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高齢者介護をネタにしたこたつ記事

老人ホームで「殺してくれ」と叫ぶ高齢者の実情、スタッフに笑顔で接する裏側にある"本音"

 松原惇子(まつばら じゅんこ)という作家の書いた記事である。
 東洋経済ONLINEに掲載されている。
 
この人は作家で、女性が一人で生きることをテーマにした作品が多いらしい。現在70代ということで、親の介護もしているし、自身の独身で、老いーについての文章を書いているらしい。
 作家として作品を出しているし、昨日今日老人介護について書き始めたわけでもないのだろうから、自身は「こたつ記事」を描いているつもりはないのかもしれない。
 ただ、老人介護、高齢者の生活ということは、人によって全く状況も異なるし、一概に断じることができない現状がある。
 ここで取り上げた記事の内容は、ざっくりまとめれば、施設に入った老人は不幸だ、という内容だ。住み慣れた家を離れ、家族の事情に涙を呑んで施設に入った老人は、表面は明るく見えても、心の中では泣いていて、「早く殺してくれ」とつぶやいているという話だ。

 こういう内容の記事は、センセーショナルだし、人目を引く。
 住み慣れた家から離れ、施設で暮らすことが幸せだというより、不幸だといった方が、反論は出にくいだろう。誰でも自分の家で、自由に暮らして、死んでいきたいと思うだろうことは、私も察しが付くし、特に現代の高齢者が若いころは、施設に親を入れるなど親不孝だという考えが固定されていた時代だから、施設に入ることを拒否する人も少なくない。
 それをあえて入るわけだから、本当に「殺してくれ」という人もいるだろう。

 だが、現実社会で、「自殺したい」と口にし、ブログにも自殺願望を書きなぐる人が、結構たくさんいるのが事実だからといって、「日本人ははみんな死にたがっている。」という記事を書いたら、「それは違うだろう」ということになるのではないか。
 確かに施設に暮らす高齢者の中には、死にたいという人、死にたいと思う人はいるだろうし、人生の最期を施設で過ごすことを良しとしない人もいるだろう。だが、だからといって、「施設で暮らすのは、みんな不幸」というのも間違いだ。

すべては比較の問題

 高齢者介護は、すべて比較の問題だと思う。
 地域差がかなりある問題だし、被介護者それぞれの考え方、置かれた状況、などによっても差が激しい。
 人生の良し悪しは、一概に断じられないのと同じである。
 「人生万事塞翁が馬」という言葉があるが、これは人生において何が幸運で、何が不幸かはわからないという意味で、一つ一つの出来事に一喜一憂しても意味がないという話だが、同時に「すべては気の持ちよう」という言葉も付け加えるべきだろう。被介護者が、自分が幸福と思うか不幸と思うかは、その人がどう考えるかにかかっている。
 そしてどう考えるかは、その人の人生のありようや、そのスタンスの持ちようにかかっているといっていい。

 私の親族には、同時進行で、介護を必要としている人が複数人いるのだが、そのうちの一人は、兄弟で老々介護している状態だった。介護している方がケガをして入院。介護されている方は一人暮らしが無理なので長期のショートステイに入った。
 今まで兄弟で自宅で暮らしていたのに、急にこんな風にショートステイに入ることは不幸であるというのは簡単だが、実態はそうも言いきれない。

 実は介護されていた方の親族は、どのような環境でも瞬時なじむという特性の持ち主で、社交性があるというより、筋金入りのマイペースなのだろうと思うが、ショートステイの施設所長からの連絡や、ケアマネの話を聞くと、入所直後から、介護に対する拒否もなく、場になじんで、実に楽しそうに暮らしているとのこと。これは私の予想通りだった。
 生活能力としては、家事ができるぐらいで、働いたこともなく、世間知らずという意味でもあまり生活力のある人ではなかった。さらに、何を考えているかいまいちわからない人で、悪い人ではないんだろうが、会話してもずれるというイメージがあった。
 ところがこれが、施設とか病院とか、また元気なころはボランティア活動などもしていたのだが、そういうところですぐになじんで友達ができ、楽しく過ごしてしまう。ボランティアしていたころは、仲間と遊びに行ったりしていた。
 どうも家族と他人では評価が違う人なのかもしれないと思った。むしろ他人の方がその人の良さを評価しているとすら思える。

 このケースでは、何が幸せなのか、それは本人の気質と考えによる。何度か意思確認もしたが、「私はどこでも大丈夫」というだけだった。そこを疑って、「実は悲しんでいる」と思うのは勝手だが、そうでもないと思っている。

