私の記憶が確かなら〜宝塚歌劇と私〜

今回は、私が宝塚歌劇に魅了されるようになった理由について書いてみたい。宝塚を観はじめて約10年になる。ただ、本格的にハマりだしたのは、後でも書くように当時星組2番手だった紅さん(紅ゆずる)に出会ってからなので、“宝塚ファン”としての経験はまだまだ浅い。以下に記すことは、あまりに個人的な、ほとんどの人にとってどうでもよい話である。けれど、どんな作品であれ観たものへの評価は観た人のそれまでの経験(経歴)と切り離せない。作品への評価を公表する以上、どんな人間によって評価がなされているかを示しておくことも大事なのではないだろうか(注)。

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最初に宝塚を観たのは、2013年、花組公演『オーシャンズ11』(宝塚大劇場)だったと記憶する。その前年、私は大学院を退学し、同じ年の9月に結婚している。もともと宝塚に親しんでいた妻にチケットを用意してもらい、いっしょに観劇したのだった。

初めて観た宝塚の舞台は面白かった。以前からお芝居は好きだったので、舞台を素直に楽しんだ。このときは、男役トップの蘭寿とむくらいしかきちんと認識できなかったが、芝居の質が高いことはわかったし、くるくる入れ替わるアトラクション的な舞台装置にも感心させられた。一本モノだったのでショーはなく、短いフィナーレがついていた。妻はちゃんとしたショーを見せたかったらしいが、それでも初観劇を十分に楽しんだ。

初観劇以前から、宝塚には一定の興味はあった。所属していた大学(および大学院)が西宮にあり宝塚から地理的に近かっこと、先輩や同期に宝塚ファンがいて、しばしば話を聞かされていたこともある。積極的に勧誘されたわけではない。ただ、「とにかくすごいからいっぺん見てみい」といった感じで興味を掻き立てられた。しかし結局、学生時代は自ら大劇場に出向くことはなかった(今考えれば非常にもったいないことだ)。

正直にいうと、宝塚の舞台を実際に観るまで、“女性が男性を演じる”ことに対して一種の偏見があった。女性が演じる男役に、多くの女性が夢中になっている。すると宝塚を愛する女性にとっては、生身の男性よりも「男役」の方が理想の”男性”なのだろう。その性を超越した“理想の男性”に、私を含む生身の男はどうしたってかなわない。そこに、自らのアイデンティティの一部になっている「男性性」に対する脅威のようなものを感じたのである。今考えると、当時の私はまだ若く、未熟で、”男であること”への変なこだわりがあったのだと思う。

ちなみにこれは、ジャニーズをはじめとする男性アイドルファンをパートナーに持つ男性の気持ちとはおそらく違う。男性アイドルは文字どおり男性であるため、たとえ手の届かない有名人であっても、想像するに、普通の意味で嫉妬の気持ちが生まれることがあると思う(もちろん、そうでない場合もあるだろう)。しかし宝塚の場合、もとより女性が演じているので、リアルの男性と同じでないことはわかり切っている。私が脅威を感じたのは、たとえ観念のレベルであっても、恋や愛のような情念の世界が、女性の間だけで完結できてしまうことに対してであった。

宝塚を実際に観劇し、その世界に引き込まれるにつれ、それまで抱いていた宝塚や宝塚ファンに対する以上のような偏見は氷解していった。宝塚の男役はあくまで“宝塚の男役”であり、それは“理想の男性”を体現している部分があるとはいえ、リアルの男性に求められるのとは別の次元の理想を目指すものだと理解したのである。

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初観劇以来、しばらく私は漫然と宝塚を観ていた。妻が雪組ファンであったので、雪組を観ることが多かった。当時のトップ・壮一帆は、端正で洗練された男役像をつくりあげていた。ややハスキーな歌声にも魅了された。つづく早霧せいなのトップ時代も、チケット難にも関わらず観劇機会に恵まれた。咲妃みゆとの息のあった芝居に、毎回楽しませてもらった。

たまに星組を観劇する機会もあった。記憶に残るのが轟悠主演の『The Lost Glory』(作・演出、植田景子)である。当時の星組トップ・柚希礼音とがっぷり組んで対峙する様が今でも脳裏に浮かぶ。しかし、この時はまだ、夢中になって観劇するほどではなかった。

紅さんのことを初めて意識したのは、北翔海莉のトップ時代である。『ガイズ&ドールズ』のネイサン・デトロイトが、とりわけ印象深かった。アデレイド(礼真琴)との絡みが抜群に面白く、ここまで振り切れた芝居ができるジェンヌさんがいることに驚いた。熱量の高い芝居に加え、ショーでののびのびしたパフォーマンスも魅力だった。紅さんは歌うとき、目を細めて口を縦に(少し斜めに)大きく開けて歌う癖がある。そんな姿にも、よくわからない親しみを感じた。

しかし、すぐに入れ込んだわけではない。あるとき、誌名は忘れてしまったけれど、あるファッション誌に紅さんが載った(『ヴァンサンカン』だったか?)。各組の2番〜3番手くらいまでのジェンヌさんが特集されていたと思う。別のジェンヌさん目当てに妻が購入したものを見せてもらったのだった。紅さんは星組2番手として大きく取り上げられていた。いつもの舞台化粧とは違うナチュラルな面立ち。衣装も黒を基調にしたスタイリッシュなものだった。舞台で見るのとは異なる姿にドキッとした。思えばこれが、紅さんにハマり込んでいくきっかけだったかもしれない。本人がつねづね言っているように、やはり“ギャップ”が大事なのだ。

