スポーツにおける「公平性」とは何か? ~トランスジェンダーの競技参加から考える~
例えばあなたが100m走に参加したとします。
何がなんでも勝ちたい勝負。「よーいドン!」で、必死に走った結果は 2 位。1 位でゴールテープを切ったのは義足の選手でした。
このときあなたは「不公平だ」と感じますか?
その昔、義足の選手が健常者よりも遅かった時代には称賛の対象でしたが、健常者より早くなった途端に不公平だと指摘されるようになりました。しかし、装具をつけることがズルいと言うのであれば、義足がダメでコンタクトレンズがOKな理由は何なのでしょうか?
先日、重量挙げ代表でトランスジェンダー女性(以下、トランス女性)のローレル・ハバード選手(ニュージーランド代表)が東京2020大会への出場が決定したことが話題になりました。
「元男性が女性の競技に出場するのは不公平ではないか」
と賛否両論、様々な議論が巻き起こっています。
突然大きな問題が起こったかのように扱われがちですが、何もこれだけが特別な問題というわけではありません。前述のようなスポーツ界における様々な課題のひとつです。
この件に関する意見を求められることが多いので、自分なりにどう捉えているか、いくつかの視点からここに考えをまとめてみます。 非常に難しい議論なだけに明確な答えが出せるようなものではありませんが、今回は「スポーツと社会における公平性」をテーマに、様々な角度からみなさんと考える機会にしたいと思います。
人権尊重と競技における公平性の両立とは?
まず、僕個人としてはトランスジェンダーの元アスリートのひとりとして、トランスジェンダーの競技参加が保証されたことを大変喜ばしく思っています。 僕が競技生活を送っていた当時はLGBTQとスポーツに関する十分な情報もなく、トランスジェンダーである自分が競技を継続することなど不可能だと思っていました。自分らしくありたい(男性らしくありたい)と思えば女性の競技者としての人生はありません。逆に競技生活を優先させれば、自分らしくいることはできませんでした。「自分らしさ」と「競技人生」の両立など考えたこともなかった、というのが正直なところです。 ちなみに「トランス男性のくせに女子競技に出ていた!」と指摘を受けることがありますが、僕が競技をやっていたのはトランジション前で男性ホルモン投与などは一切していない時でしたし、どこに帰属するのかは自分が選べたことではありませんでした。
(トップの写真は15歳のころ、僕が初めてジュニア代表としてアジア大会で準優勝をしたジャカルタにて)
この議論で最初に抑えておきたいポイントは、スポーツ界の憲法と言われるオリンピック憲章にも、スポーツ基本法のどちらにも「あらゆる差別の禁止」と「すべての人がスポーツに参加する機会の確保」が謳(うた)われていることです。「すべての人」と言ったら「すべての人」なわけです。これを大前提とすると、 ある属性の方だけがスポーツ界から排除されるようなことがあってはいけません。
一方で「元々男性だった選手が女性の選手として出場するなんて不公平だ!」という批判も出てくるでしょう。もちろんトランス女性と同じく、シスジェンダー(生まれたときに割り当てられた性別と性自認が一致している人)女性の権利も守る必要があります。怪我をしてしまうかもしれない、そういった懸念点も考慮しなければいけません。しかし「トランス女性の権利を守るとシス女性の権利が奪われる」と、まるで対立関係のように語られがちですが、これはそんな単純な話でもありません。
人権尊重の観点と競技における公平性の両方を確保するため、過去 20 年以上にわたり各競技団体は科学的根拠に基づいて合理的なルール策定に取り組んできました。現在、国際オリンピック委員会(IOC)ではテストステロン値に基づく規制を定めています。
