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年齢を重ねることは、私のなかの「当事者」を増やすこと。

#20241021-479

2024年10月21日(月)
 幼い頃から本が好きだった。
 文章から見たことのない景色や人物をこまかに思い描くことは、楽しみでもあった。
 体が弱く、寝込むことが多かったため、よく布団のなかから天井を眺めては、あれこれ夢想した。

 想像力があると思っていた。

 50歳を過ぎて、それは慢心だと気付いた。
 確かに「ああだったらいいな」「こうだったらいいな」と頭のなかで描く力、文章を読んで広げる力は、多少人よりあるのかもしれない。
 だが、この想像力が「他者の身になって」となった途端、威力をくす。

その状況、その立場にならないとわからない。

 この体はひとつだし、時間だって限りがある。あれこれ体験できるわけではない。楽しく、心躍ることならいいが、苦しいこと、辛いことは少ないほうが嬉しい。
 体験せずとも「その人の身になって」心を寄せる。

 共感ということだろうか。

 共感する力が高過ぎても、しんどいかもしれない。
 医師など、危機的な状況の人に接し、冷静に判断しなければならない職業の人は高過ぎるとむしろ不便だと聞いたことがある。確かにいちいち痛みに共感していたら、処置の手が鈍るかもしれない。
 共感はしないが、そういう状況であることを理解しようとする姿勢が大切なのか。
 同じように「痛い」と感じはしないが、「痛い」というその声を無視することなく、状況をわかろうとする。
 私が思う「他者の身になって」は、そういう意味のようだ。

 私と同じ年齢でも小学5年生の子どもがいる人もいる。だが、その割合は少ない。いたとしても第一子ではなく、兄姉がいたりする。
 我が家の小学5年生の娘は里子である。つまり、私は高齢出産をしたわけではない。里子であることは隠してもいないが、だれかれにもいっていない。
 親子の年齢差を考慮してなのだろう、私は実年齢より若く見られることがある。
 読み聞かせのボランティアの集まりでは、確かに私は年若いほうに入る。
 プライベートな話はあまりしないが、それでもちらちらと孫の話や高齢の親の介護の話が耳に届く。
 おそらく、私はそのどちらの話題にも適さず話しても仕方がないと思われていたのかもしれない。

 読み聞かせのメンバーとはボランティアのときに会うくらいで、住んでいる地域は重ならない。
 その気安さからだったのか、私は父のことをぽろりと打ち明けた。
 主治医に余命が短いといわれたこと。今日はスケジュールが合って、このボランティア活動に参加できたが、今後欠席が増えるかもしれないこと。

 すると、「私もね」と困難な状況にある身内のことを口にする人がぽつぽつと現れた。
 ――夫が長く患っている。
 ――高齢の親のもとへ毎日通っている。
 ――夫を亡くしたばかり。

 状況はみな違う。
 いわなくとも、だれしもなにかしらの事情を抱えているとは思っていたが、その過酷さに舌を巻いた。比べることではないが、つい先月父の余命を告げられた私はまだ序の口に見えてしまう。
 しかも、父は日々様態が変われど、自分の足で歩いている。軽口を叩き、新聞を読みふけり、私と母の他愛もないお喋りに笑みを浮かべている。少しずつ少しずつ命が細くなってきているのは感じるが、一見元気だ。

 年齢を重ねることは、経験が増えることだと思っていた。
 だが、さまざまな「当事者」になることだといったほうが今の私は納得できる。
 もちろん経験が増えるからこそ、いろんな状況の当事者になるのだが、「経験」より「当事者」という言葉を使ったほうが私の顔が増えるように感ずる。
 私はこの面ではこの人に近く、あの面ではあの人に近い。
 あらゆることの当事者になった私が増殖していく。

 想像力で「他者の身になる」ことは難しくとも、年を重ねて増えた「当事者」の私は他者に近くなり、以前より寄り添うことができる。
 相変わらず「他者の身になる」想像力は乏しいが、年齢がそれを補ってくれる。
 私のなかで増えた「当事者」が他者に歩み寄っていく。
 それが年を重ねるということなのだと、秋の高い空を見上げてふと思った。

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森谷はち🐝里母&子育て&読み聞かせ
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