仕事を辞めて学生になることを決めた理由
私は2010年の大学3年生の夏、自分の人生を終えるはずだった。
それから10年経った今も私は生きている。
この10年はずっと余生、ずっとそう思ってきた。
大学時代の早い段階で、双極性障害の症状を持つ自分が世の中に出て社会人としてやっていけるわけがないと悟っていた。
実際に全くもって上手く行かない。苦難苦痛の試練の連続。
何度長生きしたことを後悔したことか。
この1年を思い返すと、とにかくずっと寝込んでいた。
仕事に行って帰って疲れ果て寝込んで動けない。
薬の副作用でベッドから起き上がれない。
朝の支度ができない。メイクができない。
メイクに関しては所謂うつ症状でやる気が起きないという意味でも、趣味で大好きなメイクができないという意味でも二重に辛かった。
ここが最後の会社勤めだと思った
7月まで約2年勤めたコールセンターの仕事は決して自分に向いていないわけではなかったと思う。
・病名症状をオープンで入社した
・週4日の時間短縮勤務が可能だった
・得意な電話応対業務に就いていた
それにも関わらず勤務を続けるのが困難だった。この条件でも続けられないのなら、どこに行っても同じことの繰り返しだ。これ以上、自分に合った働き方をできる企業はきっともうないだろう。
会社勤めはこれがもう最後だ。
だからこそ、何とかここで働き続けようと自分を鼓舞して必死に努力した。
けれど、出勤して自席に着くと、呼吸が苦しくなる、気が遠くなる、汗が止まらない、常に横になりたい帰りたいという考えに捉われる、酷く心身ともに疲れ果てる。
こんなことが一体いつまで続くのだろう?
完治しない症状と付き合いながら日々を過ごすということ
退職の運びとなる少し前の管理職面談での出来事。
時間を短縮し、日数も減らし、勤怠状況が安定するように毎日懸命に自分を奮い立たせて出勤していた。
それにも関わらずその勤務状況を見て、「全然右肩上がりになっていない」と言われ、内心失笑した。右肩上がりになることなんて目指していない。
双極は調子が上がってしまっては困る。揺り戻しで必ずうつ状態に陥るからだ。
フラットにニュートラルに粛々と安定した状態を保つことを常に意識して過ごしている。
症状が改善することを前提としている企業側と、完治しない症状と付き合いながら日々を過ごすことを目標としている自分の未来図が重なるはずがない。
自分の精一杯を尽くして、世間一般の”当たり前”、”普通”に近づけるようどんなに身を粉にして努力を重ねても、できないところばかりを槍玉に上げられ減点方式でしか評価されない。そんな環境に身を置き続けることに疲れ果てた。
「会社には安全配慮義務がある」と暗に退職を促されるのにも、うんざりした。「安全配慮義務がある、貴方の体調のことを心配している」など企業側の詭弁でしかない。こちらに責任転嫁し厄介者を退職に持っていきたいだけだろう。
実際、退職の相談に出社したのに、既に勝手に私物を全てまとめられているのを見て苦笑を禁じ得なかった。
そうして、私は即日退職した。
***
もう何度こんなことを繰り返してきただろうか。
もう生きることに疲れた。
何故、余生で仕方なく生きているのに、こんなに辛い思いをしなければならないのだろうか?
どうせ生きていかなければならないなら、自分の好きなこと、楽しめることに時間を使った方が良いのではないか。
そう思い立ってからの私の行動は早かった。
予てからの趣味である美容やメイクコスメについて、専門学校に通って学ぶことを思いついた。
好きを仕事にする、とそこまで大仰に考えたわけではない。
好きなことなら続けられる、そう思った。
以前、こんな一文を記している。
「すぐに在宅で自分で仕事を始めたり、起業したりするような知識も経験もノウハウも何もない」
今手持ちのカードで勝負しようとしても、どうしたって人生を詰んでいる。
それなら、今からスキルや経験を身につければよいのではないか?
とはいうものの、未来への投資は、積極的にこの先を生きることを想定しそれを受け入れいているようで、ずっと抵抗があった。
今の自分に持ち合わせていない新たな知識や経験を積むというのは、未来の自分を見据えた行動を取るということだ。
この先もずっと生きていくことを、受け入れたわけではない。
それでも、どうせ生きていかなかればならないのであれば―
今を生きることに疲れたので、今を楽しむことにした。
2020年7月、私の職業は美容メイクの専門学校生になった。
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