 介護していた親族の方は、社交的で友達も多い。近所づきあいも盛んなので、今回も近所の人の助力がたくさん得られて、とても助かっているが、この人の方がこだわりが激しく、施設入所などは結構壁があると思ってる。幸いこの人の方が元気なので、ギリギリまで自宅で介護し、もうダメ、と本人が自覚したら施設入所を考えてる。
 実際には施設介護した方が生活は快適になる可能性は大なのだが、それでもなかなか決心がつかない人だ。
 しかし介護している方の親族も、「今まで二人だったのに、片方を施設に入れていいのか?」と尋ねると「世話が無理になったら別にいい。施設にいてくれた方が生活楽だし」ということだった。
 実感として、高齢者は体力も知力も衰える分、あきらめがいい。あきらめることで、自分の大事なものを守ることを理解している人が意外に多い。というか、大変なことを維持する気力がないのである。
 若い人が考えるほど感傷的でもない。

 よく高齢者に「親族が死んだことを知らせたらショックを受けるから知らせない」という人がいるが、それが違うと思う。今までそういうシーンに何度か立ち会ったが、死んだことを知らせると、驚くほどさらっと了解するケースが多い。自分が高齢で、死を意識するせいなのか、あきらめと受け入れが早い。自分がその人に頼り切っていた相手が死んだとなれば、ショックも大きいだろうが、生活保障は確保されている場合は、割とすんなり受け入れてくれる。頭のどこかでショックを軽減する装置があるのかもしれないが、私自身が拍子抜けするほどだ。
 人の死を悲しんだり、苦しんだりするのも、気力体力の問題であると思う。それに不幸を知って、落ち込んで死期が早まったとしても、それを不幸ととらえるのは周りの人間の勝手である。死ぬことで、先に行ってしまった人のもとへ行けると考えれば、本人はほっとしているかもしれない。
 どちらであるかは確かめようもなく、周りが一喜一憂して、ストレスをためることは、ほとんど百害あって一利なしである。
 ひどいと思うかもしれないが、介護というのはそれだけ介護される方も介護する方も生活のほとんど持っていかれる大事業である。そして介護される方にとってはそれが生命線だが、介護する方にとっては、介護のほかにもっと時間を割くべきことがたくさんある。介護を負担と思わない人はほとんどないだろうと思うが、確かに負担なのである。
 こうしたことを考えていくとき、あえてストレスをためるような余裕はないというのが実感である。何事もよい方に考えることが、方便ではなく、現実的に必要になる。
 

ネガティブな考えは、身を亡ぼす。

 施設に入るのが不幸だと思うなら、施設に入るという選択肢を考えられなくなる。だが状況によっては施設に入ることが最も生活の質を上げることになるのも事実である。
 また、被介護者が明確にやりたいことがあるなら、それを実現するために最もいい環境が施設に入ることという可能性もある。お金が潤沢であるなら、条件の良い施設に入ることで、家族に負担をかけず、ホテル住まいのようなケアを受けられ、自分のすべてをやりたい事の投入できる可能性がある。
 もちろん施設入所で制約されることが、自分のやりたいことを制約するなら自宅での介護になる。お金があるなら、家族ではなく、ヘルパーにケアを頼むこともできなくはない。
 家族との関係もあるだろうが、やりたいことをしたいということを前提に我慢することを明確化することで、何を選択すべきかがはっきりする。
 家族関係がぎくしゃくしても、陰口をたたかれても、やりたいことを実現するならそれでいいと思えば、それがその人の人生である。(もっとも、家族が堪忍袋の緒が切れて、施設に放り込まれる可能性もあるが)
 逆に多くの高齢者は、明確な目的もなく、快適な生活を望むが、その快適性と、家族との軋轢を想定して、あえて施設という選択肢はあるだろう。そして入ってみれば、住めば都になる人もいるだろう。

 住めば都になるかどうかは、基本的には施設によるのだが、本人の気の持ちようは非常に大きい。ずっと、自宅にいられないことを嘆き続けるなら、自宅以外のどこに行っても不幸だし、逆に施設に入らざるを得なかった理由があるなら、自宅に戻っても不幸である。私は在宅看取りが幸せな選択とは思っていない。それがなしえるためには綱渡りのような現実と、幸運が必要だからだ。やり遂げたからといって、残るのは肉体的、精神的疲弊と、後悔だけである。これはどんな在宅看取りでも同じで、がっつりやればやるほど、後悔が残る。それは必ずその最後が被介護者の死で終わるからだ。

