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私が文章を書く理由。


女将と漁師のゆるマガジン、通称「ゆるマガ」更新!
今日は女将の文香のターンです〜

前回の記事はこちら。

そういえばこないだの記事の中でひーさんが

私の中で、ふみぽんフットワークがめちゃくちゃ軽くて、meinnにいるとき以外はいろんな地域を飛びまわっているイメージなんだけど、一体いつ休んでるんだろう?きちんと休んでるのかしら??

って心配してくれたのだけど、(ありがとう!)
私は好奇心旺盛すぎて世の中の知らないことを知るフェチなので
それが原動力となって稼働しているときはあまり疲れていないことが多いのかもと思った。そして、かなりしっかり寝ているのです…。多分みんなの想像以上に寝ている。ロングスリーパーだしね。ご自愛しつつ、飛び回ってるよ!


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さて、今日のお題は、「私にとって文章を書くということは何か」というちょっと哲学チックなものです。ライターをしていたこともあり、私の人生を語る上で切っても切れないテーマなので、たくさん考えました。少し、長くなるかもしれないな。こいつアホやん!と思うところもあると思うのだけど、ゆるっとお付き合いください。


文章を書くことは、私にとって逃れられない性癖?

まず結論をタイトルにしました。(笑)
「文章を書く」の中には、いろんな種類があると思う。エッセイ、小説、コラム、取材記事、考察記事、ブログ、日記、ツイッター、手紙、報告書、反省文、もういくつジャンルがあるのかわからないほど。
「文章を書く」ということを「自分もしくは取材した人の気持ち・考え・経験を何らかの媒体に文章で記録する」と定義したとしよう。
そうするならば私は「文章を書く」ことを、どんなに苦しくても下手くそでもやめない、と思う。多分、これはもう自分で自分にかけた呪いみたいなものなのなのかもしれない。「文章欲」というものが私の中にあって、満たさないとモヤモヤするような、そんな感覚。もはや一種の性癖かな?と思っている。

どうしてそんな私が出来上がっちゃったのか。ということを、この機会に書き記していきたいと思う。


「文章書くの得意!」と胸を張っていた小・中・高時代

小学校、中学校の夏休みの宿題に必ず出た「読書感想文」。私はあれが大好きだった。

「好きな本を読んで、印象に残った場面やその物語を読んだ時の自分の気持ちを書けるなんて、なんて楽しいの!いくらでも書けるわ!」くらい思っていた。毎年のようにクラスの代表みたいなのに選ばれていたような気がするし、当時は周りのみんなが作文を特に嫌がっていたから、「文章を書くのが得意なんてすごいね」とよく同級生に言われていた記憶がある。

中学校でもやっぱり文章を書くのが好きだった。国語のテストに、「物語の感想を自由に書きなさい。」みたいな空欄がたくさんある問いを見るとうれしくなった。足りないときは裏面まで書いた。当時は手紙を書いて直接渡すのが流行っていたけど、それも毎回自分の思いとか伝えたいことをてんこ盛りで書いていた。

高校では、ブログにハマって自分の日々をドラマチックな表現で書き記したりしていた。これは今だから言える恥ずかしい話なんだけどね。(笑)特に高校時代好きだった人と一緒に写真を撮る勇気がなくて、とにかく一緒にいるときの会話や空気感、自分の気持ちを文章で記録して残しておきたくてたくさん書いていた。多分恥ずかしいことをたくさん書いていたと思うなぁ。でも、文章で残しておけばその瞬間をすぐに思い出せるから、何なら写真よりも記録として機能しているんじゃないかくらいの勢いで書いていたな。もう、私もログインできずインターネットの海の藻屑と化してどこかで漂っているだろう闇のブログだけどね…。

小・中・高を通して、何でこれほどまでに文章を書くのが好きだったか。
一番の理由は、自分の世界に気持ちよく酔うことができる便利なものだったからだと思う。そして、話すよりも文章を書いた方が、自分の気持ちをもれなく伝えることができると信じていたから。書きながら思ったのだけど、私は文章を書くことに依存して生きてきたのかもしれない。


