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他者と関わる|自己と他者|人類学者・磯野真穂さんの講義受講ノート1

磯野真穂さん主宰の「他者と関わる」という講座に参加した。
備忘録もかねて、思ったことと感じたことを書き連ねておく。


自己と他者

他者とは、自己があるから成立する、自己以外の存在であるらしい。
場合によっては、人間だけではないもの(動物や人格化されたもの)にまで及ぶような抽象的な概念だと理解した。

こんな風に、他者と他人の違いとか、普段何気なく語っている言葉の意味を深く考える行為が至極興味深い。
ちなみに、カミさんに「この前、とある講座で習ったんだけど。他人と他者の違いってわかる?」って聞いてみたら、「知らない。」とあっさり返されて、その違いを知りたくならないのかと困惑した。
(自分にとっての普通は他者にとっての普通じゃない。)

他者と他人とはどう違うのか

『他人とは、ある実存を中心とし、そこから放射状に広がる関係性を捉えた際に現れる1つの具体的な関係性のことを指す』

ちょっと難しい。(磯野さんを批判しているわけではない。)
抽象的な概念としての他者と違って、他人は、家族や友人など具体的な人々との関係性において、それ以外の人という具体的な人々のことをさしている。
他人を定義するには、自分と他人以外の関係性の誰かの存在が必要となる。
そのため、他人を定義するには、自分というよりも自分と他人以外にどんな存在があるのかを定義していくほうが、他人という言葉が鮮やかになる。
例えば、家族以外を他人と呼ぶとかである。他にも、友人と他人。同僚と他人。関係者と他人、自分も含めたある特定のグループが定義されると、それ以外が他人になる。だから、他人と他人じゃない人を区別するのは、そのときどきの関係性を定義すれば良いのだから、わりと簡単だ。

「自己」対「他者」の図式を可能にする前提条件は何だろうか

自己というものが規定されるからこそ、他者が存在する
でも、自己が自己であるということ、自己同一性を担保しているのはなんなんだろう。
自己を語る上で、身体性は欠かせない。
でも、僕はなんとなく、身体という入れ物の中にある自己の意識というものが、本質的なところではないかと思っていた。
フィクションだが、「君の名は」のように身体が入れ替わったとしても、違う体の中に自己が存在するということは、想像できてしまう。
実際に、身体の中に「自己」が留まらないような文化も存在するらしい。

ところが、この自己の意識というものが、一貫して続いていると思えるのはなぜか?と、改めて問われるとうまく説明できない。
意識は毎日毎日睡眠という時間帯で途切れている。
あまりに当然のことすぎて、今日の自分と昨日までの自分が違うかもしれないことなんて考えてもみなかった。
ここで、衝撃だったのは、自己を定義するからこそ現れる他者という存在、その他者との関係性においてこそ、自己が作られているということだった。
そういえば、この講座のテーマは「他者と関わる」ではないか。
最近、他者との関わりの中にこそ、自己を知る鍵があると思っていた。だからこの講座を受講しようとしたのかもしれない。

「である」と「がある」

初回のテーマの締め括りは「である」と「がある」(宮野真生子「出逢いのあわい」より)についてだった。
「〜である」という自己を形作る関係性を表すことばたちが、「〜がある」という産み落とされたものがコントロールすることのできない自己そのものを裸出させないように機能している。
高血圧である、60代女性である、患者である、その人を目の前にしたときに、「〜がある」という存在として、その人自身と関わることができているのだろうか。
この問いを自分に投げかけた時に、僕が総合診療医として大切にしていたことが隠れていると感じた。
僕は、患者である◯◯さんを目の前にしたときに、極力「〜がある」で表されるその人自身に注目しようとしてきたのだと思う。
僕の眼差しから、僕の言葉から、僕のたたずまいから、それを感じてもらえた時、なぜか元気になったり、ホッとした感じがしたりするという体験をしてもらえているのではないかと思う。
病気であるあなたではなく、「〜がある」というあなたという存在そのものを、大切にしたいと僕は願っているのだ。
それでも、医師という役割を担っている僕は、患者という役割で目の前にいる人の「〜である」を扱わないわけにはいかない。

だから精一杯、その人自身の「〜がある」という物語を紡ぐことを大切にしたいと思う。


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