noteの続け方
noteに自分のことについて書こう、そう思い立ち実際に書き始めてから9ヶ月余りが経つが一向に筆が進まない。
症状記録を兼ねて、手書き日記をつけるのは17年来の習慣になっている。それなのに何故noteは書けないのだろう。
理由はいくつかある。
納得のいく文章が書けるまで公開したくない。
夜書いた文章を翌朝読むと、何故こんなことを書いたのだろうと何となく気恥ずかしい気持ちになる、そんな経験をしたことはないだろうか?
文章を書くことは好きだし得意ではあるが、書ける時と書けない時がはっきりと分かれている。
頭が鮮明でいる時、怒涛のように何かを発信したい衝動に駆られる。一種の軽躁状態である。
その一方、不調の時は何も言葉や文章は浮かばない。
あるいは、不調が極まりどうしようもなくなると、何とかして自分の窮状を訴えたいと助けを求めるように切実に発信したくなる。
私が積極的にアウトプットを行いたいと思うのは両極端な体調、精神状態なのだ。
その時その時の感情や症状の赴くままに勢いで発信してしまうと、自己同一性が保たれていない滅裂な文章がnoteという形に残ってしまう。後々見返すときっと後悔するに違いない。そう思うと軽々に投稿することができない。
それにある程度の文量、クオリティーの文章を書こうと思うと、それなりの時間がかかる。その間に刻一刻と体調心境は変わり、noteにいざ投稿しようとする頃には、書きたかったテーマへの思い入れは冷めている、そんなことが往々にしてある。中途半端に書きかけの文章ばかりがどんどん溜まっていく一方だ。
***
昨年も酷い鬱症状に苛まれ、頭がおかしくなるような狂おしい苦しみに耐えられず、死にたい、消えたい、居なくなりたいと切に思った。
人生に思い残すことなど何もない。このまま命を終えたい。
偽りのない私の願いだ。
ただ、1つだけやり残したことがあるとすれば―
今ここで死んだとしたら、私の人生がどれほど素晴らしくユニークで面白いものであるか、その軌跡がどこにも残らない。
それはとてももったいないことだ、口惜しい、そう思う。
だからこそ、私はnoteの投稿に真剣に取り組みたい。
今年の目標として、note投稿の活発化を掲げようと思う。
日記は書けるのに、noteは書けないことの要因の一つに、他人に読まれる文章を書き慣れていないという点も挙げられると思う。
「双極性障害を抱える一当事者である私という存在を通して、世の中にはこんな症状があるのだ、こんな人間がいるのだということを認識してもらうきっかけになれば、そんなスタンスでnoteを運用していきたいと思う」というnoteを始めた当初の思いに変わりはない。
そうであるなら、自己完結型の備忘録ではなく他人様に読んでいただけるような文章へとブラッシュアップしなければならない。
noteという形式に緊張するのなら、使い慣れているTwitterを活用してみてはどうだろう。noteとの親和性も高いと思う。
Twitterであればリアルタイムに気軽に呟くことができ、それを手がかりにnoteの記事を作成することも可能だろう。
とにもかくにも、大げさに聞こえるかもしれないけれど自分の人生の集大成としてnoteに取り組んでいく所存です。
もしよろしければ見守っていただけると幸いです。
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