満足するまで助ける。
#20230808-191
2023年8月8日(火)
懲りて改める。
つらく嫌な体験を通して、自分自身の行動を振り返り、再びしないよう気を付ける。
この方法がノコ(娘小4)に使えたら、どんなに楽だろう。
少しは見通しがきく人生の先輩として、そして老婆心もあって、ノコにいう。
――こうしたら、こんな大変な目にあうかもしれないよ。
――だから、こうしたほうがいいよ。
だが、返ってくる言葉はヘリウムガスより軽そうな「大丈夫、大丈夫」。
もしくは、「知ってるし!」という怒声と睨み、ドンと床を踏み鳴らす音。
そうだよね、経験しないとわからないよね。口でああだのこうだのいわれても、まだ9年しか生きていないものね。想像できないよね。大人の心配のあまり先まわりした声掛けは余計なお世話、お節介だよね。
たかが9年。されど9年。
少しずつ蓄積されてはいる。チンプンカンプンだった四季の巡りも少しわかってきた。
経験に勝るものなし。
そう自分自身にいい聞かせて、ノコを「見守る」よう心掛けている。
これは目下最大の気掛かりである夏休みの宿題に限ったことではない。
生活面にもあてはまる。
脱いだら脱ぎっぱなしの服たち。出したら出しっぱなしの物たち。片付けについては、ノコの片付け能力ではなく、片付けにくい仕組みなのかと度々見直している。肘をついたままの食事。または、左腕をダランと垂らしたまま、食器に手を添えない犬食いに近い食べ方。
一応無視されようが、不愉快になる態度で返されようが、声掛けはする。
いつか、いつの日か、「あぁ、ママ(パパ)がいっていたのはこういうことだったのか」と気付いてほしいと願っている。
懲りて、改める。
これがまかり通る親子は、私が考えるに「信頼関係がしっかりできている場合」だ。
親子の信頼関係ができていないと、「見捨てられた」「見放された」に変換され、どんどん膨らみ、容易に「私のことなんて、どうでもいいんだ」「私なんて、どうせいらないんだ」となりうる。
どうしてそんなふうに思っちゃうの!
そう嘆きたくなるが、実にあっさりそう思い込む。
子どもの心に「受け入れられている安心感」「愛されている充足感」があって、はじめて懲りて行動を改める行為が成り立つのだと思う。
現在進行形で、ノコの夏休みの宿題への取り組みを「見守っている」。
提出日に終わっていない場合。ノコがパニックになり、泣き叫ぶだけでなく、怒りだしたとしてもそこで「ママ(パパ)は知りません」といってはいけない。
いいたくなるけれど、それはいっちゃあいけない、と思っている。
この状況でのその台詞は「あなたはいらない子」といっているのと同じだ。
「ずっと『提出日までに終わりそう? 大丈夫なの?』って尋いていたよね」と1回くらいはいってもいいだろう。何度も繰り返すと念押しではなく、嫌味になってしまうから避ける。
とにかく励まし、手伝い、なんとかかんとか乗り切るしかないだろう。
それじゃあ、「経験から学ばない」「また繰り返すに決まっている」と心のなかでもう1人の私が騒ぐ。まったくその通り。私も繰り返すと思う。
あぁ、「困ったときにはママ(パパ)が助けてくれるし~」という甘ったれちゃんが誕生しそうだ。
だけど、こうするしかないように4年間ノコを育ててきて感じる。
この子は生まれてから我が家に来るまで、手をさしのべられた経験が圧倒的に足りないのだ。もちろん乳児院、児童養護施設の方々はよくしてくださったと思う。だが、それがノコが望むより少なければ満たされない。
4年という年月ではない。乳児から里親に育てられて4年の里子とノコは違う。同じ4年でも乳児から育てられた里子は、その成長過程でたくさん手をさしのべられたことだろう。
年月ではなく、子どもが満足できているかどうかだ。
「私には何があっても助けてくれる人がいる」とノコがわかったとき、はじめて「懲りて、改める」行為が効き目をなすのだと思う。
まだ、ノコにそれをしてはならない。
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