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【第4回】だいたい250日後ぐらいに腎臓結石で緊急外来に運びこまれる留学生(Poripori2)

 三日目
 パリに1週間滞在した後に、私は既に登録を終え、受講料も払っている語学学校があるヴィシーという街に向かった。近代史に詳しい人ならご存じかもしれないが、二次大戦中、この国が隣国ドイツにパリを占領されて降伏した後、ナチス・ドイツの傀儡であったフィリップ・ペタン将軍による暫定政権が置かれた場所(彼らにとっては屈辱的な歴史が刻まれている場所)としても有名である。私は、この地でおよそ三か月に渡りフランス語を学び、その間は現地のホスト・ファミリーの家に居候する予定であった。
 パリを離れる電車に乗り、日本から同行してこの7日間付き添ってくれた(それだけでなく、私と違い言葉が分からないにも関わらず、熱でひっくり返った私の為に身振り手振りで解熱剤まで買ってきてくれた)友人と別れる際、私はつい弱音を吐いてしまった。7日でギブアップ寸前なのにまだ3か月もフランスにいなきゃいけないなんて耐えられないよ、と言ったと思う。実際この時点まではネガティブな気分に完全に支配されてしまったので、自分で決めた留学なのにも関わらず、早く日本に帰ることが出来るならば良いのにと本気で憂いていた。この後、8年以上も同じ国に住み続けることになるとあの時の自分に伝えても容易に信じることは出来なかったと思う。そして水と乾燥が原因の肌荒れも少しずつ悪化していた。
 都市間鉄道という名の電車に揺られ2時間ほど経つとヴィシーの駅に着いた。田園風景の中にポツンとある田舎の小さい駅であった。そこで予め到着時間を伝えていたホスト・ファミリー一同と合流し、スーツケースをガラガラと引きずりながら徒歩で彼らの家まで向かい、用意された夕食を食べ、与えられた個室のベッドで横になると直ぐに寝た。おそらく疲れていたからだろうが、ヴィシーに到着した日の記憶はもはやほとんど復元不可能なほどに薄れてしまっている。
 後にまた語る予定だが、私が居候していた家の面々は皆少し独特であった。幼い姉妹は四六時中母親にフランス語に存在するありとあらゆる種類の罵倒の言葉でドヤされながらも、それを気にせず目に入った人全員にいたずらをしては去っていく。両親もかなり粗野と言った感じの気立てであり、私には到底理解できないような内容の冗談を常に言い、私がそれに反応出来ないでいるのを見て、わざとあからさまにシラける素振りをしてからかってくるようなタイプの性格の持ち主であった。子供も含めて全員、オーベルニュ地方出身者に典型的な体形(つまり肥満型)をしており、留学生の受け入れも趣味や気まぐれというよりは、家庭の重要な収入源として積極的に学校の方に融通してもらっているという感じであったように見受けられる。彼らはいい人たちであったが、家庭の中では大なり小なり毎日何かしらのトラブルが起きていた。この日から彼らと過ごした三か月を追憶するならば、いい思い出と苦い思い出が半分ずつといった感じだろうか。
 ホスト以外でもヴィシーで出会った人々は、国籍問わずほぼ全員が何かしらの点で独特であったと言える。語学学校の初日の入学説明会の(つまり同じ日に入学する面々が集まる)場で偶然私の隣に座っていた彼もその一人であった。彼はちらと見る限りその場にいる多くの他の生徒と同様、ドイツ系かイギリス系かというような風貌を持つ若者で、遅れてきて隣に座った私を見るや否や、フランクな感じでこう尋ねてきた。
 「Where are you from ?」
その時、私は一瞬悟られない程度に嫌そうな表情を顔に出していたと思う。英語は中学のころからとにかく苦手だったし、フランス語を勉強しに来ている場で英語のコミュニケーションを強要されることにもあまりいい気分がしなかったからである。とりあえず一言、「私は日本人です」という意味の文章を英語で作ってこれ以上ないぐらいに適当な発音で返答した。すると「あぁやっぱり!そんな気がしたんですよ。僕も日本人ですよ。」と、彼は言った。一瞬呆気に取られたが、この若者は、日本で生まれ、日本の高校を出て、たまたまフランス語を学びにここまで来たハーフの日本人だったのである。(ちなみに英語が堪能で、性格も良く、先祖には有名な作家がいるような家柄の出身で、顔もイケメンだったので、すぐ校内で評判になった。名前は、とりあえず便宜上「ケン」とでもしておこうか。)
 今思えば、ケンと出会い、社交的な彼と一緒にいることで、学内に広い交友関係を作ることが出来たのは、この旅がよい方向へ進み始める最初の契機であった。
                               続く

Poripori2
 中学受験で入ったスパルタ校の洗礼をうけ精神を病んだことから、10代のほとんどを引きこもりとして過ごす。その後、何を思ったか24歳で渡仏し、念願の大学生となるが、選んだ学科が運悪く哲学だったために、一銭も儲からない生活を送っている。31歳の今は博士課程に在籍。最近一児の父になった。名前に意味はない。

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