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癒やされようとするよりも「思いがけず癒される」くらいがちょうどいい

海岸に漂流するゴミがテレビに映る。「世界は汚れている」と感じる。義憤にかられ、環境問題に思いを馳せる。自分にできることは特にない。いつもと同じ結論に至る。ゴミを拾いにいけばいくらかは世界に貢献できるのだろうか。考えるだけで行動には移さないが。

トモさんに頼まれた買い出しからの帰り道、目の前を歩くお兄さんが、飲みかけのペットボトルを道端に置いた。そしてそのまま立ち去っていった。僕はなんとなくそれを拾った。家に帰って中身を台所に流し、ラベルを剥がしてペットボトルのゴミ箱に放り込んだ。

体格のいい男性に「ゴミを捨てるな」と注意はできなかった。そんな自分の情けなさが、来週の水曜日まで自宅のゴミ箱にあり続ける。

このあたりが自分の「いい人」としての限界だなぁと思う。目の前で捨てられたゴミは拾えるが、それを注意することはできない。

いい人であろうとするのをいつの頃からかあきらめた。自分は思っていたより臆病だった。なまけものだった。

心のなかにもゴミは溜まる。我慢して見てみぬふりをした思考や感情は、こころのなかをゆらゆらと漂流し、僕という小さな地球のどこかの岸に流れ着く。僕は僕の地球の神だから、どの岸のゴミだっていつでも片付けられる。しかしなかなかどうして重い腰があがらずに、ずっとそのままになっている海岸がたくさんある。もしかしたら、この地球の色々な問題も、神様がただめんどくさくて放置しているだけなのかもしれない。

執筆教室では「ありのままに書く」ということを倉園さんはよく言う。

「ありのままに書く」ことを僕は、過去に起きた出来事をよく思い出して

「そのとき何を感じていたか?」
「どんな景色が見えていたか?」
「誰がどんな服を着ていて」
「どんな表情で」
「どんなことを言っていたか?」

そういうことを事細かに思い出して書くということだと思っていた。でも半年ほど倉園さんの朱入れをみていて、僕は少し勘違いをしていたことに気づいた。

よく見るべきは

「いままさに心のなかにあるもの」

だったのだ。

それは過去にあった事実とか真実とか客観的に正確に書くということではなかった。

いまの自分の心に映るのはいつだって、もうすでに脚色され、編集され尽くした映像だ。これまでなんども折に触れては思い出し、僕をざらつかせる意味が与えられてきた。それは「怒り」とか「悲しみ」とか「恥」とかいうラベルが貼られている。

なんのために思い出すのか?  怒りを忘れないためだ。いやな気分になるためだ。勝手に思い出されるわけではない。折に触れて「やっぱり自分はダメなやつ」「世の中は怖いところ」そんな気分に浸りたいから思い出す。わけがわからないが、そういうことを僕らはクセでやる。

自分が被害者であり続けるために、自分を守り続けるために、また怖いめに合わないために、僕らはいやな思い出を、いやなままでなんども取り出して反芻する。でもこんなクセいらない。自分を守るにしたって維持コストがかかりすぎだ。要領が悪すぎる。やめたい。

デトックスと称して、苦しい記憶を書き起こすということもよくやった。紙に鬱々とした気分を書いて細かくちぎって捨てるとたしかにスッキリする。

「なんかいやな思い出」と雑に分類された記憶が、いまの自分に引き出され、書くことで編集が入る。そして少し意味が変わる。「まぁ、そんな経験を経たいまの自分もわるくない」そんなふうに少しだけ思えるようになるからだろう。カテゴライズから解放された記憶は自由になる。

でも実はもっといいやり方がある。その記憶を誰かのために使うのだ。

大学生のときのコンプレックスを本に書いた。そうしたら、あの悶絶するような恥ずかしい記憶の意味がすっかり変わってしまった。

コンプレックスを昇華するために書いたわけではない。本をつくるさなかで、著者の僕がどういう人間なのかを説明する必要があった。どんな話を書いたらいいのだろうと、編集の人と一生懸命考えていた。そのときにふと、当時の黒歴史が思い浮かんできたのだ。

誰かのために何かをしていると、とにかく使えるものは何でも使おうという気分になるときがある。このモードのとき、なぜか人間は自分のことを棚上げできる。打算が働かない。目の前で迷子が泣いていたら時間がなくても声をかけてしまう。少なくとも声をかけねばと葛藤する。そういうモードがたしかに自分のなかにもある。

とにかく役に立つ本をつくりたいとおもって、自分の過去をむしり取った。出来上がったものをみたとき、あの嫌な記憶が、本という商品の一部になっていた。黒歴史に値段がついた。

誰かのために自分が使えるものは何でも使う。そんな感じでやっていると思いがけず自分自身も癒やされることがある。残念なことに「自分が癒やされたい」という利己的な動機でがんばっているときには何故か受け取ることのできないギフトだ。

創作は辛いものだと思っていた。つらい人生を歩んだ人でなければ、人を感動させるものなんてつくれないと思っていた。

もちろん、特別な経験がある人にしかつくれないものがあることはたしかだろう。

でもその「特別な経験」とやらが、つらいかどうかは関係がない。天才たちは、濃密な経験を濃密にアウトプットしているだけなのだ。

いや、そもそも経験に濃いも薄いも本当はないのかもしれない。ただ、彼らはよく見ているだけだ。普通の人よりも、自分に起こる出来事をよく見ている。

同時に、彼らはそれを誰かのために形にしている。誰かに届いてほしいという祈りによってつくっている。

臆病者だからこそ、なまけものだからこそ届けられるものもある。


CM

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