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則天武后、西太后も愛したバラの花。奥深い中国バラの歴史。

こんにちは!fuacha(ファーチャ)プロモーションマネジャーのかおるです!私たちは「バラ」と聞くと、私たちは無意識にヨーロッパをイメージしてしまいます。もちろんバラを育んだのはヨーロッパであり、ヨーロッパを代表する花であることは間違い無いのです。

しかし、ヨーロッパに分布するバラ属の種は45種であり、バラ属全体の半数以下に過ぎないのです。

よし、じゃあバラの種類について調べてやろう!

と専門書を読み漁りましたが、まぁ派生した専門的な分類と、
誕生秘話・逸話・神話などが多いこと多いこと。
バラ好きでなければ、なんともややこしくて全体像を理解するのに苦しむほど。

文献を読む中でわかったのは、

”今日、多種多様なバラが存在しているのは、中国の影響が非常に大きい”

ということです。

細かい説明はややこしくて上手く説明できそうに無いので割愛します。

バラを表す3つの漢字

日本人は「バラ」のことを「薔薇」と表記しますよね。
中国ではバラを3つに分けて考えています。

「月季」(ゲッキ)観賞用のバラ。
「薔薇」(ソウビ)つるが伸びる観賞用のバラ。
「玫瑰」(メイグイ,メイクイ)食用・薬用・香りを楽しむ食香バラ。薬膳漢方にも用いる。

現代の中国ではあまり「薔薇」という漢字を使わない印象があります。

当ブランドオーナーで中国出身のしのてぃ氏によると、一般論ではないけれど、高齢者層は玫瑰を見て月季と呼ぶことが多いそう。
一方、若中年層は花束の贈り物になったものを玫瑰、公園や街角で見るものを月季と呼ぶことが多いと。

「月季」と「玫瑰」の使い分けは、バラの品種としての分け方もあれば、大衆文化の中で使い分けている部分もあり、なんともはっきりしないのです。

そして、なぜか日本には「薔薇」という漢字しか使わない、という点も不思議ですよね。

月季花(左側)岩崎灌園 『本草図譜巻』より

話が逸れましたが、
今回の記事で、特に注目したいのが3つ目の「玫瑰」。

中国には各地域にたくさんの「玫瑰」が存在しますが、食に利用するバラとして中国政府の認定を受けているのは山東省平陰(へいいん)県の玫瑰だけなんです。

中国政府お墨付きの平陰バラ

平陰バラは、中国 山東省 済南市 平陰県 玫瑰鎮(バラの村)で育てられた食香バラ(食・薬・香用)のことを指し、中国政府が定める「国家地理表示産品」の認定を受けた、いわば国家が定める特産品なのです。

平陰県は東に泰山、西に黄河、周囲を山々に囲まれた自然豊かな土地です。
泰山といえば秦の始皇帝陵があり、黄河といえば四大文明の地です。

陽が昇る前の平陰バラ畑。
自然に囲まれた土地で育てられている。


平陰バラには、単弁バラ(花びらが一重)、蕾バラ(蕾のままの状態)、重弁バラ(花びらが八重咲き状態)の3種類の品種が存在します。

このうち、3つ目の重弁バラが最も収穫量が多く広く販売されています。

重弁バラは大きな花が特徴で、一輪の花の直径8 cm、一輪の花の重さ6グラムまであります。
色は鮮やかな紅紫色、香りがとても強く、花びらは厚い、見た目も香りも良いのです。

平陰重弁バラ。
花びらが多くゴージャス。

平陰バラは、病害虫の被害がほとんど無く、無農薬で育てることができます。むしろ化学肥料ばかりを使用すると、苦みやえぐみが強く感じられるようになってしまうと言います。

唐の時代から始まった栽培の歴史

平陰バラは約1300年ほどの栽培の歴史があり、唐の時代にまで遡ります。

伝説によると平陰バラは唐の時代、平陰の翠屏山宝峰寺の僧侶である「慈净」が、翠屏山の周囲にバラを植えたのが始まりだと伝えられており、その後広く栽培されるようになったと言い伝えられています。