ある日、文章を書くことができなくなった

大学では教育学部を専攻したけれど、3年生の秋に行った3週間の教育実習を経て、「私は今すぐ教師にはなれない、子どもたちに何も教えることができない」と思ってすぐに就職活動に切り替えた。そこで初めて「自己分析」というやつをしたときにやっぱり残ったのは「文章を書く」ことだった。その時は深く考えずに「文章を書く仕事=ライターだ!」と思って、いろいろ探した。岩手でライターなんて仕事あるのだろうか…と思っていたところで、相談に乗ってくれていた友人のツテで制作会社を紹介してもらい、周囲の人たちのおかげで話がとんとん拍子に進み、ライターと名乗って仕事をさせてもらえるようになった。

私にあったのは、「文章を書くのが好き」という気持ちと、質はどうあれたくさん文章を書いてきたという経験だけ。そこからスタートして、先輩の書く記事や雑誌などを読んで学んだり、自分の書いたものを当時上司に見てもらったりするたびに、書くことの奥深さを知った。それと同時に、書けば書くほど「正解」が分からなくなった。(今はそもそも文章に「正解」などないと思うのだけど、それはまず置いておく)

そして、私が好きだった「文章を書く」ということと、ライターとして書く読む人に伝わりやすい「文章を書く」ということが全くもって違うということに気付いていった。私はただ自分が気持ちよくなれるだけの文章を書くのが好きだっただけだったと気づいて苦しくなった(普通に考えたらそこで気づくの遅すぎるしアホなんだけど)。そこからネガティブのスパイラルに陥って、書けば書くほど文章で伝えることの難しさにぶち当たり、苦しくなった。ついには自信を失くして、「もう何も書けない、文章を書くことが苦痛だ」と、人生で初めて思った。

今までの人生で積み重ねてきた「好き」「得意」「自信」が全部ひっくり返ったのだから、これは人生においてかなり重要な体験だった。でも私はすでに書くことでお金をいただき、それで生きていた。仕事だからこそ、責任があった。だから書くことと向き合い続けた。苦しくても、いくら時間がかかっても自分の文章と向き合い続けた。そんな私の様子を見て、何度も私の文章を見てとても丁寧に校正してくれた同僚には、本当に感謝している。

そこからは「文章を書く」ことへの自らの価値観をぶっ壊して、一から積み上げていく作業に入った。沼にはまったみたいに、ライターとして文章で伝えることを学んだ。実際に書いては消し書いては消し、また書くを繰り返した。改めて本を読んでみたり、他の人が書いた文章から素敵な表現や構造を見つけて真似してみたりした。いくつもの場面で文章の奥深さに触れ、いつの間にか「文章を書く」ということを面白がるようになっていた。そこには、今までの「自分が気持ちいい文章を書く自分」ではなく、「読み手に分かりやすく、伝わりやすいものを書くために必死に向き合う自分」がいた。


辛くて苦しくても、文章で伝えることを諦められない

私はもう、「文章を書くのが好き」と胸を張って言うことはできない。
辛くて苦しい経験もしたし、精神をすり減らしながらも向き合い続ける必要があることを実感してしまったから。

だけど、私は「文章を書く」ことをやめない。書くことのおもしろさに気付いてしまったから。そして、「この世にある素晴らしいものを感じたら、文章で残したい」という気持ちが根底にある。

今でも書けば書くほど分からないことが増えるし、何が「いい文章」なのかなんて、よく分からない。でも書くたびに、やっぱり私は書くことをやめられないなぁ、と、不思議な気持ちになる。書くことと向き合っていたい。そういう自分を好きだなと思う。ライターとして書くことと、こうしてnoteやそのほかのSNSなどで自分のことを書くことは、全くもって別な意識なのだけど、どちらも違ったおもしろさがある。癖になるし、やめられない。


最近は、言葉にできない感情とか雰囲気とかを何とかして言葉で解像度高いまま共有したいという気持ちが強い。言葉にすることを諦めずやっていきたい、と思う今日このごろ。


ちなみに、私が書いた文を「好きだ」といってくれる人がいる。とても嬉しい気持ちになる。伝えてくれたありがとう、と思う。その一方、私はまだまだ学ぶ旅の途中だから、もっと成長していろんな伝え方ができる人になるから、待っててね、と心の中でひっそりとつぶやいている。


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結局自分の世界に酔って自分の気持ちい文章を書いてしまった。
でも、ゆるマガはそれを書くことができる最高の場なのよね。
長いのにお付き合いいただいてありがとう。


次のテーマは!

note毎日更新の猛者、ひーさんが考える「文章を書くこと」について、聞きたいな。ひーさんが書くことを続ける理由って何なんだろう。

楽しみ。またね!










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