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イヤイヤ期の本当の原因!?

イヤイヤ期のはじまり?

「着替えよ~?」
「イヤ!」
「お風呂入ろ~?」
「イヤ!」
「歯磨きしよ~?」
「イヤ!」

1歳8か月になった娘との最近の対話。これが例の「イヤイヤ期」というやつなのか?これまで「イヤ」なんて言ってなかったのに、急に言い出した。私たち夫婦を苦しませる恐怖の言葉。いったい、彼女は、どこで「イヤ」という言葉を覚えてきたのだろうか。
「たぶん、保育園で覚えてきたんじゃない?」
「きっとそうだよね。こんなこと言ってないもんね・・・」
と、言いながら、どうにもできない現実を妻と受け入れようと試みる。

本当に、この「イヤ!」という言葉に、すべての時間を狂わされる。あれもしなきゃ。これもしなきゃ。あれもしたい。これもしたい。時間に追われて「イライラ」の時間が増えていく私たち。
「ダメ!」
「なんでそうゆうことするの?」
「〇〇して!」
無意識のうちに声を荒げ、時には強引に力でねじ伏せる。人生が終わってしまったように打ちひしがれたり、大声で泣きわめきながら抵抗する娘。それでも、「仕方ない」と自分自身を言い聞かせ、無理やり、服を着させ、お風呂に入れ、歯を磨く。なんとか、目的を終わらせ、泣き止む娘をみて、「はあ~」と、ひと呼吸いれて、次の目的に向かう。

「なぜ、わかってくれないんだ」
「イヤなのはこっちだよ」
と思ってしまう自分に気づき、またイヤになる。

これが、例の「イヤイヤ期」なのか。

イヤイヤ期って何?

「イヤイヤ期を調べることにした。そして、「イヤイヤ期とは?」「イヤイヤ期の乗り越え方は?」「イヤイヤ期いつまで?」と、多くの方がおそらく同じように検索したように学んだ。そして、「モンテッソーリ教育」と「イヤイヤ期」というところに導かれた。名前は聞いたことがあったが、ちゃんと学んだことはなかった。いろいろ調べていくうちに、モンテッソーリ教育では、「イヤイヤ期」ではなく「敏感期」と呼んでいると知った。

そして、大事なことは
①こどもの「敏感期」だと知ること
②こどもに「選択」させること
③「いつもと同じ」を心がけること
と書いてあった。モンテッソーリ教育に限らず、「イヤイヤ期」を否定的に捉えず、自我の芽生えの時期であり、わが子の「成長」であり、むしろ大事な時期を一緒に乗り越えていこう!というようなことが書かれていた。本当に大事だなと感じ、実践していこうと決心した。

と同時に、「イヤイヤ期」を調べていて、きっとこれまでもたくさんのお父さんやお母さんが、同じように悩み、同じように子どもたちと乗り越えていこうとしているんだというのを実感した。そして、こんなにもたくさんの「イヤイヤ期はこうした方がいい」というものがあることを知って、少し驚きました。なんだか、教育を教育しているような感じがして少し「もやもや」した。

ネットに聞かずに、娘に直接聞く!