中国史史上唯一の女帝である則天武后は、「朝はバラの露を飲み、夜はバラの花びらを敷いて寝た。彼女は60歳だったが、血色の良い玉のような肌であり、活力に満ちていた。」という伝説が残されています。

則天武后は唐の高宗の皇后でしたが、その後実権を握り武周朝の女帝となります。強い権力者のイメージがある則天武后も、実はバラの花に心躍らせる乙女な一面もあったのかもしれないですね。

武則天(則天武后)
wikipediaより

古代の中国では一年中使えるよう天日干しに加工していたようで、そのことからも人々はバラに様々な効能が隠されていると見抜いたことが伺えます。

古代中国の中医学書『本草綱目』『食物本草』では、バラの薬効が高く評価されています。

清代末期には大量生産を実現できるようになり、清の咸豊帝の側妃・西太后は美しさを保つため、毎日バラの花の飲み物を飲んでいたと言われています。

晩年の西太后写真 
wikipediaより
確かに肌つや良さそう…

1938年に日本軍が平陰の町を占領するとバラの輸出が困難になり、人々はバラの栽培をあきらめ穀物の生産を始めたといいます。占領解放前は、街の生垣に300-400程度の花が残されているだけだったそうです。

中華人民共和国が成立すると、政府はバラの生産に力を入れ始め、価格を断続的に引き上げていきました。その後大量生産を実現し、平陰はバラは特産品として、山東省から全国に広がったのです。

平陰バラ食用史

バラを原料とした加工食品は、明代の頃からよく見られるようになります。

平陰の人々はバラの花びらを、花酒、バラ茶、バラ醬(≒バラジャム)、バラケーキ(蒸しパン)等様々なものに加工していました。

バラ醬 
baidu百科より

清朝乾隆帝の時代には、平陰バラを使った名物料理が誕生します。

平陰出身の役人「孫光祀」は文武両道で基地に富んでいるだけでなく、特産品の開発にも熱心でした。彼は料理人と試行錯誤を重ね、地元の平陰バラと梨を用いた「玫瑰梨団子」を開発します。玫瑰梨団子の形の美しさ、サクサクとした食感、味の良さから、当時の役人達や賓客から絶賛され、その後、宴会の席では欠かせない逸品となったそうです。

なんというか、、、
コロッケみたいですよね。

玫瑰梨団子(バラ梨団子)
【作り方】
梨を千切り、水気を絞り、小麦粉をまぶす。
手のひらに広げバラ餡
(バラ醬・ナッツ・砂糖を練ったもの)
を入れて丸く成形する。
片栗粉をまぶし黄金色まで揚げる。

更に中国茶の世界でも脚光を浴び始めます。
2002年北京世界茶博覧会では、平陰バラの花茶が絶賛されます。

会に出席した専門家たちは平陰バラ茶を「神茶」「中国茶界の新スター」と評し、その後、生産販売が右肩上がりに伸び「バラの郷」として有名になっていったのです。

バラの花茶 
これにお湯を注ぐと花びらから
色とエキスが出てバラ茶になる。


ここまで見てきたように、平陰バラは、長い年月をかけてブランドとして確立され、食用・薬用として人々の生活に欠かせない花となりました。

そして、バラは古代中国から現代に至るまで愛され続けきた「東洋の花」でもあったわけなのです。

平陰バラを使った「バラの花冠茶」

fuachaはブランド第一弾の商品として、平陰バラの花蕾を贅沢に使った「バラの花冠茶」を発売予定です。

fuachaのバラの花冠茶
平陰バラのみを使用。
女性に嬉しい効能がたくさん。
いわゆる茶葉にあたるバラの花。

fuachaの「バラの花冠茶」の詳細、効能については、過去記事をご覧いただけましたら幸いです。↓↓

《参考資料》
・『図説 バラの世界』大塚秀章 著
・baidu百科「平阴玫瑰,如何成为一方特色」
・baidu百科「孙光祀」
・株式会社Flos Orientalium HP「食香バラとは」
・GARDEN STORY「バラのある暮らしをより豊かにしてくれる「食香バラ」」


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