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私の原動力は暗いところにあって


#私の作品紹介


こんばんは。

ありがたいことに最近めちゃくちゃ忙しくさせていただいております。

いやほんま風の時代やでぇ…知らんけど


この頃「フジコさんはいつからハンドメイドされているんですか?」って聞かれる機会が多くあります。

たまたま色んなとこから聞かれるので、これは語るウンメイなんやなと思ってnoteを更新することにしました。


一口に「いつから」と言えない


私の「ハンドメイド」履歴を年表風に書くと下記の通りになります。


高校時代:制服や校則がなく、「自主自律」という校訓のみが存在するエキセントリックな高校に通う。そこで「ファッション部」というほぼ帰宅部に近い裁縫集団に属する。良くも悪くも協調性の低いカテゴリーだったので、技術やセンスなどの99%が独学で、作業も99%が自宅で行うという、「高校時代のクラブ活動」と言えるのかよくわからない。とにかく裁縫が好きでデザインが好きでスタイリングが好きでオーダーメイドが好きだと気付いたキッカケになったことは間違いない。ほかに、文化祭等で演劇やダンス部の衣装づくりに協力したこともある。


大学時代:教育学部の家庭科に属していたが、ゼミは育児学だったのでここでも被服を専門に勉強はしていない。主に大学外の同世代とつるみ、学生ファッションショーを軸に創作活動をしていた。被服専門学校や美容専門学校、芸術大学に通う仲間たちと作り上げる舞台は最高にエモーショナルだった。主にクラブや路上などでパフォーマンスを行っていた。2010年にはZeppOsakaで行われた「Be-izm」というコンテスト形式のファッションショーで「MAD9be」というチームにクリエイターとして所属し、準優勝。また2011年にはフジコが中心となりメンバーを集め「ネルネルテルネ」を立ち上げ。大阪・梅田の「Bodaiju Cafe」でグループ展を開催した。2012年には作品写真集「フジコの男のシャツの本」をプロデュース。モデル・スタッフのスカウト、衣装のシャツ作成、ロケハン、撮影現場監督、など全て行った。


社会人時代:副業がNGな会社に勤めてしまったので、しばらくハンドメイドからは遠ざかる。25歳を過ぎたあたりから、友人が結婚し始め、その頃から友人依頼のブライダルアイテムを刺繍で作るようになる。


そしてイマココ→2019年からSNSで過去作品を掲載、発信を始める。休職や退職を経て、晴れて2021年現在minneとsuzuriで作品販売中。


まあだから、今のスタイルはほんまここ数か月とかなんです。

好きなものを服で表現して、人の目に触れるよう発表して、ということでいうと高校時代から。

より大きな舞台に立ち、自分の都合だけじゃない需要で服を作る、ということなら大学時代から。

服から刺繍という小さなカテゴリーを詰めるようになって周りから求められ、より生活に密着なモノづくり、ということなら社会人時代から。

ということになります。


わたしの育った家

子どもの頃から絵を描くのとか好きだったんですか?
小学生の頃から家庭科得意だったんですか?

とかも最近よく聞かれます。

絵を描くのは好きでした。学校でも一番好きな教科は図工でした。

でも多分あんまり当時はそれを言ったことなかったんですよね。


私の家の話はあんまりしてこなかったけど、今日はちょこっとだけお話してみようかな。


うちの実家はとてもとても「昔風」の家でした。

まあ、あれです、親戚中どこを見てもお堅い職業についているような人が多かったし、
子どもはみんな賢かったし、
「女の子は金持ちの公務員と結婚して家庭に入り、安定した暮らしをするのが正義です」という感じのマニフェストを掲げていました。

特に母親・母の姉・母の母(祖母)からの期待や圧力は幼い頃からなかなかに重くて大変な思いを色々経験してきました。

加えて本家や父方との関係があんまりよくなかったこととか、
外部とのかかわりを以上に嫌うのと女系家族気質だったこととかから、
簡単に言うと「自由は悪」「男は悪」みたいな躾を受けてきました。

また、戦時中を生き抜いてきた祖母の偏った強さが母や伯母に影響を与えて、精神的に不安定な家庭でありました。


そんな中、絵を描くのが趣味だった祖父が私は大好きで、よく一緒に祖父の部屋で絵を描いていました。

じいちゃんは優しくて、私の発言もいつもちゃんと聞いてくれて、静かで、可愛くて大好きでした。もう亡くなってしまったんですけど、じいちゃんだけがクリエイターである私を応援してくれていました。亡くなる前に病院に駆けつけたら、「もうすぐ服の発表があるんちゃうんか、そっち行き~」と言ってくれていました。


