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「眠り」とは死の疑似体験ではないだろうか─『夢の場所 夢の記憶』,『おとぎの国の科学』

一時期,夢を見るために寝てると言っても過言ではないほど,寝まくっていた時期がある.

今でも夢を見るのは好きだし,寝るのも好きだ.
案の定,夢であるから起きてしばらく経ったらすっかり内容は忘れてしまう.夢日記でもつければいいのだと思うが,夢日記をつけると精神が狂うという眉唾ものの話をどこかで聞いてなんとなく夢日記をつくる気は起きない.

そういえば、建築計画学の祖である吉武泰水が書いた『夢の場所 夢の記憶』という本は,自身が二十数年間つけ続けた夢日記の内容から建築の空間などについて独特の知見を編み出し,改めて空間というものに問いをかけると内容だった.

「人間は未知の空間に遭遇したとき、既知の空間と照らし合わせることによって、それを自らのものにしていく」
『夢の場所 夢の記憶』

「人間は迷うことによって未知の空間を我がものにしていく」
『夢の場所 夢の記憶』

などハッとさせられる内容に富んでいる.

しかし,計画学という理性的な科学的な手法を体系づけた人物が,なぜ,「夢」などという非理性的なイメージがつきまとうものを研究したのだろうか.

終末医療の概念を世界に広めた医師エリザベス・キューブラー・ロスは,後年,臨死体験や神秘現象の研究に力を注いでいたという.
多くの医師に,キューブラー・ロスがこういう研究に力を注いでいたことを告げると,ほとんどの人はその事実を知らないと答えるらしい.どうやら,そのことは学問や教育の場においてタブー視されているらしい.

よくよく考えれば,科学を突き詰めていくと,こういったオカルト的というか,人間の神秘といったものにぶつかるのは必然であるように思える(科学とは究極的には「世界とは何か?」「人間とは何か?」を解明していく学問であるはずなのだから).そのとき,私たちはそのことに関して,どういう風に考えることができるのか.

「病んだときに私たちを癒すのは科学であり心である.感動を与え,豊かさをもたらしてくれるのはこの二つだ.しかし,絶望や死へ直結するのもこの二つなのである.いま,科学と心を何よりも強く結びつけているものは「死」であろう.科学の方法だけでは語り尽くせない,かといって人間感情をむき出しにして語ると冷静さを失ってしまう.難しいと言わざるをえない.だからこそ「死」は医学や看護学の中心となり,また私は小説の中でこれを救うのだ.
いつの時代でも、どんな場面でも、「死」とは常に語ることの中心である.」
『おとぎの国の科学』

そういえば,眠るという行為も「死」になぞらえることができるとどこかで読んだことがある.また,吉武泰水は

「眠る場所をもつ場所とは,より親密度が高い.」
『夢の場所 夢の記憶』

と述べている.

なぜ,私たちが家を次第に親しみを持って感じていくようになるか.
それは私たちがその中で横たわって「眠る」からである.

私たちは,家の中で日々「死」の疑似体験をしている.ならば,「死」について考えることは非日常的なことではなくて,極々,日常的なことなのではないのだろうか.そして,住まいを考えることは,「死」について考えることでもないのだろうかと思った.

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