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一日のなかで「逃げなかった」という記憶を増やす

21時6分。夜ご飯を食べ終わった。今日は鮭の焼き魚、とろろ、湯葉のお刺身。あおさが入ったお味噌汁。そして実家から届いた新米を炊き立てでいただいた。

食事中はParaviで『孤独のグルメ シーズン10』の第4話を流していた。食後に画面を閉じようとして、ふと目に入った『あちこちオードリー』に中田敦彦氏が出演している回があり、思わずクリックしてしまった。

そのあと食器を片付けつつ、はてなブックマークのホットエントリーを読み漁っていたらしい。

少年ジャンプ+の『キライキライネーム』という読み切りが今日はバズっていて、読み始めたらめちゃくちゃおもしろくて最後まで読んでしまった。

「らしい」というのは、食後に何をしていたのかほとんど記憶がないからだ。画面のログを自動で記録してくれるアプリの履歴を見ながらこれを書いている。


記録によれば22時10分にこのnoteを書き始め、22時32分、いまに至る。

21時6分にご飯を食べ終わった時点で僕はnoteを書こうかな、と思っていたはずなのだ。しかし書き始めるまでに1時間かかっていて、しかもその間なにをしていたのかをすっと思い出せなかった。わずか1時間前のことなのに。

この時間は「無駄」だったのか。いや、けっして無駄ではなかった。この1時間のあいだに僕は食器を片付けた。『あちこちオードリー』も『キライキライネーム』もおもしろかった。そして頭の片隅では今日はnoteに何を書こうと考え続けていた。

それでも、この時間を全面的に肯定できない自分がいる。それが解せない。

この時間は僕にとって「コントロールできていない」時間だった。それが不満なのだろうか?

「食後で眠い。もうこのままベッドに横になりたい」という欲望に抗っていまパソコンの画面に向かっていられるのは、この1時間で意志力を回復させることができたからだ。

脳を休ませる時間は必要だ。でも、おそらく僕は「流されて休んでしまった」ことに納得がいっていないようだ。

「よし休むぞ」という意思決定もせず、「よし書くぞ」という意思決定もしていない、ただただ思考と行動の流れるままに過ごしてしまったことを反省しているようだ。


もっともっと細かいことをいうと、こうして文章を書いている最中も、続きの内容が出てこないとすぐに髪をさわりながらぼーっとしてしまう。脳にストレスがかかると、肉体に単純な刺激を入れて気を紛らわせようという衝動が自動的に働いている。

髪をさわっていると、意識がいま書いている文章から離れていく。「ぼーっとしている」状態になる。これは思考が文章から逃げようとしているのだ。

ここで逃げようとする意識をぐっとこらえて目の前の文章に留め続けることができると、執筆は一気に進む。

僕がいまいちばん欲しいのは、この忍耐力なのだ。

これは筋肉と同じで、「思考が逸れそうになったら耐える」を何度も繰り返すことで鍛えられていくような感じがする。

倉園さんは「少なくとも3回は耐えないと書き始められない」と言っていた。僕もこの「3回」という数字には僕もなんだかすごく同意できる。

目の前の仕事や創作から逃げたいという衝動に、3回耐える。耐えて机に向かい続ける。すると僕の中の何かが、あるいは創作の神様のような何かが自分の味方になってくれるような感じがする。三顧の礼という故事もあるくらいだ。三という数にも何かしら意味があるのだろう。

そうか。いまの僕がほしいのは「逃げなかった」という記憶なのかもしれない。

「時間を効率的に使いたい」とか
「いい文章を書きたい」とか、そういうこと以上に

「今日は逃げなかった」

という勝利の経験がほしいのかもしれない。

文章を書いていると、手が止まる瞬間が何度もある。そういうときに思考をそらすことなく、書いている文章に意識を留めおきつづける。

そのことを強く意識しながらここまで文章を書き進めてみた。うん。たぶんこの感覚だ。いま向き合いたいのはこの感覚だ。

自分が鍛えたい筋肉を発見したボディビルダーって、きっとこんな気持ちなのかもしれないと思った。

読みたい本がたくさんあります。