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映画「マティアス&マキシム」近すぎて見えなくなるほどの、愛と優しさの物語

これは、同性同士の恋や、何か特別な恋愛物語を描いたものではない。

男や女なども全く関係なく、どこにでもある普遍的な人間の愛の物語だ。


思わぬきっかけで、思わぬ人を好きになる。

そういう経験がわたしにもある。

そして、この作品を観て、グザヴィエ・ドランという監督はきっとすごく優しい人なのだと思った。

ごく個人的な思い入れからこの映画を大切にしたいと感じ、ここに感想を書くことにした。

彼の映画から垣間見える監督としての唯一無二の作家性や、俳優としての繊細さ、人間の感情の機微の描き方の凄さに気がつき、改めて魅力を感じる作品だ。

これはきっと、数年後にまた観返したくなるだろう。

自分の感性がまだちゃんと生きているか、確認するために。




カナダの若き天才、グザヴィエ・ドランが監督・主演の映画「マティアス&マキシム」

日本では2020年に公開されている作品だが、何故かタイミングを失い最近になって配信されたことに気がつき遅ればせながら鑑賞した。

ストーリー

幼馴染のマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)と、マキシム(グザヴィエ・ドラン)は、いつもの仲間達の集まるパーティーで友人の妹から、あるお願いをされる。短編映画のキスシーンを演じることになった2人だが、そのキスをきっかけに互いに秘めていた気持ちに気がつき…。
婚約者がいるマティアスは気持ちに戸惑い相手を避けようとするも、嫉妬の感情が溢れてしまう。マキシムは友情が壊れることを恐れ、オーストラリアへいく準備をする。——


親友に恋焦がれてしまった戸惑いや葛藤以上に、

「自分がどれだけ傷ついても、相手をどれだけ傷つけてもいい」

とさえ思ってしまうほどの近すぎる想いと相手との関係性。

あの、一瞬の忘れられないあの人と通じ合えた瞬間がずっと脳内にこびりついてしまうほどの強い情動を抱え、葛藤しながらも自分の手中に入れたいと欲望し、密かに嫉妬に心を燃やしてしまう。

自分にも覚えのある恋愛感情だ。

想い合えない不器用な2人の仕草は痛々しくも美しく見えた。


グザヴィエ・ドランという監督ほど、家や地元といった狭くて小さな不健全なコミュニティの中での会話劇を繰り広げられる監督は他にいない気がする。

この作品も終始地元の仲間達と過ごす時間がベースになっている。そこに、家族や近所の交友関係が追加されていくだけだ。

むしろ不快感さえ感じる数々の会話シーンは、かえって愛に満ちているようにさえ思うのが不思議だ。

※私自身はむしろ地元コミュニティや家というような枠組みにむしろ嫌悪感を抱いてしまうタイプなのに、彼が描くそれにはなぜだかもう少し違ったものを感じる。それがなぜなのかまだよくわかっていないのだが。

人の心情の変化を的確に捉える独特のカメラワーク、間の使い方、ピアノの旋律。それらのセンスに彼らしい作家性が溢れていてトーンとしても好みだ。

なによりも、人間に向けた眼差しが優しい。

近しい関係性の人との恋の物語だけでなく、これはまた別の愛の話でもあると感じた。

特に母親や、ずっと成長のない古くからの仲間やその周辺との人間関係は一見して不健全な気がするのにそれすらも引き受けて生きていくという気概を感じる。

彼にとってはそれがむしろ自分らしくいられる居心地の良い場所なのかもしれない。


それは、マキシム演じるドラン自身が顔に痣を作った理由について語っている記事を読み確信した。

「彼がいかに友人達とリラックスして過ごしているかを強く表したかったんだ」

「あれだけ顔に目立つ痣があっても、誰も何も触れないぐらい当たり前になっていることなんだ」

実は、私の兄の右の頬にも生まれつき彼と同じような痣がある。
もっと小さいけれど、たしかに普通の人にはないものだ。
私も、もちろん家族も皆もうそれが当たり前すぎて「痣があること」すら認識をしていなかったレベルだ。この作品を通して、そうか兄にも痣があったのだと気が尽かされたぐらいである。

妹の私がいうのもなんだが、兄は昔から社交的で人気があり私よりもずっと色白で、肌や髪の毛がとても綺麗だった。おまけに中学生になると、勉強ができて成績が良くて運動神経も良いことにも気がつく。長男で周りから期待されてその期待にも応えて、そして何よりも自分の望む人生をずっと生きているタイプだ。要領が良くて昔から羨ましいと感じていた。

だが今振り返ると、ある年齢以降から決して友人が多い方ではなくなった気がする。それに、本当に幼い時から初対面の時には毎回必ずその痣について説明しなければならない残酷な質問を浴びせられてもいたのではないだろうか。せっかくの綺麗な肌よりも、痣の方に目を向けられていたのではないだろうか。
妹の私でさえ「そういえばお兄さんって顔に痣があるよね?」と言われるだけで深く傷ついたものだったのだ。兄という人格を形容するものは、全くそんなところではないと思っていたからだ。

兄は快活で自分一人でどこまでも行けるような人だが、人間関係を最小限にとどめるのは、もしかしたら実は長い時間をかけて無意識的にその顔の痣と折り合いをつけるためだったのではないだろうか。

もう私たちは十分に大人で、兄には2人の子供もいるけれど、それでもかつて子供だった頃の彼が、傷ついていなかったことを祈らずにはいられなくなってしまった。そして私が嫉妬するほどの兄のバイタリティや生き方はそれがなければあり得なかったことのようにも感じてきたのだ。



グザヴィエドラン自身が持つ作家性というのは、彼自身の心の傷や不安からきているものなのかもしれない。

そしてドラン演じるマキシムの顔の痣が友人達にとって当たり前で触れるまでもないことのように「当たり前すぎて、見えなくなる」ということが、本当の意味で自分とは違う他者を受け入れるということなのだと教えてくれる。


誰かを愛する美しさと難しさ、なによりも自分がリラックスできる人間関係を不健全性も含めて愛おしいものとする描き方に、人間らしさを感じた。


改めて他の作品もまた新たな視点で観なおしたくなる。

ドランは「マキシムのように顔に大きなあざや傷がある人は、周りの視線が気になったり、そのことをコンプレックスに思っているかもしれない。常に周りからの視線にさらされて生活するということを、僕はよく知っている。僕自身も人目の中で生活し、成長した。顔にあざを付けて撮影現場に入ったとき、ほかの人にどう見られているのか改めて実感したんだ。僕だと気付く前にまずあざに目をやり、それから二度見するんだ。ほとんどの人はそこに注目して、そのことで本人はさらに傷付く」と語り、「マキシムのあざは、僕の心にある傷のようなもの。過去数年間、友達がいてくれただけで僕が忘れることができた僕自身の不安や恐れなんだ」と説明した。

引用元 https://www.google.co.jp/amp/s/amp.natalie.mu/eiga/news/396672


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