【ショートショート】 区役所地下
用事があって、区役所まで出かけた。
入り口付近に立て看板がある。
「熊出没。注意してください」
と大きな文字で書かれている。
区役所に入り、手を消毒して大きな柱の下に作られている案内ボックスに向かった。三人の女性職員が来客から用件を聞き取り、すばやく案内している。
「熊に注意って書いてありましたが、どこに出るんですか」
「この建物内です」
「げっ」
私はのけぞった。
「危険じゃないですか。あなた方はなぜ逃げないのですか」
彼女たちは顔を見合わせた。
「もう慣れちゃったわね」
「臆病な熊なので、あまり危険がないというか」
臆病でも熊は熊だろう。人間なんか一撃だぞ。
「ところでご用件は」
「マイナンバーカードの電子証明の更新」
言いながら、私は腹が立ってきた。なんだ電子証明の更新って。わざわざ窓口まで来いって。デジタル庁はなにをしている。
「二階の八番窓口でございます」
彼女たちに文句を言っても始まらないので、私はエスカレーターで二階に向かった。
途中で男子トイレに寄る。
小便をしていると、個室の扉が開き、黒い大きな熊が出てきた。
私は恐怖のあまり脳髄がしびれた。小便が止まらない。逃げるべきか。いや、動くのはかえって危険か。小便、止まらないし。
熊は小便をしている私を見て、顔を引き攣らせ、個室に戻ってばたんと扉を閉めた。扉をロックする音が聞こえた。
私は手も洗わずに逃げた。
手近の三番窓口に飛びこむ。
「く、熊が出た」
「そのことでしたら、地下の第二十窓口にお願いいたします」
窓口の人は慣れた口調でいう。
私はあわてて地下に走って行った。区役所の地下に入るのははじめてだ。
薄ぐらい廊下を進むと、二十番窓口があった。老人がひとりでぽつんと座っている。私はカウンターから身を乗り出し、
「熊が出ました大きな黒い熊」
と訴えた。
「太郎とお会いになりましたか」
「名前があるんですか」
「渾名です。どこで太郎をご覧になりましたか」
老人はノートを開き、ペンで「2023年2月10日14時50分、二階の男子トイレ。個室」と書き込んだ。
「ありがとうございました」
「あの、これだけですか」
「はい。予算がつかなくて、捕獲もできないのです。みなさん、ふるさと納税をするので、区民税が枯渇しておりましてね」
まるで私の責任のように言われた。
「太郎は優しい性格でして、問題も起こさないし。近ごろではわざわざ区役所にエサをやりにくる人も増えているのです」
「野生の動物を餌付けしちゃいけない」
私は叫んだ。
「住み着いてしまいますよ」
「そのとおりですね」
老人はうなずき、ぱたんとノートを閉じた。
「お疲れさまでございました」
(了)
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