上記の通り「女の子は公務員と結婚して幸せになる」というマニフェストから、私が優等生の道を外れてアヴァンギャルドな物作りをすることはうちの家では悪い行いでした。

家で縫物をしたり絵を描いたりしていると、心の調子がよくない時の母に捨てられることもあったので、
高校時代から大事にしたい作品は学校の自分のロッカーに入れる癖があって、その代わり教科書を毎日持って帰らないといけないからめっちゃ重かったです。(笑)

なるべく作業もコソコソ学校でやったりとか、
創作活動を一緒にやる「悪いお友達」が母に攻撃される可能性もあったので、出かける先を必死に隠したりとか、
してたな~。


私がモノづくりを始めた高校時代くらいに丁度母が病気になってしまって、その頃から特に母親からの抵抗というか攻撃が強まってしまって。
創作活動で楽しそうに過ごしている私を見て辛かったのでしょう、
「お前だけ幸せになろうとしやがって」とか、「自由になるなんてどういうつもりだ」とか言いながら泣き叫ばれたり、首を絞められたり、刃物を向けられたりしていました。
そうかと思えば(私の本名には「由」て字が入っています)、「あんたはお母さんと違って自由に生きてほしくて『由』って字を名前にいれたんよ」とか言いながらシクシク泣かれるので、10代の頃は私の心も頭も家庭自体も非常にカオスでした。


もうどうしていいのか、わからないよ!とシンジくんばりに悩み、叫んだりしていました。


じいちゃんの絵描きも良しとされていなかったので、「じいちゃんの描いた絵を破る」という作業を婆さんに手伝わされたこともあります。
無になるしかなかったので、普通に2回くらい鬱になりました。

そんなじいちゃんの絵も、亡くなってから遺族に勝手に美化され、今は実家に飾り倒してます。なんやそれ!


まあ、ちょっと書いただけでも家庭環境はこんなラインナップで、大学を出て1年目に必死のパッチで貯めた100万円で実家から剥がれ出て、
なんやかんやあって
優しくて可愛くて、ものづくりのスピリッツを分かち合える夫に出会い、今こうしてぬくぬくと生きながらえています。


ちなみに一回も出てこなかった父は、(笑)
とにかく息だけして生きているような人です。

母をはじめとする家族とのキツい関係を相談したところで、
「お父さんは仕事だけしてたらいいように家のことやってもらってるから、お母さんの好きなように子育てはさせてあげたい。だからお母さんの言うことを聞いて生きてほしい。」と言われましたので、
あの時から父に対しては何の感想もございません。別に嫌いではないです!


アイデンティティを維持する為に

そんな家で育ちながら、グレる余裕もなくとにかく心を病み、w
なんとか今生きているのは、決して大げさな表現ではなく、
私にモノづくりをする力があったからです。

優等生としての自分は勉強ができたらそれで良く、親や家族に褒められるために生きていました。

ただ、高校時代から始めた服作り・物作りは
自分の成績がよかろうが悪かろうが
自分が家族から反対されてようが応援されてようが
自分の性格が明るかろうが暗かろうが、
とにかく作品だけで評価されたのです。


もちろん作品にはその作り手の人となりが出ます。

だから自分のその時のマインドが作品にかなり影響しています。

でも、一歩家から出て自分の作品をバンと他人の前に出すと私自身や生い立ちに関係なく「作品」として扱われ評価されることは、
母たちの敷く「正しいレール」から逸脱していても良くて、
それが、
私が私である、個人として認められることそのものだったのです。


私は作品を生み落とし、人に見てもらい、人の手に渡り、人から反応があることが、私の生きている証拠を残す作業のようなつもりでいます。


作品を生み出すことが私の生きた証を印すようで、まさにアイデンティティを保つために思いっきり表現し、創作しています。



これからの私とハンドメイド


もうだからほんと、ハンドメイドは私にとってライフワークなんですよ!

もし仮に今のスタイルじゃなくなっても、販売しようがしまいが、
絶対にやめないと思います!

こんな濃厚で重厚な私のものづくりを、作品を、欲しいと思ってもらえる人がいるって幸せです。

いや別にほんとに、私のバックヤードを知っていても知らなくてもどっちでもいいです!

物を見てなんか感じてもらえたら嬉しいです。


ありがとうございました。これからもよろしくお願いします!

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