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りんごとルッキズム

思わず考え込んでしまった。自分の中に、あまり見たことのない自分が潜んでるのを発見してしまったからだ。

なんだろう。できれば、あまり出会いたくなかった自分。だけど、そいつは明らかに僕の中にいて、一瞬だけ姿を見せてすぐに森の奥へ消えて行った。まるで間違って人里に下りてしまった小さな獣のように。

毎年お手伝いしてる収穫したりんごを選果して、箱に詰めてるときに、そいつは現れた。

今年は春先の霜(開花時期に霜にあたると、受粉がうまくできなくなる)や、夏の雹害もあって、りんごにはなかなか厳しい年だった。

霜害はりんごが成る数をがくんと減らしてしまうし、雹害はリンゴの表面に無数の傷がつく。

そのおかげで、信州でも東信北信地域のりんごは例年になく「贈答用」りんごが不足。直売所やスーパーなどでも「今年の贈答用りんご販売中止」のお知らせが目についた。

贈答用だから、表面に傷がついたりんごは贈れないのだ。

まあ、それはりんごに限らず何でもそうだと思う。わざわざ誰かに、それもお世話になった人とか、想いを届けたい人に「見映えの良くない」「ランク的に下がるもの」を送る人ってあまりいない。

そんなのはわかってた。

でも、自然現象なのだ。今年のりんごはそういうりんご。特段大きな傷で、そこから痛んだりしてなければ、りんごそのものの味が決して劣るわけではない。それに貯蔵してない収穫仕立ての爽やかで果汁感あふれる甘さは特別。

たしかに、りんごの皮はいつもの年のようにつるっとはしてなくて、ちょっと凹んだりしてる部分がある。それだけのこと。そう思って僕も収穫や選果作業をしてた。

なのに――。

じゃあ自分は「見た目がちょっと」なりんごを何も考えずに誰かに贈れるかというと、手が止まってしまうのだ。

この躊躇してしまう気持ちは何なのだろう。

見た目がすべてじゃない。まして本来、自然に左右される農作物・果物がいつもいつも人間の基準や価値観に合せて実るなんてない話だ。

自分で収穫して自分で食べるだけなら「自家用」のりんごなら、表面の傷だろうと少々の痛みだろうとべつに気にしない。傷がついて少しりんごが「ぼける」のが早くなっても、それはそれで料理に使ったりいろいろ美味しい食べ方もわかってるから。

そこが根底にありつつも、でも自分が誰かに贈るとなるとそうは思えない自分もいたのだ。普段、そういうの現れないのに……。

「なぜ傷ありのりんごなのか」を前提から説明しなくちゃいけないし、それが本当に実感を伴って相手に通じるかもわからない。傷ありのりんごをもらっても困るって人もいるだろうし、中には気を悪くする人だっているかもしれない。

本意が通じなかったからといって相手が悪いわけでもない。僕だって信州に移り住んで、野菜や果樹を育てて自然と向き合い、ときには翻弄されるようになってようやく少し見えてきたことだから。

見た目が大事。外見が「優れてる」ほうが優遇される。

自分ではそんなことはない、外面だけの良さみたいな薄っぺらいルッキズムとは距離を置いてる。そう思ってるのに、雹害りんごを前にしたときの割り切れなさ。

これは、どうしたものなのか。

堂々と傷ありりんごを贈ればいい。ちゃんと、今年のりんごの話も添えて。逡巡して、本当に信頼を寄せてる人には「今年のいろいろを乗り越えた」りんごを贈った。

大きな話かもしれないけど「生きる」って果物も人間も順風満帆ばかりじゃない。都合よく「うまくいった」「見た目のいい」部分だけ繋ぎ合わせても、その人や果物が出来あがることはない。

もし、そんなのがあったとしたら、それこそハリボテ(通じるのかこの言葉?)だ。

それでも綺麗ごとの好きなメディアは、相変わらず罪の意識なくルッキズムを垂れ流し続けている。

僕の中のルッキズムは、りんごをじっと見つめたままだ。