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すべてのものはつながっている話


「本を読まないから文章が書けへんねんで」

自分は本を読む行為が好きではなく、一つのこと集中して取り組むことが困難な子どもであった。今もそう。

そのため、母から「本を読まへんからやで!」という言われる度に、開きなおり「またか……」と思いながら、その場を乗り切ろうとしていた。

「あ〜なんか言ってるな〜」と

小さい頃、母は毎晩のように本を読んでおり、決まってリビングのテーブルの上にはハードカバーの本が置いてあった。様々な本を読んでいたため、数は相当なものだったに違いない。だから、何も言うことができなかった。

本を読む習慣がなかったため、どんどん本を読む行為が嫌いになっていく。文章を書くことも自然と嫌いになっていった。

部活を引退することになり、勉強一色になっていく高校3年生のときだった。きっかけは覚えていない。図書館でタイトルがキャッチーなものを発見して、手にとってみることに『六番目の小夜子』恩田陸の作品であった。

ふと自分と重なるものを感じたのだった。主人公が高校3年生であり、1年を通じて行われる学校行事にミステリー要素が入る作品であった。残り少ない高校時代を感じながら、本とともに残りの時間が愛おしくなる。

引き込まれていたのだった。

物語が進むにつれて、その先を知りたくなりページをめくりたくなる。「面白い、どうなるんや……」ワクワクした気持ちがどんどん湧いてくる。気が付くと文庫本の半分以上読んでいたのであった。登場人物、一人ひとりの性格や言葉の数々も、魅力的な要素であった。恩田陸にハマった瞬間だった。

そこから、その作者の作品をどんどん読んでみることにした。ドラマにもなった「ネバーランド」映画にもなった「夜のピクニック」多感な時期にも関わらず、読みふけったのだった。高校生だからこその葛藤、両親との距離感をうまい具合に表現をしていた。

本を読んで心地の良い感覚を知り、本を読むことの面白さを教えてくれた作品たちだった。

「こんな文章が書けないやろうか……」

本を読む度に自分もまたその人の影響を大きく受けるのであった。インプットはできてもアウトプットまでに落とし込むための行動には移さなかったのである。

高校を卒業して社会人となっていた。

会議の議事録を書くことになった。はじめての書記であり、きちんと書けるのか不安であった。それもそのはず、テキストは読むことが好きでも、文章を書くことは苦手であったのだから、ちゃんと書けるわけがない。

記録がきちんと出来ていなかったため、「書いてる内容が全然違いますよ……」と、

後輩に確認してもらい、再度書き直すのである。

しかし、メモも殴り書きでありしっかり読めない。本当にこれが正しい事実なのかわからないようなものが出てくる。明らかに他人よりも、議事録が出来上がるのが遅かったのだ。最終的には7回確認してもらい議事録が完成するのであった。

この出来事が、文章が嫌いをより加速させて、二度と書記をしたくない思いが生まれたのである。

本を読んで作者の言葉に触れるのではなく、現場の言葉を拾う行為は荷が重く、第三者目線で書かないといけないことが、苦痛でしかなかった。

あれから、10年の月日が経った。

今、自分は「書けない」恐怖もあるが、「伝わる」恐怖もある。むしろ、後者の方がある。

そんなとき、久しぶりに恩田陸「ネバーランド」を読んでみた。
その中で、不思議とリンクする言葉があった。

自分に『属する』ものが欲しいんだ。
はっきり自分のものだと言えるもの。
自分の延長線上にあるもの。
だから、自分にきちんと属さないものには攻撃を加える。
いろんな理由をつけて。いろんな大義名分で

全てはつながっている。
ただ決して悪いことばかりではなかった。
忙しくても、本を読むことが嫌いではなくなっているのだから……

気になる方はどうぞ。リンクを貼っておきます。


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