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IOCが定めたトランスジェンダー選手の参加条件
IOC Consensus Meeting on Sex Reassignment and Hyperandrogenism 2015
●選手の人権尊重が基本
●性別適合手術の必要はなし
●トランス男性アスリート参加規定
→条件無しで男性として参加可能
●トランス女性アスリート参加規定
→下記の条件つきで女性として参加可能
① 性自認が女性であることを宣言
② 宣言した性自認は4年間変更不可
③ 出場まで最低1年間 血清中テストステロンのレベルを10nmol/l以下に維持
④ 女子カテゴリーで競技を希望する期間中を通して血清中テストステロンのレベルを10nmol/l以下に維持
※ 上記規定は執筆当時のもの。その後2021年11月に改訂され最新の規定は下記となります。(2023年5月現在)https://www.joc.or.jp/olympism/document/pdf/framework2203_jp.pdf
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上記のとおりIOCが定めた現状のルールも昨日今日の議論ではなく、前述した人権尊重と競技の公平性をどのように両立させるのか、検討に検討を重ねた結果、現段階において採用された基準です。見ればわかるように「女性だと言えば女性競技に参加できる」わけではなく、一定のルールが存在していることは強調しておきたいと思います。
もちろん場合によってはこのルールのアップデートが必要かもしれません。より合理的でより多くの人が納得できるルールを設けるために、今後どのように基準を作っていくのかという建設的な議論は必要です。
しかし、ここで注意したいのは、前述した IOCのルールに対して異論があったとしても、競技に出場するトランス女性選手に対する個人攻撃はあってはならないということです。 現時点でのルールを守った上で、厳しいトレーニングをして出場を決めた選手に対して「不公平だ」「卑怯だ」などいう言葉を投げかけるのは筋違いです。
時々「メダルを取るため男性選手が一時的に女性だと偽り不正がおきるのではないか?」言う懸念を口にする人もいますが IOC のルール①②にあるように性自認が女性であることの宣言と共に、少なくとも4年間は変更が不可能とあります。
地位と名誉が手に入る可能性があるからといって、あなたが明日から24時間×4年間、日常生活のあらゆる場面において、これまで暮らしていた性とは反対の性だと偽って社会生活を送り続けることができるでしょうか? 少し想像しただけでも現実的ではないことがわかるでしょう。元々性自認というのはそんな簡単にコロコロ変わるものでも、変えられるものでもありません。
このように偽った性で暮らすのが困難だからこそ、トランスジェンダーの多くは苦悩が大きいのです。様々な誹謗中傷を受け、社会との軋轢(あつれき)の中で本来の自分の姿を取り戻していくのは簡単なことではありませんが、ハバード選手はそれだけの困難を乗り越えてオリンピックの出場を決めている選手でもあるということです。
スポーツにおける公平性とは?
また、スポーツ界における公平性とは一体何なのでしょうか?
性別に限らず、スポーツ界には様々な不公平が存在します。
そもそもトレーニングする環境すら揃わない貧しい国の選手と、最新の施設でトレーニングをする選手が競うのは公平なのでしょうか? 体重別はありますが、身⻑別の種目はありません。2mを超える女性がバスケの試合で活躍したとき、それは「ギフト」なのか「チート」なのか?どちらなのでしょうか?
