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だれにも理解されない苦海に30年あったのちに書かれた、佐藤愛子の「私の遺言」は、どうやって苦境から抜けたのかを教えてくれる。

まずタイトルが怖い。私の遺言。
令和3年時点で97歳でご存命の佐藤愛子さんが79歳のとき、自身の遺言にと書かれた本である。だからほんとうに、私の遺言。
著者の来し方は壮絶である。家族にだれひとり、ふつうの人がいない。著者は「佐藤家の荒ぶる血筋」という。父と兄のひとりは文学上は高名であったが、ほかの兄は被爆死、戦死、心中。高名なふたりも含めて、佐藤家の男性は、みんながみんな、激しい気性と女道楽から家庭を破壊し、詐欺や借金を重ねた。ほんとうに、平凡な人がだれもいない。すごい。
この佐藤家の大嵐に比べれば、わたしたちの日常なんて、そよ風のようなものである。
ひるがえって、著者の一人目の夫はモルヒネ中毒死。二人目の夫は、多大な借金を残して世を去った。
著者は強い。
めったやたらいるひとじゃない。
大借金と娘をひとり背負い、いのししのごとく、猛突しながら人生を突破してきた。

著者はこう書く。

この世には不幸な人と幸せな人がいる。強い者が勝ち、弱い者は負ける。知恵に長けた者が富と権力を握り、正直一途に生きる者は報われない。それがこの世のありようである。それではあまりに不公平ではないかと怒ったところで、何も変らない。そこでそんな目に遭うまいとして、人は利己的に生きようとする。そうして欲望を満たし、それを幸福だと思う。その幸福に満足して自分の強運を感謝していれば、安らかな死後を得られるのである。たとえどんなに利己的に生きようと。

私は一〇ですむ苦労を自分で一〇〇にしてしまう人間だった。手負いの猪さながら、脇目もふらずに突進し、衝突して痛手を広げる。日々これ闘い。人はみな敵。神もヘッタクレもあるかいな、という心境だった。子供の頃、神さまは「いつも見ていらっしゃる」と思い、その眼差しを怖れ、つつしみ畏んでいた私の、それが四十代の姿だった。


私は識者ではない。単純に考え、慎重に素朴に力を振って生きて来ただけの人間である。私に自慢出来ることがあるとすれば、力いっぱい真面目に(といっても私なりにだが)生きたということだけだ。友人は私を奇女変人だという。別の友人は頑迷固陋だという。私はいつもこの世の中と調和出来ず世間との隙間に苛立ち、その隙間を埋めたくてよく怒り、ますます隙間を大きくした。

「私はいつもこの世の中と調和出来ず世間との隙間に苛立ち、その隙間を埋めたくてよく怒り、ますます隙間を大きくした」、この文章に胸が痛む。あわないという痛み、沿わないという痛み。

その著者が、だれにも理解されない状況に、突き落とされた。
どうしようもなく、とほうにくれた。
あたらしく建てた北海道の別荘を発端に、激しい超常現象に悩まされることになったのである。
人間界の苦海をさまざま味わった著者でさえ、「だれにも理解されない」ということは大きかった。
こう書いてある。


何ごともそうだが経験をしている人と経験のない人との間に横たわる深い断絶を、私は常に感じるようになった。失恋をしたことのない人には恋を失った人の苦しみは実感としてわからない。健康な人は病人の歎きがわからず、金持ちは貧乏人に冷淡だ。私にとっての切実な苦悩が殆どの人にとっては理解の外のことであるのはいたしかたのないことだった。
説明が何の力も持たないこと、説明するのも億劫、したところで理解されないという情況の中に私はいた。無実の罪を被せられた人の気持がよくわかった。しかし罪人には弁護人がいる。私には私の代りに情況を説明してくれる人は一人もいなかった。

文面から染み出てくる孤独。
そのなかで、30年かけて幾人かの人たちが、著者に手を貸してくれた。

美輪さんの慈愛が胸に染みた。なぜ美輪さんがさほど親しくもなかった私のために、ここまでしてくれるのか、それに思い到った時、凍土に春の雨が染みて行くように、私の心は潤ってやわらかくなった。
もう何年も私は孤独な戦場に、まさに孤軍奮闘という趣で身を晒してきた。この私を守護する存在があるとは、夢にも知らなかった。そんなことなどある筈がないと思っていた。二十歳までの人並以上の幸せと帳尻を合せるためのように、乗り越えなければならない困苦が次々にやって来、その都度、私は力をふり絞ってそれを乗り越えてきた。それを自力でなし遂げたと自負していた。

この問題がついに解決したとき、著者は「私の遺言」を書いたのだった。

それはもしかしたら私に与えられた宿命、「使命」ではないかと私は思い始めたのだ。七転八倒しながら通過してきたもろもろのわけのわからぬ現象は、単に私を罰するためだけに起されたものではなく、それを人々に伝える役割を与えられたための苦しみではないのか。その役割を果すためには、これらの経験が必要である。何があっても逃げずに、試行錯誤しながら徹頭徹尾経験し尽すことによって、いつか目的地に辿りつく。そして与えられた使命を果し、私は漸く許されるのであろう。
そんな考え方をすれば私には力が出るのである。それが使命だということになれば、私には目的が出来て勇気が湧く。目的があるから旅人は雪や嵐の苦しい旅に耐えられるのだ。あてどのない旅の困苦は、旅人を沮喪させるばかりである。
今までのどの時もそうだったが、この展開によって私には新しい希望が生れていた。疑うよりも信じる方が私の性に合っているのだ。新しい展開があるたびに私は希望を持ち、それによってここまで生きて来たといっていい。

著者はここで力強く結ぶ。

私は短気で怒りっぽく、感謝するべきことも当り前と受け取るような 我儘娘に育っていた。だがそれゆえに身についた唯一つの美点といえば、この私が悲境に沈む筈がないという楽天的な自信があるということだ。そうしてもうひとつ、向う見ずな強さを父の血から受けていた。その性質が私に逃げ出すことを思い止まらせた。絶望的になったことはあっても絶望はしなかった。本来、人間の中には苦しみを克服する潜在的な力が備っていることを今、私は信じる。


(番外)
著者と作家の遠藤周作さんは、おたがいが女学生、灘高生だったころからの知り合いらしく、その交友は生涯続いた。
著者が、遠藤さんの死後、懐旧しているシーンの文面が、とても心温まったので引用します。

遠藤さんはでたらめをいうのが好きな、幾つになってもしようのない悪戯好きだった。だが生涯を通じて病弱な肉体と繊細な感受性ゆえの苦しみと闘った内省の人だった。

▼タイトルが怖くて、知ってはいたが長年読めなかった。

▼これも読んだのでまたレビューします。こっちはものすごい売れましたねー。

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