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読書を思考する-外山滋比古と三宅香帆の近代読書史を比較検討- 前半

今月 5月11日
外山滋比古
『「読み」の整理学』が再販した。
外山と言えば東大・京大で一番読まれる『思考の整理学』など有名だ。


先月 4月17日
三宅香帆
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題

どちらも読書の近代史に踏み込めながら
「読めない原因」を明治以降の変遷を辿って
突き詰めていく内容となっている。

しかし、この二冊を読んでみたところ
両者は大きく異なる点があった。


前半
2冊を中心に比較検討していきながら
「読めない」原因を探っていこうと思う。

後半
「読めない」から「読める」へ至るには
どうすればいいか探っていこうと思う。



「読み」の整理学の近代読書史

1.日本語の性質

明治時代-西欧文化・文明を取り入れる際、日本人は西欧が言文一致(口語と文語が日本では異なる)だったことに文化的衝撃を受けた。それが明治二十年代の言文一致運動に繋がる。この文と言の乖離は現在でも続いているのだが、日本人は言文一致していると疑わない。この話は外山が問う「読めない」に繋がってくる。

どういうことだろうか

そもそも言文一致が難しいのはヨーロッパがアルファベットの組み合わせで成立している言語と異なり、(中国の漢語も一致している)日本語が「かな文字」と外来語の「漢字」が混ざった混成語であることが難しさに繋がってると分析する。すなわち、「読む」の意味が従来の〈音読-文を読む〉と二つにハッキリ分かれていたが、言文一致したと思い込んだ日本人は「読む」の多重性に気づけなくなったのだ。

①言葉として読む
②文章自体を読む

①の意味で読めても②の意味で読めない場合が多く、重要なのは①と②は同じ「読む」という表現になるので殆どの人が「読めていない」ことに気づきにくい。


2.平明至上主義

上記で伝えたように文語とはそもそも日常の生活に乖離した特殊な言語になる。修養という観点で多くの学者は明治以前だと漢語から学び、明治以降は西洋語から学んでいた。言文一致以降もそれはある意味で続いており、難解信仰と結びついていた。例えば簡単で軽い文章よりも重厚な文章の方が上等なものだと学者に捉えられていた。その意義は後半に伝えるが、ここで確認しなければいけないことはアメリカの渡来によって大きく変化したという事実である。それが平明信仰だ。

平明信仰とは「わかりやすいことはよいこと」のことを指し、その信仰はまず学者ではなく、経営者や政治家などオピニオンリーダーに浸透した。

浸透したことで社会全体は
どのように変わったのだろうか

そもそも日本教育はずっと難解信仰によって支えられていた。難しい文章を読めなくては優れた思想・知識は獲得できない。だから半外国語の漢文も積極的に力を入れていたのだ。しかし、平明さの信仰が浸透するにつれて読み手が文章に合わせるのではなく、文章が読者に歩み寄るようになる。その結果、外山は多くの読者は読むという行為を怠けるようになったと論じる。怠惰な読者は「読めない=面白くない」と認識するようになり、マスコミも読者を失うと成立しないから積極的に平易な文章で伝えるように心がけた。

そこで起きたのは「難解な文章はつまらない」に留まらず、大衆(社会)に寄り添わない、反社会的なもののように扱われるようになったのだ。よって難しいことでもやさしくすることが筆者の手腕として扱われる。

本書では直接的に明言されていないが、平明信仰がテクノクラート中心に浸透して、それに伴いマスコミや大衆が強く結びついたことで教養人や知識人が社会からつまはじきにされてることも無関係ではないように思う。

話を戻そう


戦後から数十年、文体革命以降、筆者と出版社は難解な文章をわかりやすい表現で伝える技術が培われてきた。しかし、筆者の問題意識は読者側に置く。普段から噛む訓練を怠った読者は次第に歯の力が弱まり、胃腸も弱くなり、少し硬いものに出会うと「こんなの食べられない」と匙を投げる。そのような“お粥読者”になってしまったと論じるのだ。


ものを食べるには咀嚼のよろこびがなくてはいけない。歯ごたえのないようなものでは、食べた気がしないだろう。さすがにオカユには食傷した。かと言って歯ごたえのあるものを噛むのは慣れていない。どちらもいけない。そう思っていると、ものを食べる力がなくなっていったのである。食欲自体も衰える。

「読む」の整理学

外山は歴史の変遷を辿り、「読む」という知的作業は読みたくても読めない状況になったこと。だから現代において「本当に読めるとはなにか」について考えていく必要性があることを述べる。