持って生まれた身体的特徴である身⻑が高すぎても「ずるい」という批判は出ませんが、同じく生まれ持った身体的特徴であるにもかかわらず、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手のように、生まれつきテストステロン値の高い女性選手の中には、ホルモン値をさげる治療を受けないと競技に出場できないと言われる人もいます。果たしてこれは本当に公平なのでしょうか。
人種によってもかなりの体格差があります。 実際僕が初めてドイツで行われたフェンシングの世界大会に出場した際、190cm 近いポーランド代表の女性選手と対戦することになり、162cmの僕はまるで話にならないほど完敗したことがあります。正直「こんなのずるいよ!勝てっこないじゃん!」と心の中では思いましたが、それを口にしたところで相手にしてくれる人は誰もいないでしょう。
身体が小さな男性も、大きな女性もいます。ハンデもアドバンテージも、心身や様々なバックグラウンドを含め、その全てをフル活用できるように厳しいトレーニングを積み重ねて競い合うのがアスリートの世界です。
「そうは言ってもやはりテストステロンだけは特別なんだ。ドーピングの問題を見れば明らかだろう」 という批判もありました。しかし今回話題になっているハバード選手は、世界ランキング 7 位です。つまり彼女より強いシスジェンダーの女性選手が少なくとも 6 人はいる状態です。これを見ればテストステロン値と単純化することもできないのではないでしょうか。
身体の性と身体能力は関連が深いからこそ男女で分かれて競技をしてきましたが、一方で、同じ理由を以て人種や年齢で競技をわけることはありません。そもそもスポーツは強い男性リーダーを育成することを目的に発展してきた背景があります。そのためスポーツにおける優劣を決めるのは「強い・早い・高い・遠い」を中心として、平均的に見れば男性優位にルールが作られています。この評価基準ではなく、しなやかさや柔軟性、表現力を競う種目がもっと増えていけば、男女だけではない競技の分け方の可能性もあり、議論自体も変わったものになっていくかもしれません。
男女で一緒に競技を行う乗馬のように、各競技ごとに「公平」なルールとは何か?を考えていくという視点も大切です。
また、現在男女で競技が分かれているのは平均的な身体能力の差だけではなく、男性だけであったスポーツ界に、女性のスポーツをする機会を保証するために女性競技がつくられたという背景もあります。ではトランスジェンダーの選手に機会を確保するためにはどのようにすればいいか、これまでの「男女」という枠組みの内側だけに探すのではなく、その枠組み自体を変えていくという視点も必要です。
他にも、有利な人には非常に厳しい目が向けられますが、「不利な人」のマイナス面に目を向けられることがないという点も指摘しておきたいと思います。これはトランス女性の選手に対する凄まじい批判がある一方で、トランス男性の不利な立場をなんとかしようという話が出てこないことからも明らかです。
「真の公平」を目指すのであれば、有利な点ばかりにめくじらをたてるのではなく、不利な点にも目をむけて、公平か不公平か?を考えていく必要もあるのではないでしょうか。
社会とスポーツの切り離せない関係性
スポーツの枠を超えて、もう少し大きな視点でみてみましょう。 この議論において僕個人が強く思っているのは、これだけトランス女性の競技参加が不公平であると世間が取り上げるのであれば、日常生活においてトランス女性がどれだけの不公平を社会から強いられているか、その点にもしっかり目を向けてほしいということです。
トランス女性はトランスジェンダーであり女性であるというダブルでマイノリティであるため、多くの当事者が日常生活さえ送ることが困難なほどの生きづらさを抱えています。家族から否定され、学校ではいじめの対象になり、就職の面接で落とされるetc. もちろん全員とは言いません。国によっても違うでしょう。だとしても、世界的にトランス女性に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)の数は群を抜いています。
今回のようにこれだけ偏った形で話題になることは、トランス女性に対する偏見を更に助⻑させる危険性があり心配です。そのような現実は一切取り上げずに、ある部分だけを切り取って「不公平だ!」 と議論している、この議論こそいかに不公平な議論かを知ってほしいと思います。
こう話すと、「競技における公平性の話をしているのに社会課題の話にすり替えるな!」という方もいらっしゃいますが、そもそもスポーツと社会は密接に絡み合っており、切り離して考えることはなかなかできません。
スポーツが得意な子がクラスの人気者になるように、「スポーツができる」ことは社会から高評価を得ることに繋がります。スポーツができればいい学校に進学ができ、それはいい就職先に繋がっていく。プロ選手ともなれば地位も名誉も得ることになります。もちろんそれはスポーツに関わった全ての人に用意された道ではありませんが、少なくとも誰にでもそのスタートラインにつく機会は平等にあるべきです。
スポーツ界に居場所がない LGBTQ
アメリカの一部の州でトランス女性のスポーツ参加が禁止される法律が通ったというニュースがありました。 議論のきっかけはトランス女性が活躍することで、シス女性が活躍する機会が奪われたからというものです。仮にシス女性が活躍する機会を失ったとします。だからといってトランス女性を排除した場合、今度はトランス女性が活躍する機会を失うことになります。その不公平についてはどう考えたらいいのでしょうか?
