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短編小説:『「罪と罰」を読まない人生について』


「『罪と罰』を読まない人生でいいのかしらって、今日の朝、とつぜん」
あの人がそう笑う。
「それで気がついたら、開店と同時に本屋さんに行ってたってわけ」

「『罪と罰』を読まない人生でいいのかなって思っちゃって。仕事の前に本屋に駆け込んだんです」
「なんだそりゃ」
横田さんは守衛室で日誌を書きながら、笑った。
「いや、あんなに有名な本なのに、僕はそれを知らないままに死んでいくなんてどうかなって思ったんですよ」
「お前やっぱ、変わってんな」
そう言って、横田さんは白髪混じりの自分の髪の毛をなでつける。

6月の終わり、早朝の4時過ぎ。
見回りをしに歩き出すと、生ぬるい疲労が体にかかっていることに気がつく。
何回歩いても朝方のビルの気持ち悪さには慣れない。
湿気と、よどんだ空気。
ほの暗い廊下を、懐中電灯で照らしながら歩いていく。

「お前みたいなヤツがどうしてここにいるんだ?」
はじめて会ったときに、横田さんは僕にそう言った。
ビル警備の仕事は、歳をいった人がく、たしかに、30なかばの僕は浮いていた。
僕は右目を指さして言った。
「こっちが使いものにならなくなっちゃって」

右目を失明したのは僕が29歳のときだった。
朝起きると、右だけが、もやがかかったように見えた。
それでも会社に行って、パソコンに向かった。
そして、その夜にはもう完全に、見えなくなった。

トイレの扉を開ける。
すると、鏡に影がうつった。
僕は思わず、わっと声をあげる。

マヌケな顔をした僕の姿が鏡越しに僕をみている。
僕は懐中電灯を洗面台の脇におくと、蛇口をひねった。
手に、冷たい水が響く。
水をすくうと、顔を洗った。

一瞬キーンと、耳鳴りがした。
それから、声がした。
「『罪と罰』を読まない人生でいいのかしらって、今日の朝、とつぜん」

バッと顔をあげると、びしょびしょに濡れた自分が鏡にうつった。
水が排水口に、ごうっと音を立てて流れる。
僕は蛇口をひねった。

夜勤を終えると、10時過ぎの電車に乗り込んだ。
ラッシュは過ぎ、車内の人はまだらだった。
僕は、3人席の一番角の椅子に座ると、『罪と罰』をひらいた。
だけど、文章は全然頭に入ってこなかった。
左目だけの読書は、実はなかなかに大変な作業だった。

「『罪と罰』を読まない人生」
心の中でそう唱えた。
なんて、彼女らしい言葉だろう。
『聖書』を読まない人生、『源氏物語』を読まない人生、『存在と無』を読まない人生、なんだって、置き換えはできる。
ようは、その言葉の仰々しさだ。
どこか、意味のあるようにみえる言葉の羅列。
そうやって、彼女は、自分や、僕や、他人に、マジックをかけた。

「あなたは特別なのよ。だから、人とは違うことが起きた」
目がみえなくなって、ベッドに横たわる僕に、彼女は言った。
声は、上ずり、僕のこの、突然のアクシデントを羨望しているかのようだった。
僕は、それまでずっと、彼女になれたらどんなにいいだろうと思っていた。
彼女に吸収して欲しいとさえ思っていた。
だけど、ベッドから仰向けに見る彼女はもう、他人だった。

片目を失ったとき、僕はこの暗闇は自分にしか理解できないものなのだと直観した。誰とも分かち難い孤独を感じた。
それから、彼女と僕は切り離されてしまった。
だけど、それは本当に「特別」というのだろうか?

僕は少し息苦しくなって、視線を上にずらした。
すると、電車の中吊りの、週刊誌の広告が飛び込んでくる。
下世話でセンセーショナルな言葉たち。
だけど、それらと、僕が今持っている『罪と罰』のなかの言葉はそんなに違うものなんだろうか。


窓から差し込む陽の光が、電車の手すりに反射して、光った。

まるで彼女のようだ、と思った。
日常にさしこむ、幻のような光。

好きだった、と思った。
演技じみた言葉を吐き出すような彼女が。
僕を特別だと言ってうらやましがるような彼女が。
たとえ、僕のことを飲み込んでしまうような人でも、
でも、僕は、好きだったのだ。

「『罪と罰』を読まない人生」
口の中で小さく、発してみる。

僕は、壁に重たい身体をよこたえた。
そして、『罪と罰』をぎゅっと抱きしめた。

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