ちょっとうまくできるか心配なんだよ。」
→「今は、トランプ中で、見られると落ち着いて、勝負できないんだよ。」
→「俺だって、本当は伝えたいことがあるのに、なんで聞いてくれないの!」

 「だるっ!」
→「この問題難しいから、できないんだよ。」
→「どうせ、やってもうまくいかないんだろ。知ってるから、あたし。」

 この変換の精度は、よく関わり、相手の情報量を増やすことで上がってくる。
 精度が上がり、確信をもてたならば、相手に伝える。

 伝え方が問題だ。私は、「相手の心のたなに、そっと置くように」伝えるようにしている。
 「頼む、届いてくれ。」と願って、そっと語りかける。

 「その死ねってさ、もしかして、心配ってことなんじゃない?」
 「今見てたら、死ねって、相手にトランプ見られたくないから言っているんでしょ?そしたら、『トランプ見ないでよ。』って言えばいいんじゃないかな?」

このコトバが届く関係性をつくるために、「コトバのチカラ」を教師が信じて

 私が関わってきた「悪いコトバ」を使う子どもたちは、例外なく「不安」や「心配」を抱えていた。
 もしかしたら、過去接してきた大人の「強い指導」に応えられなかったと心の奥底で感じているのかもしれない。
 学習がうまくできていない子であれば、「できない」という不安をかき消すために、「悪いコトバ」を使って、体裁を保っていたのかもしれない。

 そうした子どもたちの心には、傷がある。大きい傷、小さい傷。どんな傷であれ、とにかく量が多い。傷だらけなのだ。
 そこに対して、「強い指導」を入れると、それは傷口に塩を塗るようなものになってしまう。

 その子達にとって、強い指導をする教師は「自分を攻撃する敵」だと認識するのかもしれない。

 この認識を変えるのもまた、コトバなのだ。

 授業中にかけるコトバ、休み時間中、一緒に遊ぶときにかけるコトバ、他の子にかけるコトバ、他の大人と話すコトバ…。

 教師が、「コトバのチカラ」を信じて、子どもに伝え続ける。そうすれば、子どもたちが教師のことを、「自分のことを考えてくれる味方」と感じてくれるだろう。

 今だからこそ、「コトバのチカラ」を。
 信じて。伝えて。
 

 


 


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