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アメリカ、遠い夏の日の記憶

13歳の夏、アメリカへホームステイに行く数ヶ月前に、私はホストファミリー宛に手紙を書いた。

もう20年以上前の出来事だ。

「私はレオナルドディカプリオが好きです。タイタニックも好きですが、ボーイズ・ライフという映画が特に好きです。ロバートデニーロもいいですね。牛乳は大嫌いです。夏に会うのを楽しみにしています。」


学校から、好きなものと嫌いなものをあらかじめ書いておくといいと、言われていたのでこうなったのだ。

このおかげで、ホストファミリーはレオナルドディカプリオにまつわる幾つかのゴシップを教えてくれ、日本で当時未販売だった写真集を手に入れることができたが、好物のチーズバーガーから毎回私の分のチーズを抜かれてしまうことになってしまった。

どうやらホストマザーは私が乳製品全般が体質的にNGだと思ったらしい。(I can’t drink milk at all. と書いてしまった記憶がある。)

この時、アメリカ人はアレルギーや食の趣向に対してとても敏感に考えているのだと知った。私の住む日本の地方都市では、当時ほとんどこういうことを意識されることがなかった時代だった。
私は、給食で出されている牛乳を、毎日無理矢理飲せようとされてきた苦痛な小学生時代を、この時にはずいぶんバカらしく思ったものだった。

自分が当たり前だと思っていたことが、別の土地に来れば常識ではなくなるのだと気がついたのだ。


今思えば、私が13歳という年齢でたった1人でアメリカに行ったことはとても幸運だったように思う。

親が積極的に渡米を勧めてくれたわけでも、自ら切望したわけでもなく、学校で募集していた交換留学生に気まぐれで応募したところ、偶然当選しただけのことだ。

私は本当に、運が良い。

ホストファミリーが暮らすのは、オレゴン州のポートランド市街の外れに位置する、山と海の両方に囲まれた自然豊かな住宅街だったと記憶している。

8月の初め頃になると、日本と比較にならないほど日が長くなり、夜9時頃まで外が明るい。
これには随分と驚いた。私が日本にいた頃の夜9時といえば、そろそろお風呂に入って、好きなテレビドラマを見ながら眠る準備をするような時間だった。

私はファミリーと一緒に、よく夜遅くまで近くに綺麗な滝のある低い山にトレッキングに出かけたり、近くの公園へサンドウィッチを持ってピクニックに出かけたりした。普通の公園なのに移動式の遊園地があり、そこで今にも落ちてしまいそうな観覧車に乗った。あれは今思い出してもかなり怖い。

ホストファーザーはよく朝市に出かけて、ファーマーズマーケットでプラムのような甘酸っぱい果実を買ってくれた。
その場でペティナイフを使って小さく削いでくれたのを、子供達と一緒に食べた。
「オーガニックだから皮ごと食べられるんだ」と言って皮は剥かなかった。
(後になってオーガニックの意味が理解できたのだが)

当時よく観ていたアメリカ映画に、林檎を布で拭いて皮ごとかじるシーンがあり私はそれに憧れていた。ホストファーザーに言うと、その通りのこともよくやらせてくれた。少しだけ悪いことをしているような気分になり、余計に美味しかった。

ある日、ホストファーザーと2人の子供たちと一緒に水着を持ってオレゴンコーストに出かけたことがあった。

そこは、日本の海とはなぜだか全然違っていた。砂がサラサラしていたし、風が乾いていて心地よかった。行くときには、いつも晴れて太陽の日差しが痛かった。

海に入り水遊びをした後で沖に上がると、体が1分もしないうちに乾いた。本当に一瞬でカラッとした。
それに、汗をかくと、腕には塩が吹き出していた。

「ああ、西海岸は日本のように湿度がないからね。汗が蒸発してすぐに塩ができちゃうんだよ」

ホストファーザーはいつも色々なことを私に教えてくれた。
いつだったか、オレゴン州とワシントン州の境界線に連れていってもらった。

「そうだな、東京と神奈川みたいな感じだよ。日本語だと県とかっていうでしょ。隣の州なのに、決まり事だって違うんだよ。」と言った。

ホストファーザーはかつてSONYのアメリカ法人に勤めていたのでほんの少しだけ日本語や日本のことを知っていたのだ。

その時はじめて私は「州」という概念を知り、州によって法律が違うということを知った。オレゴン州には消費税がなかった。

その近くで私たちは、エビやイカリングなどの美味しいシーフードのフライと、付け合わせに大量のポテトが添えられたディナープレートを食べた。
当時、食が細かった私でも、美味しくて簡単に平らげてしまった。


夕暮れどきの海岸沿いは、空が紫色をしていた。車の窓から感じる乾いた風が頬を撫でて、とても気持ちがよかった。
遠くの方を見ると、海がどこまでも広がっていた。大地の方を見てもどこまでも広大だった。
食べ物も土地も全部、見たことがないぐらいに大きかった。
あんなに広く続く景色というものは、未だかつて、私は見たことがない。

あの海の向こうを見続けても、私の住むところまでは、到底見えないだろうなと当たり前のことを考えていた。

私は、親も友達も誰も知らない土地に来てもホームシックになることは1ミリもなかった。
  
ずっとここにいられたらどんなにいいだろうか、と思った。
でもそんなことはできないということも、頭ではわかっていた。

この時の私は、「たった1人で誰も知らない土地に出向く」ということが、後にどれだけ自分にとって大切なことになったか知る由はない。

それが、私が大人になり、私が度々ひとり旅をするただひとつの理由になるということを。


13歳のその夏の間で、私は色白だった肌が小麦色になり、顔まで変わってしまった。

丸みのあった頬が少し鋭くなり、垂れ気味の瞳が少し釣り上がった。
髪の毛もミディアムからロングヘアになった。これまで好んで身につけていたキャラクター系のアイテムが恥ずかしくなり全部捨てた。

私はアメリカの土地で、子供から大人になっていたのかもしれない。



帰国後、中学校でのくだらない噂話や意地の張り合いや、親の過干渉や、同級生たちの幼稚な趣味や、部活の先輩からの不条理な嫌がらせには、到底付き合いきれなくなっていた。

アメリカでの夢のような日々から一変、なんとなくあの頃は毎日が辛かった。

全ての物事へのやる気を失い、大好きなピアノをやめた。突然学力テストの順位が急降下した。

だがこの頃、私は学校から帰ると、父のシアタールームに入り、レーザーディスクの映画コレクションを漁るようになった。
まだ観たことのない、アメリカの映画がそこにはぎっしりと並んでいた。

中でもお気に入りだったのは「スタンドバイミー」だった。親に内緒で何度も観た。後であのロケ地がオレゴンの小さな町で撮られたと知った。

当時、私がアメリカで目にしていた、がらんとした静かで何もない田舎町や、木々が生い茂った林や、古びたグローセリーストアが、その映画の中にはあった。

私はそれ以来ずっとアメリカのあの時の風景を求めて、映画を見続けているのかもしれない。

あれからもう、20年以上の月日が経った。

私はあれから何度も1人でアメリカに行くことになる。何度か幻滅もしたし、少しだけ傷ついたこともあった。
それでもなせだかあの国には、強烈に惹かれるものがあったのだ。

だから私はこの先も何度でもアメリカの大地を踏むことになるだろう。そして、きっとあの景色を求めてアメリカの映画を観るのだろう。

あの頃の記憶が、私自身の原風景なのかもしれない。

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