「イヤイヤ期」についていろんなことを調べ、学んだ。そして、その通りに実践していこうって思った。でも、ずっと、「もやもや」がなくならない。そして、まだ2歳にならない娘とちゃんと話すことにした。私たちは、娘がお腹の中にいるときから「一緒に歩いて育みあう」って決めて、一緒に歩んできた。だから、知識も大事だけど、それ以上に、やっぱりちゃんと、一緒に考えて一緒に歩んでいきたい。
「ねえ、なんでいつも、そんなにイヤ!って言うの?」
「イヤ!」
「何がイヤなの?教えて!?」
「イヤ!」
そんな会話を繰り返していた。しばらくして、一緒に歌を歌った。娘は、「イヤ!」なんて一言も言わず、一緒にケラケラ笑っていた。
「次は、お馬さんしよ!」
「あい!」
そこには、いつもの「イヤ!」はなかった。私は、はっとした。これまで、知らずのうちに、娘に「だめ!」と言ってきたこと。
「立って食べちゃだめ!」
「もう時間だから、TVみちゃだめ!」
「それは食べちゃだめ!」
本当に、私たちが娘に言っていることは、本当にダメなのか?それは、本当に娘のためなのか?いや、この「だめ!」は、いつも大人の都合の為だったことに気づいた。汚れるから、時間がないから、まだ食べれないと思うから、全部、大人の思い込みだった。まずは、一緒にやってみる。「一緒に歩いて育みあう」はずだったのに。そして、ちょっと離れた娘に
「お父さん、もう、だめ!って言わないように気をつけるから、なぎも、イヤって言わないようにしてほしい!」
と問いかけると、娘がニコッと笑って、ダッシュして抱きついてきた。

私たちは、「イヤイヤ期」のことを学ぶことよりも、「ダメダメ期」を辞める必要があることに気づかせてもらった。一度、娘になったつもりで想像してみた。もし、今、自分が、両親に、あれもこれも、「だめ!」と言われてたら、どうだろう?きっと、爆発して「イヤ!」って叫びたくなる。さらに、「イヤ!」と言ったら、両親が、上から、仕方ない「イヤイヤ期だもんね」と言われたら?想像しただけで、イライラが爆発しそうになった。私たちは、これを娘に悪気もなくやっていたのか?この「悪気もなく」というのが、何よりやっかいで、恐ろしいと実感した。私たちの人生は、本当は、もっと自由で、もっと可能性があって、もっと笑顔で溢れているのに、私たちが、知らずの内に、小さなかごに、閉じ込めてしまっていて、苦しめてしまっているのかもしれない。もしかしたら、「イヤイヤ期」の本当の原因は、大人である、私たちにあるのではないか?と感じています。娘に聞いたら、そう教えてくれたのです。

共に育つことで、すべての問題がなくなる!?

私たちは、いつのまにか、「教える」ことが当たり前になってしまっています。大人は子供を教育するのが当たり前。ずっと、そう思ってきました。しかし、どうでしょうか?子どものためにと言っている教育は、大半が、大人の都合や、こうあってほしいという願望や、こうあるべきだという知識の思い込みで溢れていないでしょうか?娘と親も、大きな視点からみたら、同じ命。本当は、教えることなんて、本当はそんなになくて、共に育っていくことが大事なのではないか?と実感しています。

私たちは、いつのまにか、何か問題が起きると、外に原因を見つけようとします。そう、はじめて、娘の「イヤイヤ期」を感じた時も、保育園のせいにしようとしていたことに気づきました。そして、知識を求め、娘の心や身体を知って、問題解決をしようとしてきました。つまり、この問題を保育園や娘の問題だと捉えようとしていたのです。しかし、本当は、「私」にあったのです。娘の自我ではなく、私たち大人の自我が問題だったのではないでしょうか?それを、自我の芽生えと正当化してしまって、終わりにしてしまう自分を、恥ずかしく感じました。もしかしたら、娘から、自我の芽生えではなく、「共に生きる」という、大事なことを教えて貰ったのだと実感しています。もちろん、今回、学んだことを否定したいとかでは、決してないのです。モンテッソーリの学びは、本当に素敵だと思っていて、これからも実践していきたいと思っています。ただ、その前に、大事なことは、こどもに「教える」ということよりも、これからも一緒に学びながら、「共に育っていく」ということを忘れてしまってはいけないということだと、痛感したのです。この共に育つということを自覚しながら、歩んでいけたら、ほとんどの問題や悩みはなくなると確信しています。もっと言えば、問題が問題にならないということです。そして、この共に育っていくという道を歩んでいくことで、きっと、未来のこどもたちが、より笑顔で溢れると感じています。


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子どもに教えられたこと

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