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外食から考える、選択肢が創り出す需要と責任

食に対して人々が求めることをきちんと考えた時に、飲食店の社会に対しての本来の責任というものが見えてくる。
食の安全性や食事が創る身体によってもたらされる健康、それらを無視した大衆が求めているのか、それらを無視した経営が人々の要求を作っていったのか。

最近の健康食ブームによって一部、例えばオーガニックや野菜中心の食事というものをコンセプトとした飲食店というものも現れ始めたが、まだまだ選択肢は少ない。
そしてそれら健康食をかかげる飲食店さえも、希少価値や競争の少なさからの出店、要するにお金が儲かるからという短絡的な理由でのものが多いのではなかろうか。
見かけだけではなく、本当の健康食とはなんなのであろう。

経営力、ビジネスモデルとしてのあり方が優先された結果なのか、人々が短絡的な生き方を選ぶことが生み出した社会なのか、どちらにせよ「金だけ、今だけ、自分だけ」によって作られた現代社会において、豊かで選択肢が増えた様に見えるものの、目先だけでなく長い価値を考えた結果の選択肢というものはなかなか見つけることが困難である。

何が正しいかは別としても、日本には菜食主義者向けのレストランなどは圧倒的に少ない。
経営側の「肉を食べることが健康につながる」というプロパガンダを鵜呑みにした大衆の求めるものが作り出した狭められた選択肢によって、人々の選択が決定されてしまうという循環の中で、多様性が失われ、右へ倣えの人格形成までつながっているのであろう。

もっとも、ただやみくもに選択肢を増やすことだけが豊かさにつながるわけではない。
「無塩食パン」などというものがパン屋に置かれることは、正しい選択なのだろうか。

いま世の中にある選択肢は、純粋な善意と試行錯誤によって作り上げられたものではないということに対してきちんと考えてゆくことが、社会における本当の意味での責任について考えてゆくことになるのだ。

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