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2020年10月の記事一覧
あの映画のラストシーンみたいな。
「いちおう」ということばを、最近何度も使っている。
判断を留保したいのだろう。「いや、まだ確定じゃないんですけどね」的な言い訳の余地を、残しておきたいのだろう。そうなんだけども、まあ、いちおうっていうか、たぶんっていうか、いい加減っていうか、あれこれ前置きをしたうえで、うん。先ほどカッキーに LINE しました。
おわったぜ、ベイベー!!!!!
「おわった」と思えるところまで、推敲に推敲を重
乾いた空気と、神話のなかの人たち。
空気が乾燥してきたのだろうか。
このところ、わかりやすく頭がかゆい。毎年、秋から冬にかけてのこの時期に悩まされる、けっこうな大問題である。もしかすると10代、すくなくとも20代の前半から薄毛におびえてきたぼくは、そこそこに「いい」シャンプーを使っている。髪や頭皮によくない成分を排した、むしろ頭皮の血流をうながす成分の入った、美容院推奨のシャンプーを長年使っている。シャンプーが合わないせいではなく
最近のおれを包む「万年補欠感」。
このもやもやは、なんだろう。先月の後半くらいからずっと、うすい不調が続いている。犬と一緒に数日間の休みもとった。人間ドックに行ったり、マッサージに行ったりもした。おいしいものを食べるようなことも、ときどきしている。けれどもなんだか、調子がおかしい。どしゃ降りの雨ではないものの「晴れない」感じだ。
もしも身近にこういう人がいたら、「しばらく仕事休むといいよ」みたいなことを言うと思う。「リフレッシュ
著者のあいさつより、むしろわたしは。
あと一歩なんだけどなあ。
いま、本の原稿の「おわりに」で手が止まっている。これは前々から思っていることなのだけど、そもそも本に「おわりに」は必要なのだろうか。小説は別として、実用書やビジネス書のほとんどは、目次の前に「はじめに」があり、最終章のあとに「おわりに」がある。このふたつってほんとに必要なのだろうか。
必要だよ、と多くの人は言うだろう。たしかに「はじめに」は、この本がなにを目的に書かれ
嘘をつきたくない、その理由。
ずいぶん長いことやってるなあ、と思う。
仕事のことだ。それも、なんだかんだで2年以上かかっている執筆中の本のことではなく、ライターという仕事そのものの話だ。あらゆる記念日や大事な人の誕生日を忘れてしまうぼくだけれど、ライターの仕事に就いた年はよく憶えている。1997年、第一回のフジロックが開催された年の秋に、ぼくはライターの職を得た(そして翌年、第二回のフジロックを終えた直後の夏、会社を辞めてフ
最高傑作から遠く離れて。
ポール・マッカートニーが新譜を出すらしい。
1970年の『McCartney』、1980年の『McCartney Ⅱ』に続く3部作(?)の締めくくり、2020年の12月に『McCartney Ⅲ』だ。前2作と同様、すべての楽器をポール自身が担当しているのだという。
プレスリリースとともに発表されたコメントのなかでポールは、「ロックダウンの期間中に、むかしやりかけた曲を思い出して、仕上げていった
マッサージに行ってきた。
疲れがマックスウェーバーだったので、マッサージに行った。
思えば現在のオフィスに越してきてから、仕事中のマッサージ通いはやっていない。なので当然、近所の優良店情報も知らず、グーグル検索技術を駆使しての一発勝負でどこに行くのか決めざるをえない。なんとなくの直感で、2駅先にある地味な名前のお店に行ってきた。
これはマッサージあるある話だと思うのだけど、たとえば肩が痛くて適当なマッサージ屋さんに駆け
桑田佳祐さんの、普通じゃないことば。
サザンオールスターズというバンドがいる。
「知っとるわ」とツッコミが日本全国の老若男女から飛んでくるであろう、国民的バンドだ。彼らのデビューは1978年。当時、ピンクレディーや西城秀樹を愛好する幼稚園児だったぼくにとって、「ザ・ベストテン」に突然現れたむさ苦しい6人組は、とにかく「うるさくて、こわい人たち」だった。少し年長のお兄さん・お姉さん方が語る「新宿ロフトからの衝撃的デビュー」とは、受け止
サイゼリヤが教えてくれること。
サイゼリヤが好きだ。
いたって平凡な舌を持つぼくは、吉野家も大好きだし、ココイチも好きだ。ドトールもおいしいと思うし、疲れた深夜に食べる富士そばも最高である。それでもやはり、サイゼリヤの「好き」はちょっと別格のような気がする。グルメな方々には笑われるかもしれないが、「おいしい」のほかに「たのしい」があるのだ、サイゼリヤには。
正直な話をすると、サイゼリヤで提供されるパスタやピザを「おいしい」と
週末から月曜日までのこと。
■ 週末に少し、体調を崩した。この 2020年にこう告白するのは、ある程度の勇気を要する話である。すっかり全快したからこそ書ける話、とも言える。けれども実際にはそんなことなくて、今朝も早朝から盛大におなかを壊し、いまもぼくのおなかは正露丸のコントロール下にある。いつもの秋だったら「季節の変わり目なんだろうねえ」ですむ話なのに、自分的にも対外的にもやや面倒だ。
■ ほんとうのラストスパート。原稿が
甘えてんじゃねえよ、ではなくて。
雨降りの日は、気が重い。
曇天を見上げ、そんなふうに言いたくなったとき。ぼくは「甘えてんじゃねえよ、この現代っ子め」とおのれを戒めることにしていた。だって、そうだろう。むかしの人たち、江戸時代とか鎌倉時代とかの人たちにとって雨は、よろこぶべき「天の恵み」だったはずだ。そりゃ洪水レベルの大雨には困っていただろうけど、基本的にはよろこばしいことであったはずだ。
それを、田畑(でんぱた、と読んでほし
時代に投げる万能のことば。
ドヤる、ということばをはじめて耳にしたのは7〜8年前のことだ。
神宮前の交差点で、二十歳過ぎくらいの若い女の子が、「あの人、『それは○○だよぉ』とか言って超ドヤってくるんですよ」みたいに言っているのを耳にした。それまでにも「ドヤ顔」ということばはあった。ぼくもたまに使っていた。けれども「ドヤる」ってのはあたらしい用法で、とてもおもしろい、新鮮なことばに感じられた。
ドヤる、ということばを意識す
そしてわたしはコーヒーを淹れる。
ガールか。なんて言わずに聞いてほしい。
きのう美容院に行った。電話するのが苦手なぼくは、美容院をいつもホットペッパービューティーで予約している。そして同サイト経由で予約・散髪すると、約1か月後に「そろそろ次のご予約はいかがですか?」みたいな案内メールが届く。なるほどたしかに鏡を見ると、少し伸びている気もする。案内に従って、次の予約をとる。
予約の電話が苦手なくらいなので、美容師さんと鏡越しにお
肩の痛みに思い出す。
5年ほど前、いわゆる「四十肩」を経験した。
もう右の肩だったか左の肩だったかも忘れたけれど、その痛みについては、よく憶えている。肩、というか腕全体に、なにかが触れるだけで激痛が走る。動かすことができないのはもちろん、シャツに袖を通すこともままならない。仕事にならん。いや、日常生活も危うい。けっきょく針治療とブロック注射的なもので落ち着いていったのだけれども、いまだに戦慄の記憶として、こころに刻み