読むとは何か?については後半で述べる。
その前に三宅果帆の歴史の捉え方を確認しよう。


なぜ働いていると本が読めなくなるのかの近代読書史

筆者の三宅は労働の繋がりを通して
読書史をまとめあげる内容になる。

1.立身出世と修養

日本は近代化に伴い、国は若者たちに立身出世を追及させる。そして、立身出世に至る手段として修養という名の自己啓発が流行する。この修養と深く結びつくのが教養であり、教養を身に付けることは職業や出世に直接的に深くつながっていた。


2.戦前-戦後とサラリーマン

戦前から戦後の高度経済成長への発展はサラリーマンという新中産階級の誕生に繋がった。修養は一部のエリートに開かれたものであったが、大衆全体に広がった。大衆全体に向けた教養の啓蒙が流行することになる。よって、読み物も一部のエリートだけではなく、多くの人たちが読めるものが注目されるようになった。娯楽として、あるいはエリート階層の仲間入りを目指すために読書は行われていた。


3.高度経済成長以降と脱立身出世

教養と出世が結びつかない時代に移り、サラリーマンにとって読む行為は完全に娯楽として結びつくようになった。本とテレビは連動することで注目される「テレビ売れ」現象が起きて、出版界はかつてない売り上げを記録するようになる。出世という点で見た場合、読書(修養や教養)は必要なくなり、それぞれの企業に合わせた働き方(個人化された知識)が求められるようになる。


4.バブル崩壊以降と合理的知識

バブル崩壊以降は日本で労働環境が大きく変わる。いわゆる情報化社会の到来であり、〈知識=情報〉として扱われるようになる。溢れかえる情報を合理的に取捨選択される能力が求められることで個人に必要な情報以外に社会人は目を向ける余裕がなくなることになった。明治以降は社会に関する知識が求められたが、現代は個人の行動を変革するための〈知識-情報〉が強く求められて、そのハウツーが自己啓発書の役割となった。また、読書は個人化された知という意味ではどうしてもノイズが含まれるため、読むという行為自体遠ざけられるようになる。



同じ歴史を扱いながらも外山とは違った分析がなされている。それは外山が「読む」行為を整理したことに対して、三宅は時代における「読書の役割」について整理して分析したことがこのような差異に繋がったと考えられる。


二人の比較について
もう少し踏み込んでみよう。


外山滋比古と三宅香帆を比較してみた

三宅は現代において80年代以前のような「労働のために読書が必要な時代」はもうやってこないと主張する。外山が「読めない読者」に危機感を抱いたことに対して、労働という観点から「読むことの必要性」がなくなったことを告げる三宅は別のまなざしを持っていたことになる。

読めない原因

二者を比較するとこのようになる

外山…大衆に広がる際にアメリカの平易主義が大衆に浸透して社会の中心になったことで重厚な文章は忌避されることになった。平明な文章に慣れ親しんだ人々は重厚な文章が読めなくなった。

三宅…明治以降、読書は出世と深く結びついていた。しかし、時代が進むにつれて仕事と読書は結びつかなくなり、読書の役割は娯楽や情報物になる。労働環境が大きく変わり、労働時間が増えて、疲労+余裕がなくなったことで人々は読めなくなった。

外山は人々の能力や機会性の問題 
三宅は人々の生活や必要性の問題

「文が読めない」外山の問題意識
「読書できない」三宅の問題意識

それぞれ「歴史の変遷を辿って読めない原因」を
追及したけど捉え方は大きく違う。
また、後半で詳しく説明するが
どちらも資本主義に対する問題意識を抱えている。


読むことへのよろこび


結論を述べると

外山は読むことそれ自体の喜びを回復させる
三宅は生活に読書があることそれ自体の喜びを提案


外山は喜びの在り方を過去から呼び覚まして
三宅は喜びの在り方の未来を提言する

このように見れば
三宅の方がなんとなく前向きな気持ち
になる人もいるだろう。

しかし、三宅の提案は読書そのものではなく生き方の提案であり、今の生き方の問題意識を捉えるために読書行為を持ち出している。つまり、読書は本質的には代替的なものとして捉えている。そういう意味では読む行為により目を向けているのは外山の方になると考える。


その上で私が考えたいことは外山が「読むこと」の二重性を文語と口語から引き出して、その二重性が現代では見えにくい状況だと分析したように三宅の「読書」も二重性を引き出していて、その二重性が現代では見えにくい状況を確認した上で「なぜ読書は生活にあればいいのだろうか?」


後半はその部分から確認していきたい。


さて、繰り返すが
本文を振り返るとどちらも同じ問題意識を提示して
その問題の発見の手段も同じである。
更に「読む喜び」を目指すことも変わらない。

それでも全然異なる捉え方が確認できた。

それでは
読めない人々に向けて二人の筆者は
どのような提案をするのか?

そして私たちは
どのように「読めない」という現実を
受け止めていけばいいのだろうか


これを読んでる皆様と
一緒に考えていけたら幸せである。


後半へつづく
※制作中




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