一部に言われるようにトランス女性の選手がメダルを総取りしている状態ではなく、実際にはトランスジェンダーの高校生が勝ったレースの数日後にはシスジェンダーの高校生が勝ったりと、意味のある試合が成立しています。このような実態を無視して、マイノリティの権利を多数決で決めることには暴力性が存在するのではないでしょうか。
このようにトランスジェンダーの多くはその属性から、そもそものスタートラインにつくことすら許されない場面があります。 スポーツ界から排除されることは社会から排除されることに等しいのです。
また、これはトランスジェンダーだけでなく、LGBTQの子どもたちの多くが早い段階からスポーツ界から排除されている現実もあります。 LGBTQの当事者が子どものころにもっとも嫌な思いをした場所のトップ3が更衣室、体育館、部活、と全てスポーツにまつわるところであるというデータもあります。 LGBTQであることをオープンにしながら社会で活躍する大人がまだほとんど可視化されていない日本において、LGBTQの子どもたちが未来を描くのは非常に困難です。だからこそ、LGBTQの選手がスポーツ界で活躍する姿は、思い悩む子どもたちの夢と希望につながるとても大切なことでもあります。
スポーツとジェンダー
⻑々と書きましたが最後にもうひとつだけ。
この議論は男性支配的なスポーツから女性を解放する議論につながる可能性があるのかもしれない、ということも記しておきたいと思います。
「お兄ちゃんはサッカー頑張って!あなたは女の子なんだからスポーツなん てしないでピアノでもやりなさい」
このように⻑らくスポーツの世界から女性は排除されてきました。女のくせにサッカーやラグビーだなんて。今ではそんな言葉を跳ね除け、様々なスポーツで活躍する女性選手も少しずつ増えてきています。
かつて男性として競技をしていたローレル・ハバード選手は女性に性別を移行してもなお競技を続けています。女性として生きたいと思いながら、男性的と言われる筋トレに日々いそしみ、女らしくないと誹謗中傷を受けながらも自己ベストを出すために自分のすべてをかけている。男女という枠を超えて、スポーツそのものに魅力を感じている証拠ではないでしょうか。
ハバード選手が社会の言う「女らしさ」に挑戦する姿は、「女はこうあるべきだ」、という枠から全ての女性を開放してくれる可能性もあるのです。
誰もがスポーツを楽しめる社会とは?
最後に今一度、原点に立ち返りたいと思います。
スポーツ基本法やオリンピック憲章に謳われているように、全ての人が差別を受けることなく公平に競技をするためにはどうしたらいいのでしょうか?
答えのない問いかもしれません。それぞれの立場によっても見えている景色は違うものでしょう。考えれば考えるほど迷宮入りしそうな問いではありますが、この難題から逃げずに向き合い、建設的な議論を行い、より良い社会に繋げていく。身体的な優劣にメダルを与えることだけがスポーツの目的ではないはずです。
「スポーツを通じて世界平和を目指す」オリンピックというタイミングだからこそできるかもしれません。
オリンピック・ムーブメントは、誰も取り残されることなく、すべての人が自分らしくスポーツを通じた喜びを享受できる社会、世界、未来を目指しています。東京2020大会の基本コンセプトのひとつでもある「多様性と調和」を単なる言葉に終わらせないために、私たちには今、一体何ができるのでしょうか。
みなさんと対話を持って、この機会に社会を一歩前進させたいと思います。
これからの社会に、そしてより良い未来に繋げていきましょう。
是非みなさんのご意見もお聞かせください。
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