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アメリカで過ごした13歳の自分へ

なぜあの時、いえなかったんだろう。
13歳の私は、アメリカから日本に帰る飛行機の中でひとり涙を濡らしていた。

私は、いつか国際ジャーナリストになって世界を飛び回り、またアメリカに来ると言い、隣にいた別の中学生の女子は、CAになると言った。実際には、私は日本で普通の会社員になって、もう1人の子は看護師になった。


今から遡ること22年前、13歳の夏に当時通っていた中学校にアメリカの短期留学プログラムがあり、それに参加したときのことだ。

それは本当に偶然のことだった。
そのプログラムは、考えられないような破格の価格でアメリカへホームステイ留学ができるというものだった。
半額以上は学校が負担してくれるものだ。

私は取り立てて、それに参加する気はなかったし、応募するつもりはなかった。
そんな中、仲の良い友人の1人が「本場のユニバーサルスタジオと、ディズニーランドにいけるのに応募しないなんてありえないよ」
という趣旨のことを言っているのを耳にした。
私はアメリカ事情には映画以外ではとても疎い田舎の中学生だったので、当時まだ日本にはなかったユニバーサルスタジオなるものが何なのかさえ知らなかった。
だが、まんまとその誘いにつられた私は人生で数少ない運をつかい、なんと当選し、その半年後、中2の夏に1人アメリカに行くことになった。友人は落選した。いけるかどうかは、応募者の中からくじ引きで決まったのだ。

私の人生は、大体、意気込んで何かしたことよりもこんな風に流れに身を任せて起きた出来事により何か思いもやらぬ方向へ変化するような気がする。

はじめてのアメリカ大陸は、わくわくと驚きと衝撃の連続だった。「最高!」って叫びたい瞬間が何度あったことか。(何が最高か?そんなのどうだっていい年齢だった)
 
最初の数日は、当選した数人の学生と添乗員で観光をし、その後各自がホームステイ先で留学プログラムに参加するという日程だった。帰りの日は、空港で待ち合わせ、一斉に日本に帰る。こんな感じだ。

予定通りディスニーランドとユニバーサルスタジオにも行った。ディズニーランドは日本のほうがいいなあ、と思ったが、初めてのユニバーサルスタジオのスケールの大きさには圧倒されたしとても感動した。アメリカってなんでこんなにすべてのサイズが大きいの?と。入国して3日か4日かしか経っていなかったが、この時点ですでに間違いなく私はオーバーリアクションを身に着けていたし(Wow!とか、OMG!とかAbsolutely!とか)、日本では絶対に飲まないスプライトのビッグサイズも平らげられるようになっていた。ちなみに今の私にはAbsolutelyの発音は全然うまくできないし、ビッグサイズのジュースは飲み干せない。そう思うと子供の吸収力というのは、本当にすごい。

わたしのホストファミリーは、お父さんとお母さん、それに3歳と5歳の女の子と男の子のいる4人家族だった。アメリカ西海岸、オレゴン州ポートランドのダウンタウンから少し車を走らせた場所にある郊外の住宅街だった。それはまさに私が、映画で観たことがある景色だった。
家族は毎日どこかに連れて行ってくれて、毎日その子供達と遊んだ。ただただ、楽しかった。たいして美味しくもない料理でも普段家で食べるものと違っているだけで嬉しかったし、人生で初めてタコスを食べたことも覚えている。家に2つもお風呂があって、庭にプールもあった。近所の公園なのに、簡易的な観覧車やメリーゴーランドがあったし、映画で見た通り、リンゴをハンカチで拭いてまるかじりしたりもした。ある日、私が住んでいる日本の地元にはなかった大型ショッピングモールに連れて行ってくれた。そこには、夏なのにスケートリンクがあったし、フードコートに焼き鳥丼や牛丼などの日本食があってとても驚いた。ても私は迷わずにハンバーガーを食べた。気が付けば、吸収と適応が早い中学生の私は、1か月後に帰る頃には、もう自然と英語で反応できるぐらいまで成長していたと思う。

帰る頃、周囲に同調しなければならなかった中学校生活にはもう戻りたくない、と私は思った。

本当は小学生の頃から勉強していたから、英語の発音にも自信があったのに、学校でそういう発音をすると笑われたから、どこでもそれを発揮できなかった。だから私はずっと日本語を話さなくていいこの国にいたいな、と思った。

でもやっぱり、日本に帰る日が来た。

私は飛行機に乗る直前、ホストファミリーに伝える感謝の言葉を紙に書いていた。もちろん英語で。もうだいぶ英語の環境にも慣れていたし、日本にいる時よりずっと堂々としていた自分がいた。寂しかったけれど、気丈でいたいと思った。

空港ではすでに、一緒に来た他の学生たちが待機していた。それぞれのファミリーと別れを惜しんでいる。私は、ついにその時が来たと思ったが、別れのその時、ほかの学生たちと同様に、涙をこらえきれずにいた。
そしてその瞬間、他の学生たちがこちらをみていた。その時のわたしは学校で時折感じていた羞恥心が突如として芽生えてしまった。アメリカモードから日本モードにスイッチが切り替わってしまったのだ。
私は、本当は英語できちんとした発音で別れの言葉を言うつもりだった。それなのに私は、Thank youとだけいって、ファミリーと別れてしまった。


帰りの飛行機でわたしは、タイタニックを流していた。

映画館ですでに2回もみていたから字幕がなくてもセリフを覚えているぐらいだった。タイタニックに感動してなのか、それとも別れへの寂しさなのか、やはりそこでも泣いた。

隣には、別のホストファミリーの家に滞在していた同級生の女子がいたが、彼女もタイタニックを観ながら泣いていた。彼女も同様に何か心に思うことがあったのだと思う。
そして互いに「またアメリカに来れるようになろうね」と言い合った。

それから間もなく夏休みも終わり、日本で新学期が始まった。

相変わらず友人たちは誰かの悪口を言ったり好きな男子のことを話題にしていた。私も「うん、そうだね」といった。

この退屈で窮屈な世界から一歩でも外に出たいと思い、当初の予定通り、地元から少しだけ離れた遠くの高校に行くことにした。
その後は迷わず地元を出て東京の大学に行き英文学科を卒業した。


ドラマチックな結末を期待するのならば、そして13歳の私が期待するのは、あの経験ををきっかけに生まれ変わり、今頃わたしはアメリカへ留学したのち、国際的な仕事をしているはずだ。

でも現実のわたしは、日本で、全然違う仕事をする会社員として生きている。


今振り返ってみると、あの時ファミリーに別れの言葉を言えなかったことは自意識が芽生え始めた、普通の、多感な13歳だったんだからだ、ということがわかる。今の私からすれば、とてもかわいらしくほほえましい出来事だ。

でも、当時の私はそのことを、ひどく後悔しつづけた。

そして、その後悔のおかげで、すこしばかり自分が生きていく原動力が強化されたし、その後悔のおかげで、私はまた同じ土地、ポートランドに20年後に訪れることになる。


今は頭の中でセピア色で思い出すような遠い過去だけれど、アメリカで過ごした13歳の自分のことを、なぜだかとても愛おしい存在と感じている。




※それから20年後に、ひとりで訪れたポートランドでの思い出のnote。また行ける日が来ますように。




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