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世界レコード

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生きることを仕事にするときに考えたこと、出会ったものたち
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#エッセイ

りんごとルッキズム

りんごとルッキズム

思わず考え込んでしまった。自分の中に、あまり見たことのない自分が潜んでるのを発見してしまったからだ。

なんだろう。できれば、あまり出会いたくなかった自分。だけど、そいつは明らかに僕の中にいて、一瞬だけ姿を見せてすぐに森の奥へ消えて行った。まるで間違って人里に下りてしまった小さな獣のように。

毎年お手伝いしてる収穫したりんごを選果して、箱に詰めてるときに、そいつは現れた。

今年は春先の霜(開花

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シンプルなほうが広がりがあるんじゃないか

シンプルなほうが広がりがあるんじゃないか

これしかできない、みたいな単純でシンプルなものになんだか惹かれる。

家電なんかでも、タイマーだけのシンプルなトースターとか。なぜなんだろう。

これも、いろんな考え方ができると思う。要素を削ぎ落として、本質的な機能だけを追求したとか、ミニマリスト的なスタイルに合うとか。

商品企画的にというかマーケティング的に「その方向」でつくられたものもあるし、実際、それで売れてるものもある。なんとなくだけど

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漫画を食べる

漫画を食べる

コロッケそばを食べるときは、食べるというより観ている。

食べはじめたら、最後まで向き合う覚悟がいる。どうしたって最初の世界観を保ち続けるのは難しい。

なんていうか、コロッケそばって漫画の世界みたいだなと思う。

漫画に出てきて、美味しそうな気がするけれど実際にはないはずの食べものが本当に目の前にあるような非現実感。

食べるときはいつも、そこの非現実と現実の狭間にしばらく落ち込んでしまう。

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なぜ街に告白するんだろう

なぜ街に告白するんだろう

日本人は羞恥心が強いとか、思っていても口には出さないとか、ステレオタイプな論があるけど、本当はそんなことないんじゃないか。

むしろ「言葉」に関しては意外にストレートなこともあると思う。愛の告白だってそうだ。

この前も、ある街を歩いていて目の前に《好きです、この街》とだけ描かれた看板が現れた。

いきなりの公衆の面前で愛の告白。いくらなんでも大胆すぎる。誰がそんなに想いを募らせたのだろうか。

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食べることはもっと自由でいいんじゃないか

食べることはもっと自由でいいんじゃないか

なんか窮屈だなと思う。食べることと健康が結びついた情報を目にするたびに少し身体がこわばる。

あれをもっと食べろ、あれは減らせ、できれば食べないほうがいい、この食べ方はダメ、これとこれを組み合わせ意識しろ。

そりゃね、健康は大事だよ。それに治療的な文脈で制限かけなきゃいけないときは別。

だけど、なんだろう。食べることのデフォルトの部分からなんか「こうでなければならない」がちょっとすぎるんじゃな

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栗と虫の生活

栗と虫の生活

困った羊羹がある。「栗むし羊羹」という栗が入った羊羹だ。

何が困ったのか。その名前を見聞きすると「栗むし羊羹」そのものではなく、別のものを想像してしまう。それが少し困る。

東京にいた頃は、そんなことはなかった。

「栗むし羊羹」は「栗むし羊羹」でしかなく、そこには何も入る隙はなかったのに。

信州に移り住んでからはそういうわけにはいかない。栗が身近になったからだ。

山栗と呼ばれる野生の栗の木

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「どうしよう」を言わない人

「どうしよう」を言わない人

世の中には二種類の人間がいる(便利だけど使いすぎ注意な言い方)。

何かあったときに「どうしよう」と言ってしまう人と、「どうしよう」を言わない人だ。

どっちにしようかなぐらいの感じではなく、どうしていいかわからなくて口を衝く「どうしよう」はちょっと怖い。

できれば、想定外も含めてどんなときも「どうしよう」は言いたくないなと思う。言ってしまったら自分を失ってしまいそうな気がするからだ。

その代

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