まもなく、紅さんは星組のトップになった。大劇場お披露目公演の『スカーレット・ピンパーネル』は、妻のツテを頼って2回観劇することができた。冒頭の登場シーンでスポットライトが当たっただけで感激してしまった。マルグリットとの結婚式の場面では自然と涙が出た。

それから紅さんの舞台はできるだけ観劇するようにした。思い出に残る作品はいろいろあるけれど、とりわけ『アナザー・ワールド』と『霧深きエルベのほとり』は出色だった。『エルベ』のときは、もっと見たくなってはじめて立ち見を経験した。1月、真冬の宝塚。万全の防寒をして朝から大劇場正門前に並んだ(折りたたみ椅子を持参しているおじさんがいたのにはちょっと驚いた)。この時期にしてはまだ暖かい方だったけれど、いっしょに並んでいる人たちに対して無言の連帯を感じた。

コロナ禍以前、立ち見の場合、開場前に劇場内に入り、自分で好きな場所を確保することができた。まだほとんど客のいない大劇場に並んで入るのは、なかなか新鮮な経験だった。このときは中央付近の場所を確保できたこともあり、意外と観やすかった。立ちっぱなしなので腰にくることを除けば、A席の後ろの方と比べても遜色ないと思った。

『エルベ』の大劇場公演後、紅さんとあーちゃん(綺咲愛里)の退団発表があった。それまでにも何人かのトップさんが退団していくのを見ており、ある程度予想もできていたため、それほど驚かなかった。しかし、いざ退団公演が始まると、寂しい気持ちがわき起こってきた。退団公演は大劇場に4回くらい足を運んだと思う(加えて大劇場と東京宝塚劇場の千秋楽ライビュも観た)。当時の私としては同じ公演にこんなに足を運んだのは初めてだった。お芝居もショーも、何度見ても楽しい作品でよかったと思う。

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紅さんが宝塚を旅立って以来、同じ熱量で応援できるスターさんに、今のところ出会っていない。ドラマシティ等の小劇場公演で、毎回優れた芝居を見せてくれた轟さんも退団してしまった。しかし、けっして宝塚への関心が弱くなったわけではない。いろんな組のいろんな生徒さんのパフォーマンスをフラットな目線で楽しめるようになった。

一度誰かを好きになって夢中になるという経験はとても大事だと思う。好きにならないと見えて来ない世界が確かにあるのだ。私の場合、紅さんと出会ったことで舞台の見方そのものが変わった。それまで漫然と観ていた舞台が、生徒さんの一つひとつのしぐさや表情、下級生を含め、組全体の雰囲気にも注意が向くようになった。これは大きな財産となっている。

また、宝塚を好きになったことで、私自身にも変化があった。先にも書いたように、男役への偏見がなくなり、新たな世界がひらけた。私のようなヘテロセクシャルな男性でも、男役スターに心からときめくことを身を以て知ることができた。この点に関しては、最近お笑い芸人の山ちゃん(山里亮太)がいろんな媒体で話していて、とても共感できる(とくに参考にしたのは『VoCE』での愛月ひかるとの対談記事である)。

ただ、「宝塚男子」という言葉には違和感がある。”男なのに宝塚がわかるオレ”というような変な自意識を感じるのだ。これは子育てに参加する男性を”イクメン”と呼ぶことの違和感に通じる。育児に参加する男性を持ち上げる”イクメン”という言葉には、男性が育児に参加することが特別である(だから”イケてる”)という前提がある。しかし、この前提(=育児は基本的に女性が担うものである)こそが問題なのである。

宝塚を観劇することに「男子」も「女子」もないと考える。現状として宝塚は女性ファンの方が多いことは事実ではある。が、男性であれ女性であれ(また、各々のセクシュアリティがどうであれ)、男役にときめくことはあるし、娘役にときめくこともある。それが宝塚のよいところであり、ジェンダーやセクシュアリティに関係なく、誰もが楽しめるエンターテイメントであるはずだし、そうあって欲しいと願っている(もちろん作品によっては問題を含むものもある。それについては批判することも必要である)。

この約10年の間に、宝塚歌劇とそれを取り巻く世界は大きく変化した(宝塚の世界はいつでもそうであったと思うが)。私の身辺にも、いろいろな変化があった。こうして振り返ってみると、すべては出会いとそのタイミングなのだとわかる。宝塚の近辺の大学に進学したこと、妻と出会い結婚したこと、紅さんと出会ったこと…。いくつもの偶然が重なり合ったことで、私は宝塚にハマった。どれか一つでも条件が異れば、違った結果になっていただろう。人生は何とも不可思議だ。

まとまりのない話になってしまった。余計なことも書いたかもしれない。しかし、私がどうして宝塚に親しむようになったかについては、ある程度のことは記せたと思う。

(注)私の専門は社会学であるが、社会学を含むアカデミズムの世界では、個人の「主観的な」解釈から離れた「客観的な」分析や批評がよしとされる傾向がある。もちろん、他人の解釈をまったく無視した独断的な批評は望ましくない。しかし、とくに観劇などの芸術経験においては、個人の思い入れを排した分析や批評はあり得なくはないとしても非常に味気ないものになると思う。たとえるなら、コーヒーの成分の「客観的な」分析はありえても、個人的な好みを完全に排した、コーヒーの”美味しさ”への評価はできないということだ(以上の議論に興味のある方は、専門的になってしまうが、私の論文を参照してもらえるとうれしい)。





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