 これには、病院や施設で見送るケースとは、全く違う要因もある。それはすべての責任が介護している家族にのしかかってしまうためだ。通常なら施設や病院が(施設職員や医者や看護婦が)引き受けてくれる職業上の責任を、すべて介護する素人の家族が引き受けることになり、少しでも問題があれば、家族同士でいがみ合うというひどい現実があるからだ。専門職でもない介護で、うまくいくはずもなく、それが家族の生死にかかわってくるプレッシャーを感じながら、ともすれば家族崩壊になりそうな綱渡りをするのである。それも最初は「みんなで協力してやりましょう」で始まり、最期には「〇〇のせいでお母さんが死んだ」で終わるとしたら、まさに不幸でしかない。
 在宅看取りはこの危険な峡谷を細いロープで綱渡りするようなもので、無事にわたり終えなければ一生の後悔だし、うまく渡り終えても、疲弊しきってしまい、「何でこんなことしてるんだろう」と思わざるを得ない状況が待っている。
 軽くかかわった人なら「やった感」があって満足かもしれないが、がっつりかかわってしまった人ほど、言い知れぬ疲労感と喪失感、後悔、そして人によっては身体的故障が残され、本当に「何だったんだろう」と思うことになる。
 ここでできることがあるとすれば、いかに楽観的な思考になれるかだ。
「やることはやったから、それでいいじゃん」で「一つ事業が終わりました」感を腹に据えて前に進んでしまえるなら、それで解決するところは大きい。
 私は身体的故障のおまけつきで、倒れ伏して、おまけに当時自分の将来のために積んでいた勉強をあきらめることになった。
 しかし今となっては、あれもこれも、済んだことである。
 根っから忘れっぽいのか、体が回復するとともに、忘れてしまったようだ。
 多少は経験を積んで、それ以降の介護にはより負担の少ない方法を選ぶようにはなったが。

 

チョイスは専門家の意見を聞いて、常に最善策を考えるだけ

 結局介護は、何が正解かわからない作業でもある。
 被介護者の自身の希望を聞きたいが、聞いたところで実現しないことは多々あり、家族の犠牲なくしては果たせないことも多い。
 誰もが多少の努力と、納得性をもって、持ちつ持たれつでやっていけるならいいが、その絶妙なバランスを探していく作業は結構難しい。
 実は自分たちで決めなければならないのだが、自分たちでは決められないのも事実である。

 今までの経験で思うことは、専門家の意見をきちんと聞くことである。
 かじった程度の専門家、口先だけの専門家は百害あって一利なし。
 営利目的ではなく、親身になってくれる専門家を探すことが、最初の難関だろう。多くの資料が世の中にあふれているが、これもどこから湧いて出たかと思うほどいい加減なものが多い。もしくはおざなり、聞き飽きたことで、全く役に立たないこともあるが、それが役に立つかどうかも実際に自分でやってみて初めて分かることだ。
 介護はやってみてわかることが多い。だがどのくらいやったかで意見が全く正反対になることも少なくない。

 それでもいえることは、専門家の意見をきちんと聞くこと。そして、与えられた条件の中での最善策を選び続けること。それが世間の理想と離れていても、それは関係ない。人によって介護環境はみんな違うのだから、自分に与えられた環境の中での、最善策で十分なのである。それでも最善策が取れない時もあるし、最善策がどれだかわからない時もある。だがそれも、自分ができる最善策で構わない。
 できることは、常に真面目に取り組み、一度は真面目に考え、その結果に従うことだ。あとで思い返したとき「あの時はあの選択しかなかった」と諦められるくらいの選択をした方がいい。これは気の持ちようだから、どのレベルが正しいということはない。
 あとで後悔しない程度には悩もうということだ。
 
 完ぺきな答えはない。これは被介護者も同じだ。
 いろいろ考えて、これが正しいと決したら、それを信じるしかない。
 
 私の経験でも、選択肢は限られ、他にないということが多い。
 その時どれがよい選択だったと思えるかどうかは当事者の気の持ちようにかかっている。どれだけいい施設でも、本人がネガティブなら、生活はむなしいものになるし、本人がポジティブなら、不自由な生活でも快適に変わる。

 人生なら、「泣いても人生、笑っても人生」といって、ポジティブに考えるほうが幸せだと言われるのに、介護に関してだけネガティブな意見ばかりが幅を利かせるのはおかしい。なぜなら介護というのは人生そのものの終着点なのだから、これも人生のうちのはずだ。

 言い換えれば、介護にネガティブな意見を言う人は、その人の人生観がネガティブなのであって、ポジティブな意見を言う人なら人生観がポジティブだということになる。
 ただし、介護は思った以上に重労働なので、無理は禁物である。
 これは手抜きだろうと思われる程度でちょうどいい、ということは言えると思う。

 終わった時に、自分の中に恨み言が残らないようにするのがいいと思う。
 介護苦労を話すときに、笑い話になるように。

 
 




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